カツッカツッと、教師が黒板にチョークで文字を書いている音がする。
 静かな教室内にその音だけが響いていたが、ふとその音が止まった。
 今、3年6組の授業をしていた教師が、あることに気づいたからである。
 「時任っ、授業中だぞ!」
 久保田が眠っているのはいつものことだから教師はまったく気にしなかっただろうが、今日はなぜか時任が机に突っ伏して眠っていた。普段はうるさ過ぎるくらいうるさいが、静かにしていてもやはり目立つ。
 教師は時任を起こそうと、時任の方へ歩き出す。
 けれど、ふとある視線とぶつかってその足を止める。
 その視線が教師に向けられたのは一瞬のことだったが、教師の足を止めさせるには十分だった。
 「教科書、38ページを開け」
 教師は教壇に戻ると、何事もなかったかのように授業を再開する。
 この教室で時任が眠っていること以外に変わっていることといったら、それは、逆にいつも眠っている久保田が起きていることだった。
 しかも、起きているだけではなく、珍しいことにノートを取っている。実は、そのノートは久保田のものではなく、時任のノートだった。
 「ったく、しょうがない奴らよねぇ」
 クラスメイト達は気づかなかったようだが、桂木は教師の足を止めさせたのが久保田だということに気づいていた。時任が具合が悪くて寝ているということも…。
 「ほんっと、アイツらと一緒にいると飽きないわ」
 その桂木の呟きが聞こえたはずはないのだが、久保田がなぜか桂木の方を見て薄く笑みを浮かべている。それに対して桂木は、あきれたように肩をすくめてみせた。
 そうしている間も、静かに授業は進んでいる。
 じっと身動きせずに眠っていた時任が目を覚ましたのは、終了のチャイムが鳴ってからだった。
 「あ〜、良く寝た」
 そう言って大きく伸びをして起き上がった時任だったが、その動きもなんだか気だるそうである。そんな時任の前にスッとノートが差し出されたが、時任はムスッとした顔でそのノートを受け取った。
 ノートを差し出したのは、もちろんさっきまでこのノートを書いていた久保田である。
 「まだ怒ってんの?」
 「…ったりめぇだろ」
 「そんなに怒らなくても、ねぇ?」
 「久保ちゃん」
 「ん〜?」
 「この次の授業がなんだか言えっ」
 「確か、体育だったっけ?」
 「だったっけ? じゃねぇっつーのっ!!」
 時任が久保田に向かって拳を繰り出す、だが勢いがないのでかすりもしない。
 時任の拳を手で捕らえた久保田は、時任の手を握ったまま、その耳元に顔を寄せた。
 「なんだったら、お休みする? 俺と一緒に」
 「ぜってぇヤダっ!」
 「じゃあさ、倒れたら運んであげるよ」
 「倒れねぇっ!ぜってぇ、倒れねぇかんなっ!」
 「う〜ん、残念」
 「何が残念なんだっ、なにがっ!!」
 これ以上ないというくらい密着して話している二人に、クラスメイトの視線が集中している。いつものことといえばいつものことなのだが、どうしても見ずにはいられない。
 久保田はゆっくりと腕を伸ばし、時任の肩を掴んだ。

 「時任」
 「久保ちゃん…」

 「天誅っっ!!」
 パンッ! パンッ!!
 「いってぇっ!」
 桂木のハリセンが二人の頭に炸裂する。
 クラスメイト全員が、その音によって呪縛から開放された。
 「なにすんだよっ、桂木!」
 時任が桂木を怒鳴りつけると、桂木は腰に手を当てて時任を睨み付けた。
 「朝っぱらから有害すぎんのよっ、あんたたちはっ!」
 「だれが有害だっ、だれがっ!!」
 「十八禁指定貼るわよっ!!」
 桂木の迫力に押されて、時任がぐっと言葉につまる。
 すると横から久保田が出てきて、二人の間に割って入った。
 「まあまあ桂木ちゃん。熱くならないで」
 「あんたのせいでしょうがっ」
 「あれ、そうなの?」
 「…ったく」
 桂木は頭を抱えていたが、久保田は平然としている。
 久保田は時任と違って、すべてわかってやっているのだった。
 つまりそれは、牽制とも言う。
 「時任、行くよ」
 「あっ、待てよ。久保ちゃんっ」
 二人が教室を出て行くと、桂木だけではなく、その場にいた全員が深々とため息をついた。




 体育の時間というのは、つまりスポーツをする時間ということである。
 スポーツをするには、やはり制服ではできない。
 そのために、体操服はあるのだった。
 三年六組の次の時間は体育。
 着替えるために集まった六組の男子生徒達は、それぞれのロッカーの前で着替えをしていた。早く着替えなければ体育が始まってしまうからである。
 「ううっ…」
 たが、その中で一人だけ、自分の着ているカッターシャツのボタンに手を伸ばしたまま、止まっている者ががいた。
 授業の中で体育が一番好きな時任である。
 時任はなぜか赤い顔をしてじっと立っていた。
 「やっぱダメだ…」
 こんな大勢の人間に囲まれていては、ささっと着替えても見られてしまうに違いない。
 いつもはなんとか隠せる量だったが、今日はハンパではなかった。
 「どしたの?」
 時任が脱ぐのを躊躇している理由を知りつつも、久保田が呑気な口調でそう言う。
 そんな久保田を見た時任は、拳をフルフルと震わせた。
 「てめぇは…」
 「なーんてのはウソ。ほら、前に立っててあげるから着替えなよ」
 久保田は時任のロッカーを開けると、開いたままのロッカーを手で押さえ、その前に立った。中にいる時任を隠すために。
 「これなら大丈夫っしょ?」
 「…うん。さんきゅ、久保ちゃん」
 「どういたしまして」
 完全にとはいかないまでも、これなら外からあまり見えない。
 けれどやはりここでも二人に視線が集中していた。

 「な、なぜ、俺達の前じゃ着替えられないんだ…」
 「そりゃあ、決まってんだろ。た、たぶん、アレじゃないか?」
 「アレって…」
 「だぁぁっ、やめろっ。あいつらはオトコ同士だぞっ」
 「お前、このガッコでそのセリフはねぇだろ?」
 「ま、まさか…、てめぇもそうなのか?」
 「ち、違うっ」
 「どもるトコがあやしい…」
 
 時任と久保田のせいで、男子更衣室に奇妙な空気が流れている。
 だが、そんな空気などおかないなしに、時任は着替えを始めていた。
 カッターシャツのボタンを一個ずつ外していくと、首の付け根の辺りから鎖骨にかけて無数の赤い痕があらわれる。次々とあらわになる赤い痕を、じっと久保田の視線が追っていた。
 「…あんま、見んなよ」
 「なんで?」
 「は、恥ずかしいじゃんっ」
 「今更、恥ずかしがらなくてもいいっしょ?」
 「恥ずかしいもんは、恥ずかしいっての」
 「時任…」
 時任の顔が羞恥に赤く染まっている。
 久保田の顔をまともに見れなくて、そっぽを向いた瞬間に、昨夜の痕が無数に散った肌が艶かしく久保田の目にうつった。
 久保田は時任を隠した姿勢のまま、頭だけを倒して、時任の肩に口付ける。
 すると時任の肌がほんのりと赤くなった。
 「ば、ばかっ、なにすんだよっ」
 「あんまり色っぽいから、ちょっとだけつまみ食い」
 「つ、つまみ食いって…」
 「ご馳走さま」
 「・・・・・っ!!」
 耳元で囁かれて、時任はすでに半泣き状態である。
 昨夜、久保田に翻弄され続けた身体は、まだ完全に熱が引いていなかった。

 「今、久保田がなんかしなかったか?」
 「さ、さあ?」
 「錯覚だよっ、錯覚っ」
 「いや、錯覚じゃなくて幻覚だろう…」
 「天気いいなっ、今日」

 クラスメイト達はすでに現実逃避を始めていた。
 やがて時任の着替えが終わったのだが、その襟元からは赤い痕がのぞいている。
 誰もがその痕に視線が吸い寄せられたが、時任の横に立つ人物から漂ってくる空気にハッと我に返った。
 …これ以上見たら殺される。
 そう、なぜか誰もが思ったのだった。


 

 「今日はバスケを行う。チームは出席番号で順番に分かれろ」
 体育教師の指示によって、生徒達がチームに分かれる。
 時任の体調が万全ではない時にだというのに、本日の体育はバスケだった。
 本当なら、保健室で休んでいた方がいいのだろうが、その理由が理由だけに時任が休むことを潔しとしない。自分とチームが分かれてしまった時任を見て、久保田は小さく息を吐いた。
 「なんにもなきゃいいけどねぇ」
 時任はいつも無茶をする。それは、自分の限界を知らないようなところがあるからだった。他人を気遣うなんていうのは久保田のガラじゃなかったが、それが時任となれば話は別である。
 時任の問題は久保田の問題なのだった。
 久保田のチームの試合は三番目だったが、時任の試合は一番目。
 例によってジャンパーを買って出た時任が、コートの中央に立った。
 「俺様の華麗な活躍を見せてやるぜっ!」
 体調が悪くても時任は時任である。
 教師がボールを投げると、時任は思いっきりジャンプした。
 「どりゃあっ!!」
 けれどその瞬間、コート内にいた者はボールではなく別なモノに視線を奪われた。
 それは、ジャンプした瞬間に時任の体操服の裾ががめくれたからである。
 ふわっとめくれた場所には、赤い痕が無数に散っていた。
 時任の手がボールを捉えて、自分のチームの奴に目がけてボールを弾いたが、そのチームメイトは顔面でボールを受けた。
 バシィィィンッ!!
 「ぐあっ!!!」
 時任が打ったのだから、並みの威力のボールではない。
 そいつは鼻血を流しつつ、その場に倒れた。
 「なにやってんだよっ!」
 時任がそう怒鳴りつけるが、鼻血まみれなので試合に出ることは不可能。
 選手は補欠要員を補充して試合続行となる。
 だが、チームメイトの必死のお願いにより、時任はジャンパーを下ろされてしまった。
 「なんなんだよっ、一体!!」
 時任は不服そうだったが、やはりこれは妥当な判断だろう。
 これ以上、あんなモノを見せ付けられてはたまらない。
 実はすでに、コート内の人々の頭の中ではあらぬ妄想が展開されていた。

 『時任…』
 『あっ、ダメだって』
 『そういうトコもかわいいよ』
 『久保ちゃん…、あぁっ…』
 
 男同士というだけで拒絶反応が出そうなものだが、なぜか時任と久保田ならビジュアル的にも大丈夫なような気がした。普段、いちゃいちゃするところを見せ付けられているので、妄想の具合もかなりイっちゃっている。
 昨夜のせいでいつもよりけだるそうだし、襟元からはその痕がのぞいているし、時任は自分でも気づかぬ内にそこら中に色っぽい空気を振りまいていた。
 「くそっ、なにやってんだよっ!!」
 チームメイトの動きが鈍いので、時任がイライラしながら怒鳴る。
 けれど効果はなし。
 「ちぃっ!」
 時任は舌打ちすると、ドリブルで強引に敵陣に突入した。
 けれど、いつもより動きが鈍いのは時任も同じなのである。
 急激に運動したので、目の前が一瞬クラリと揺れた。
 「あれ…?」
 時任は自分の視界が揺れるのを不思議な気持ちで見る。
 その次の瞬間、ガードにきた敵のチームに押されて、時任は派手に床に転がった。
 「うわっ!!」
 時任が転んだのに巻き込まれて、敵チームの奴もバランスを崩す。
 そいつは、ちょうど時任の上にのしかかるような形で転んだ。
 ドタッ!!
 「いてっ!」 
 転んだうえに上からのしかかられて、時任の顔が痛そうに歪む。
 審判の教師が笛を吹いた。
 「うっ…」
 少しの間うめいていたが、すぐに避けると思っていた敵のチームの奴が自分の上から避けないので、
 「早くどけよっ!!」
と、時任が怒鳴る。
 だが、そいつは少しも避けようとしない。
 時任は強引に上から退かせようと上体を起こして睨みつけた。
 「おいっ、てめぇ…」
 しかし、何かを言おうとした時任の言葉が途中で途切れる。
 その理由は、時任の腰の辺りに何か硬いモノが当たっていたからだった。
 そいつは時任に欲情していたのである。
 「・・・・・・っ!!!」
 あまりのことに時任が声もなく口をぱくぱくしていると、突然、物凄い音がして時任の身体が軽くなった。
 ドゴッ!!!
 「ぐおっっ!!」
 体育館にいたクラスメイト及び教師一名はその音の原因を見て凍りついた。
 時任は驚いていて見ていなかったが、久保田が時任に乗っかっている奴を蹴り飛ばしたからである。
 「保健室に行ってきますので、あとはヨロシクお願いしますよ。先生」
 「あ、ああ…」
 呆然としている教師にそう言い置くと、久保田は倒れている時任を抱き上げた。
 「く、く、くぼちゃん?」
 「おとなしく一緒においでね、時任」
 久保田の迫力に押されて、時任は無言でうなづく。
 さっさと時任を連れて久保田が体育館を出て行くと、全員がぐったりとその場に崩れ落ちた。
 「な、なんだったんだ、一体…」
 この後、あまりに気抜けしたため、授業にはならなかったらしい。





 「久保ちゃん…」
 「なに?」
 「こっちは保健室じゃねぇんだけど?」
 「知ってるよ」
 時任を抱きかかえた久保田は、保健室ではなく資料室に向かっている。
 つまり、人気がない場所に向かっていたのだった。
 「ほ、保健室にいかねぇの?」
 「うん」
 「なんで?」
 「それはね、こういうこと…」
 久保田は資料室に入ると、そのドアの内側からカギをかける。
 カギの閉まる音が室内に響くと、時任は少し顔を青くした。
 「き、昨日、いっぱいしたよな?」
 「うん、いっぱいしたよね」
 「続けては身体に良くねぇんじゃねぇの?」
 「若いんだから、平気っしょ?」
 「へ、平気なワケねぇだろっ!!!」
 「あやうく俺以外の奴に、時任が犯されそうになってるのみたらさ。なんだかねぇ」
 「お、犯されそうになんかなってねぇっつーのっ!」
 「アイツが立ってんの、わかったよね?」
 「く、久保ちゃん…」
 「どうせ犯されるなら、俺に犯されてよ。時任」
 「あっ、バカっ…」
 久保田は時任のシャツをめくり上げると、その中に指を這わす。
 昨日の熱がまだ肌に残っているので、火が付くのは簡単だった。
 「やっ、やめ…、く、くぼちゃんっ」
 「やめてあげない」
 資料室のテーブルの上に時任を寝かせると、久保田は着ているモノを脱がしにかかる。
 時任は抵抗したが、やはり昨日のせいで身体に力が入らなかった。
 「うっ、イヤだっつってんのに…」
 思わず時任が涙ぐむと、その目元に久保田が優しくキスを落とした。
 「ゴメンね、時任。俺のココロも身体も止まらないから」
 「…あっ」
 「止まらない俺のオモイを受け止めてね」
 久保田が本格的に時任をあおり始める。
 時任は荒い息を吐きながら、久保田の腕につかまった。
 「て、手加減しろよ…」
 「努力します」
 廊下を歩く足音とか、そんなものはすでに二人の耳には聞こえていなかった。
 お互いの声と吐息だけしか耳に入らない。
 突き上げる久保田の熱と、それを包む時任の熱。
 熱い鼓動だけがこの空間を支配していた。
 濡れた音と色を含んだ声の響く資料室のドアは、当分の間、開くことはなかった。




 「あんたたちっ、授業さぼってドコいってたのよっ!」
 昼休憩が終わった三年六組に、桂木の声が響く。
 しかし、問い詰めてくる桂木に答えたのは時任ではなく、久保田だった。
 「体育で時任が怪我したからさ。ちょっと看病してただけ」
 飄々としてそう言ってのける久保田の顔を見て、そして机に突っ伏している時任を見た桂木は、深々とため息をついた。
 「朝より具合、悪くなってない?」
 「そう?」
 「・・・・・あんたねぇ」
 「なに、桂木ちゃん?」
 「やっぱなんでもないわ」

 そう、人の恋路を邪魔する馬鹿は馬に蹴られて死ぬのである。
 …この場合、触らぬ神に祟りなし、とも言う。

                          『微熱』 2002.4.8 キリリク3200


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