放課後といえば公務の時間。
 生徒会執行部に所属している者にとってはそれは当たり前のこと。
 そして、執行部補欠である藤原もそれは例外ではなかった。
 だが、補欠という身分なので、校内巡回に出ることは無く、ひたすら雑務の日々。
 久保田がいなければ、とっくの昔にやめていたに違いない。
 「あ〜あ、今日も怒鳴られて雑用係されられるんだろうなぁ」
 ため息をつきながら、生徒会室への廊下を歩いていると、突然、叫び声が聞こえてきた。
 どうやら、また何か騒ぎが起こったらしい。
 「あっ、もしかしたら」
 そう言うと、藤原は生徒会室へ行くのとは違う方向へ走り出した。
 騒ぎがあるところに執行部あり。
 執行部あるところにあの二人あり。
 もしかしたら、久保田の雄姿を見れるかもしれないと思い、恋する男は凄い勢いで走り始めたのだった。
 すると案の定、不良の皆様相手に公務執行中の久保田と時任を発見したのだった。
 「ったく、校内でやるなってのっ!」
 「そうそう、やるなら外でね」
 そういう問題でもないような気がするのだが、個性の欠片も無いセリフを言いつつ襲ってくる不良生徒に久保田と時任は正義の鉄拳を繰り出した。
 その姿はいつ見ても迫力があるが、ことに久保田と時任のコンビネーションは見事なものである。戦いつつ、完璧にお互いの背後を守っていた。
 「確かに凄いって思うけど、なんか悔しいよな」
 息の合った二人を見ていると、とても悔しくてたまらない。
 藤原は少しでも久保田にいいとこ見せたくて、二人が公務をしている現場に突入した。
 (補欠とはいえ、僕だって執行部なんだぁぁ)
 そういうセリフは、実力をつけてから言ってもらいたいものだが、別に久保田に恋しているだけで、執行部自体には何の興味もない藤原にはそれはわからないだろう。
 「げっ、なにしにきやがったんだっ、藤原!」
 「なにしにはないでしょうっ! 俺だって執行部なんですっ!」
 「補欠だろーがっ、テメェわっ!」
 「補欠、補欠ってうるさいんですよっ!」
 「事実じゃねぇか!!」
 執行部がもう一人来たということで、不良連中の目が藤原に向く。
 どう見ても、久保田と時任よりもはるかに弱そうだった。
 一番、藤原の近くにいた奴が、藤原に向かって拳を振り上げる。
 「えっ、なっ、なにするんですかー!!」
 武器も無しで藤原が戦えるはずもなく、相手が襲い掛かってきたと同時に逃げ出した。
 「バ、バカっ!!そっちに逃げんじゃねぇっ、藤原!!」
 藤原に気を取られた時任に隙が出来る。だが、その隙をついて殴りかかってきた奴を、久保田が蹴り飛ばした。
 「サンキュー、くぼちゃん」
 「どういたしまして」
 今日、相手にしている人数はいつもよりも多かったが、それでも二人ならばまだまだ余裕の数である。けれど、藤原の乱入によって、戦いのバランスがくずれてしまった。
 「覚悟しやがれっ!!」
 「うわぁぁ!」
 攻撃を避けるために相手の動きだけを目で追っているので、藤原は自分がどこにいるのかさえ把握していなかった。
 藤原は一歩、また一歩と後ろに下がって行く。
 「ちっ、くそぉっ!」
 時任は強引に周囲の奴らをなぎ払うと、藤原に向かって走った。
 けれど、藤原の後ろにはもう余裕がない。
 「とどめだっ!」
 「えっ!?」
 攻撃は完全に避けたはずだった。
 しかし、身体はバランスを崩して、奇妙な感覚が藤原を襲った。
 「ふじわらぁー!!!」
 時任が何か叫ぶのが、遠くで聞こえる。
 「時任ー!!」
 久保田が時任を叫ぶように呼ぶのも聞こえた。
 視界がぐるっと回転する。
 目眩に似た感覚。
 そして次の瞬間、身体に痛みが走ったが、何か柔らかいものが藤原を守ってくれていた。
 それが何であったのかを知ったのは、それから少ししてのことだった。
 頭を振って藤原が目を覚ましたが、気を失ったのは一瞬だったようである。
 目の前には二階へと続く階段。
 自分がいるのはその踊り場。
 二階から足を踏み外して落ちたことがすぐに理解することができないでいると、自分の下から小さなうめき声がした。
 (・・・なんだろう?)
 呆然とそう思った瞬間、右の頬に強い衝撃が走る。
 「うぐっっ!!」
 吹っ飛ばされて倒れてたが、今度は気を失ったりはしなかった。
 (あれ?俺、今殴られた・・・?)
 視界がはっきりして目の前に飛び込んできた光景。
 「時任・・・・」
 それは頭から血を流して倒れている時任と、その前にしゃがみ込んでじっとそれを見つめている久保田の姿だった。
 「おいっ、大変だって」
 「あれっ、時任?」
 「マジで!?」
 あっという間に人だかりが出来てきて、保健医の五十嵐もやってきた。
 どこからか、救急車の音も聞こえる。

 そう、時任は藤原をかばって階段から落ちたのだった。



 白い長い廊下。
 どこもかしこも薬臭い。
 あまりに静かなので、足音もコツコツとよく響く。
 藤原は五十嵐にともなわれて、近くの病院までやってきていた。
 「・・・あの、容態はどうなんですか?」
 沈んだ気持ちで藤原が尋ねると、五十嵐は軽く首を横に振った。
 「まだ手術中でなんとも言えないわ。気持ちを重くさせるようだけど、事実だから」
 「いえ、僕への気遣いは無用です。僕のせいですから」
 「事故なんだから、あまり自分を責めてはダメよ」
 そんなふうに五十嵐は言ってくれるが、少しも気持ちは軽くならなかった。
 (もし、時任先輩の意識が戻らなかったら、俺は・・・・)
 時任のことは本気で心配している。罪悪感で胸が押しつぶされそうな気分にもなっていた。
 けれど、やはり藤原が一番気になっているのは、凍りついたみたいにじっと時任を見つめていた久保田のことだった。
 落ちた直後よりも人だかりがさらに増えた頃、救急車が到着した。
 だが、救急隊員が担架に時任を乗せようとした時、久保田はその手をバシッと払い退けたのである。
 自分のモノに触るなとでも言うかのように。
 救急隊員が担架に乗せるようにと注意したが、久保田はそれを聞き入れようとせず、五十嵐は今みたいに首を横に振りながら、救急隊員に手を出さないように言ったのである。
 そうして、久保田の手で時任は救急車に乗せられ、病院まで運ばれた。
 「あの・・・」
 「なぁに?」
 「・・・久保田先輩はどうしてるんですか?」
 藤原が久保田のことを聞くと、五十嵐は顔を曇らせた。
 「座ってるわ。手術室の前の椅子にずっと・・・・」
 「そうですか」
 「正直なとこ。久保田君があそこまで脆かったなんて思わなかったわ」
 「・・・・・」
 しとしとと、外では雨が降っている。
 暗い空は、すべてを陰鬱な影で覆い尽くしていた。
 雨音だけが響いてくる静かな廊下の一番奥。
 赤いランプの点灯している部屋の前の廊下の長椅子に、黒い影が一つ座っている。
 「久保田くん。藤原くんが来たわよ」
 五十嵐が声をかけても反応がない。
 じっと床を見つめているようで、その瞳は何もうつしていないような感じ。
 久保田は嘆き悲しむでもなく、ただじっと静かにそこに座っていた。
 「・・・・久保田先輩、俺」
 藤原は久保田の前に立ち、声をかけた。
 けれどやはり、その瞳は藤原をうつさない。
 まるで、そこの時間だけが止まってしまったかのように、久保田は身動き一つしなかった。
 「藤原君」
 五十嵐が小さくため息をついて藤原を呼ぶ。
 このままここにいても仕方ないのので、藤原は五十嵐の後についてもと来た廊下を再び戻って行った。。
 「もう少し、落ち着いてから来た方がいいみたいね」
 「・・・・はい」
 「送って行ってあげるから、今日はもう帰りなさい」
 藤原は五十嵐と廊下を歩きながら、さっきの光景を思い出していた。
 手術中のランプと久保田。
 この二つに何か違和感を感じた。
 何か足りないモノがある。
 「あっ」
 けれど、少し考えてすぐにわかった。
 それは、時任の両親や家族の姿がないことだった。
 「どうかしたの?」
 突然立ち止まった藤原に、五十嵐がそう尋ねる。藤原は疑問に思ったことを五十嵐に尋ねてみた。すると五十嵐はちょっと考え込んでから、
 「時任君と久保田君が一緒に暮らしてるのは知ってるわよね」
と、言った。
 行ったことはないが話には聞いていたので藤原がうなづくと、五十嵐は深くため息をついた。
 「一緒に暮らすことになった事情は知らないけど。学校に提出されてる時任君の身上書には父親の名前も母親の名前も書いてないわ。もちろん兄弟もね。ただ、緊急時の連絡先の所に久保田君の名前が書いてあるだけなのよ」
 「それって・・・・」
 「なにか事情があるんでしょうけど、学校側もこの件についてはノータッチらしいわ。どうしてだか知らないけどね」
 その話を聞いて、藤原はなんとなく、時任の知らない部分を知ってしまったような気がした。
 (普段、あんなにえらそうで、俺様してて、そんなの微塵も感じられないのに)
 すごく意外な気がした。
 外に出ると、やはり雨はしとしとと降っており、すべてをしめやかに濡らしている。
 藤原は傘をパンッと開くと、五十嵐とともに病院を後にした。
 


 扉の上で赤々と点っていたランプが消える。
 そして、扉がギィと小さな音を立てて開いた。
 長かった手術が終わったらしい。
 久保田は床に向けていた目を、無表情のまま扉へと向ける。
 扉からは、白いシーツに包まれた点滴下がっているベッドが出てきて、そこには生気のない顔をした時任が横たわっていた。
 「えー、ご家族の方はどちらに?」
 手術をした執刀医が看護婦にそう尋ねると、看護婦は久保田のことを執刀医に告げた。
 「貴方がご家族の方ですか?」
 そう執刀医に聞かれて、久保田は淡々とした口調で、
 「はい」
と、答えた。
 執刀医は少しいぶかしむような顔をしたが、久保田に向かって手術の内容と結果を話した。
 頭を強く打っているが頭蓋骨に異常はなく、出血が多かったのは、階段から落ちるときに何処かで頭を切ったせいだったらしい。運の良いことに、脳内出血はみられなかった。
 「頭と全身を強く打っていますので、意識が戻るまでは油断を許さない状況です」
 そう締めくくった執刀医に久保田は静かな口調で、
 「危ないってことですか?」
と聞くと、執刀医はうなづいて、
 「このまま意識が戻らなければそうです。覚悟はしておいてください」
 「・・・・」
 執刀医が淡々と事実を告げて去った後、久保田は時任の運ばれた集中治療室の前の床に座った。
 壁を背にして。
 前に長椅子があったが、そこに座る気にはなれなかったからである。
 「そんなところに座ってちゃ寒いでしょ?」
 通りかかった看護婦が心配してそう言ってくれたが、久保田はゆっくりと首を横に振った。
 「どうして?」
 「一メートルでも一センチでもそばにいたいから」
 「・・・・・あなた」
 「俺をこの中に入れてくれませんか?」
 「ごめんなさい。それは無理なの」
 「頼みます」
 「でも・・・」
 「お願いします」
 頼み続ける久保田に根負けして、看護婦は担当医の了解を得るべく医局へ向かう。
 しばらくして担当医を連れて戻って来た看護婦は、久保田に向かって微笑みながらうなづいたのだった。



 消毒して、医者みたいに白い服を着せられた。
 それから通された部屋もやはり白くて、その白さに久保田は目を細める。
 白ばかりで埋めつくされた部屋に、時任はいた。
 酸素注入器ではなく、マスクをつけられているので、自力で呼吸はできているらしい。
 けれどその瞳は硬く閉ざされていて、一向に開く気配はしなかった。
 「時間が来たら呼びにくるわね」
 看護婦はそう言ったが、久保田は時任から離れるつもりはない。
 時任が藤原をかばって落ちた時、久保田は必死で時任に向かって走った。
 けれど、伸ばした手は時任まで届かず、その手は空だけを掴んだ。
 そばにいたのに、助けられなかったのである。
 久保田は藤原のことなど少しも頭に無かった。ただ、自分が時任を助けられなかったという事実が、久保田を打ちのめしていた。
 「・・・時任」
 名前を呼んで、青白い頬を撫でる。
 その頬はいつもと違って冷たかった。
 柔らかい髪を撫でて、額に頬にキスして、頬を両手で包む。
 けれどやはり目を覚まさない。
 久保田が時任の胸に頭を寄せ、耳をつけると、時任の小さな鼓動が聞こえた。
 「ごめんね、時任・・・」
 何を言っても答えはない。
 近くにあった椅子を時任のベットのそばまで持ってくると、そこに座ってシーツの中にある時任の手を握りしめた。
 「・・・・」
 倒れている時任を見た時から、自分のすべての感覚が次第に薄れていくのを久保田は感じていた。
 実は耳も良く聞こえないし、目も良く見えない。
 身体も重くて仕方なし、思考も回らなくて、喋ることもやっとできるくらい。
 久保田の身体が、生きることを拒絶し始めていた。
 時任がいなくなるかもしれないという喪失感が、自分でも気づかない内に久保田を蝕み初めていたのである。
 久保田は手を握りしめたまま、時任のシーツの上に頭を乗せて目を閉じた。
 その後、看護婦がこの部屋を訪れたが、久保田が良く眠っているようだったので、担当医と相談して今夜はこのままにしておくことにしたが、実は久保田は眠っていたのではなく、そのまま動けなくなってしまっていたのである。
 いつ容態が変化するかもしれない時任の様子を何度も看護婦が身に来たが、やはり久保田はじっとそのまま動かなかった。



 四日目の午後。
 藤原と五十嵐は、時任の様子を見に病院を訪れた。
 五十嵐は何度か病院に行っていたが、時任の意識は戻っていないということを看護婦から伝えられただけである。
 それは、集中治療室は面会謝絶となっているからだった。
 しかし昨日の夜、病院の方から五十嵐に来てほしいという連絡が入ったのである。
 「何かあったんでしょうか?」
 「さあ、わからないけど・・・・・」
 内容は病院で話すとのことだったので事情はまだわからない。
 そういうこともあって、五十嵐は様子を見に行きたがっていた藤原と共に病院にやってきたのである。
 病院に着いた五十嵐が医師に呼ばれた旨を受付で話すと、看護婦は困ったような悲しそうな顔をしたのだった。



 案内された集中治療室の様子を見て、五十嵐と藤原はしばらく何も言うことができなかった。
 包帯を巻かれて横たわっている時任の横に、座って眠るようにシーツの上に頭を乗せている久保田がいるのだが、時任だけではなく、久保田の腕にも点滴が付けられていたからである。
 久保田はあれからここから離れることを拒否しつづけた。
 しかもそれだけではなく、何も食べないし、何も飲まない。
 ただひたすら、時任のそばにいることだけしか頭にないようだった。
 「ご兄弟じゃないそうですけど、お二人のご関係はどういう関係なんですか?」
 そう看護婦が尋ねるのに、五十嵐は一度天井を見上げてから視線を看護婦に向けた。
 「・・・二人にとってはお互いがすべてなのよ。それ以外は何もいらないくらい。関係なんて、そんな言葉なんかで言えるもんですかっ」
 お互いを求めて、その存在を確認して初めて呼吸ができる。
 だから久保田にとって、時任のいない世界は存在しない。
 そんなものはないから、拒絶する。
 まるで眠っているような二人を目の前にして、藤原はぎゅっと目を閉じて泣いていた。
 「こんなのって、こんなのってダメじゃないですかっ!何があっても生きなきゃダメなんですよっ、それなのに・・・」
 「藤原君」
 「なんで起きないんですかっ、時任先輩っ!! 起きないと、久保田先輩が死んじゃいますよっ! それでもいいんですかっ!!」
 「ちょっと、やめなさい!」
 藤原が寝ている時任の襟をつかもうとする。
 五十嵐がそれを止めたが、藤原は聞かない。
 だが、襟をつかむ前に手はパシッと弾かれた。
 「く、久保田先輩・・・・」
 久保田はうつろな目を開けて藤原を見ていた。
 まるでそこら辺にある物でも見るみたいに、冷たい瞳で。
 藤原は背筋に冷たいものが走って、その場で凍りついた。
 (怖い、殺される)
 今、初めて藤原は久保田に恐怖を覚えていた。
 久保田にとって、時任に危害を加えるものは敵でしかない。
 そのことを、藤原は思い知ったのである。
 「二人を離そうとして、何人かケガ人も出てます。なんとかならないでしょうか?」
 懇願する看護婦に五十嵐は首を左右に振った。
 この二人を引き離すことなど、誰にもできるはずがない。
 あきらめた看護婦は、二人を担当医のいる医局まで案内したのだった。



 なんだか周りが騒がしい。
 ぼんやりした頭の中に、ゆっくりと意識が戻ってきたらしく、思考がまともに働くようになってきた。だが、身体も重いし、瞼も重い。どうしてこんなに重いのかがわからなかった。
 (・・・けど、起きなきゃ。久保ちゃんが朝飯作ってるし)
 久保田は毎日、時任のために朝ごはんを作ってくれている。
 だから、実は毎朝起きるのが楽しみだったりしていた。
 そうだから、早く起きなきゃいけない。
 時任は重い瞼に力を入れて、そっと目を開いた。
 (・・・・・あ、れ?)
 だが、その目に飛び込んできたのは白い天井で、自分達の部屋とは違う天井だった。
 (ここってどこだ?)
 痛む頭をゆっくりと動かして見ると、時任の寝ているベッドの横で眠っている久保田の姿が目に入る。手があったかいので、すぐに手を握ってくれていることがわかった。
 (久保ちゃんがいるなら、まぁ、いっかぁ)
 自分達の部屋だろうと、どこだろうと、久保田がいるならどこでもいい。
 時任はほっとしたような顔をして息をつくと、握られている手に少し力を込めた。
 「・・・・・ん・・・・」
 手が動いたのに気づいたのか、久保田が身じろぎする。
 もっと手を握ると、久保田はパチッと目を開いた。
 「・・・時任?」
 久保田の目が時任をとらえた。
 その顔はらしくなく、少し驚いたような表情をしている。
 時任は何か喋りたかったが、口に被せられているマスクが邪魔で離せない。たが、久保田には喋らなくてもそれがわかったらしく、すぐに時任からマスクは外された。
 「久保ちゃん、俺・・・・」
 ちょっと混乱している時任に、久保田は優しく微笑んで見せた。
 「覚えてないかもしれないけど、階段から落ちたんだよ、時任は」
 「階段・・・・、ああっ、そっか、思い出した。俺、落ちたんだっけ?」
 「うんそう」
 「ってことは、病院?」
 「当たり」
 しばらく喋っていないので、時任の声がかすれていたが、それは久保田も同じである。
 久保田は自分につけられている点滴を取ると、椅子から立ち上がって時任の頬を両手で包んだ。
 「・・・あったかい」
 「くすぐったいって・・・」
 「キスしていい?」
 「・・・・うん」
 優しく、ついばむようなキスをする。
 まるで初めてキスした者同士みたいなキスを何度も何度もして、額をくっつけあって笑った。
 久保田の感覚器官は時任の声を聞き、時任の言葉に答えるたびに戻っていく。
 凍り付いていた世界が、温度を取り戻し、急速に動き始めた。
 この数日ですっかりやつれてしまった久保田の顔を見て、
 「ごめん、久保ちゃん」
と、時任があやまった。
 すると、久保田は少し傷ついたような目で、
 「助けられなくて、ゴメンね」
と言う。
 そんな久保田の顔に、時任はシーツから手を出して両手で触れた。
 「あやまるより、俺、したいことあるんだけどさ」
 「うん、何したいの?」
 「ちょっと疲れたから、一緒に寝よ。ベッド狭いけど、俺らなら十分寝れるじゃん?」
 「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 時任がシーツをはぐると、そこに久保田が入り込む。
 点滴のチューブに注意しながら抱き合うと、今度は深いキスをした。
 「なおったら、一緒に帰ろうね。時任」
 「それは当たり前って、あっ、俺がいない間もちゃんと飯食えよっ」
 「はいはい」
 「約束だぞ」
 「わかってますって」
 なんだかんだと言い合っていたが、数分後には二人から小さな寝息が聞こえていた。


 後日、時任が目覚めたことを知った藤原があやまりに来たが、
 「お前があやまるなんて、明日雪でも降んじゃねぇの? 似合わねぇからやめとけって」
と、時任はいつもの調子で言った。
 「せっかくあやまってんのに、なんなんですかっ!!」
 「俺はホントのこと言ってるだけだっつーの!」
 久保田もすっかりいつもの様子に戻り、そんな二人の様子を見るでもなく、椅子に座って新聞を読んでいる。そんな久保田を見て、五十嵐はガックリと肩を落とした。
 「ほんっと、あんた達って・・・・」
 そう言いかけて、五十嵐はそこで言葉を切った。
 それ以上は言ってはいけない気がしたからである。
 新聞を読む合間に、愛しそうに時任を眺めている久保田の横顔を、五十嵐は心配そうな顔をしてしばらく見つめていた。

 それから三日後、数人の生徒が時任とは別の病院に入院したが、それが例の騒ぎの原因の生徒達だったかどうかは、学校側にも生徒達にもわからなかった。

                          『その手を離さないで』 2002.2.24 キリリク1400


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