「小松っ、三丁目のゲーセン行って来い!」 「俺は忙しいんですっ!」 「誰も忙しいに決まってんだろ! ナマ言ってねぇでさっさと行けっ!!」 「もうっ、わかりましたよ〜」 室内には電話が鳴り響き、人々が慌しく行き来している。 毎日がこんな調子で休む暇がないのが現状だった。 だが、警察という職業を自ら選択した結果であるため、職務にこうして従事しなくてはならない。選んだ理由が、たとえどんなものであったとしても…。 「ったく、あいつは…」 横浜にある港南警察署、少年課。 署内の中でも一際賑わっている課の一つである。 そこへと続く廊下を、スーツをだらしなく着こなし、その上にトレンチコートを羽織った男が歩いていた。口にはタバコをくわえているが、その灰はポロポロと廊下に落としている。 「ちゃんと灰皿んとこで吸ってくださいよっ」 「へーへー、わかりやしたよ」 通りがかった婦警に注意されたが、男はいい加減な返事を返しただけだった。 男が少年課に入ると、電話をしていた刑事が室内の奥にある部屋を指差す。男はその刑事に向かって軽く片手を上げてみせた。 「葛西さん、奥の部屋ですから」 「おう」 「どうせなら、こっちに移動してきませんか?」 「やなこった。ガキの相手は性に合わねぇんだよっ」 「案外、似合ってると思いますけどねぇ」 「しばくぞ、てめぇ」 口の悪い男の名前は葛西。 葛西も刑事という職業についていたが、少年課ではなく殺人事件を管轄している捜査第一課に所属していた。 「邪魔するぜ」 葛西はどかどかと奥まで歩いて行くと、そこにある部屋のドアを乱暴に開ける。 この部屋は事情徴収をするための部屋だった。 本当ならば、ここに葛西が来るような用事があるはずはないのだが、今の時点でここに来るような事態になるとしたら理由は一つしかない。 「どーも」 パイプ椅子に腰かけて、葛西に向かって呑気そうにそう言った人物がその理由である。 長めの前髪に黒ブチ眼鏡。実際の年齢よりもかなり落ち着いて見えるので、14か15歳くらいに見えるが、実はまだ12歳。 少年課で事情徴収されている少年の名前は久保田誠人。 葛西は誠人の叔父であるが、現在、二人は一緒に暮らしていた。 誠人が始めて葛西のアパートに来たのは12月、現在が2月なので、暮らし始めてやっと3ヶ月が経ったところである。 「今度は何やった?」 葛西がタバコを吹かしながらそう聞くと、誠人は顔色一つ変えずに、 「三人くらい殴ったけど?」 と、言う。 おそらく、あるがままを簡潔に言っただけなのだろうが、あまりにミもフタもない言い方だったので、葛西は軽く頭を掻いた。すると、事情徴収をしていた刑事がそんな葛西に向かって肩を竦めて見せた。 「まあ、単純に言うとですね。この子のことを高校生がカツアゲしようとしたらしいんですがね。情けないことに、逆に高校生の方がやられたってワケですよ」 「小学生一人にってか?」 「容赦なく、ですね」 「全治どんくらいだ?」 「全員二週間…くらいですかね」 「ふーん」 「まあ、過剰防衛と言われればそうですが、この子に非はありませんよ。目撃者もちゃんといますしね」 こういうことは、実は初めてではない。 誠人は自分から暴力を振るうような真似は決してしなかったが、自分に対して危害を加えてくる者には容赦がない。けれど、それはなぜか自己防衛とは違うような気がしてならなかった。 「話は終わったのか?」 「ええ、一応。もう帰ってもらってもかまいませんよ」 「んじゃ、連れて帰らせてもらうぜ」 葛西はテーブルに置かれた灰皿にタバコを押し付けると、部屋のドアへと向かった。 「帰るぞ、誠人」 「はいはい。それじゃあ刑事サン、どーもお世話サマでした」 人を食ったような口調でそう言うと、誠人は葛西に続いて部屋を出て行く。 後に残された刑事は、二人を見送ってから深いため息を付いた。 「あれで12歳だからなぁ。一体、どんな育ち方したらあんなのになるのかねぇ…。末恐ろしいって感じかもな」 実際の話、葛西も誠人が自分のアパートに来るまで、どんな生活をしていたのか詳しくは知らない。だが、あの寒々とした牢獄のような屋敷が誠人にとっていい場所ではなかったことだけは確かだった。 「まあ、しょうがねぇって言っちまえばそうだが、ちったぁなんとかならねぇのかよ?」 署内の廊下を歩きながら葛西がそう言うと、誠人は感情の読めない笑みを浮かべた。 「手加減とかすんの、面倒臭いんっすよねぇ」 「めんどーって、お前なぁ」 「正当防衛ってコトでカンベンしといてよ、葛西サン」 「…ったく、小学生のガキと話してる気がしねぇよ。お前と話してると」 「そりゃあね。もうじき中坊だし」 「そういう問題じゃねぇような気ぃするが…」 「ははは…」 「笑いゴトじゃねぇよ」 「まあまあ」 小学生になだめられて、葛西は小さくため息をついた。 一応、この人を食ったような笑みを浮かべる小学生の保護者ということになっているが、実際、それは戸籍上だけのようなものである。こうやって、警察に呼ばれるようなことがある時以外は、葛西は特に誠人の面倒を見た覚えはない。 誠人はなんでも一人でこなし、一人で生活していた。 面倒見てやってるのは金くらいである。 「今日、帰ってくるなら飯作っときますけど?」 「…またカレーかよ」 「そっ、カレー」 「カレーでいいから作っとけ」 「了解」 子供と生活することになって、一応それらしいことをしようとした葛西なのだが、たったの2週間でやめてしまっていた。 その理由は、葛西の住んでいる古びたアパートにやってきてたらちょうど2週間後、 『自分のコトは自分でするってことでいいんじゃないの? お互い楽でしょ、その方が』 と、葛西が作ったカレーを前にして誠人がそう言ったからである。 何もできないなら少し考えるが、実際、誠人は葛西よりも掃除も洗濯もうまかった。 料理だけはあまりうまいとはいえなかったが、葛西に教えられてカレーだけはなんとか作れるようになっている。実は誠人がカレーばかりしか作らないのは、葛西がまともに作れるのがカレーだけだったため、それしか教えてないからだった。 誠人自身が料理番組を見るか、本を読むかするという手もあるが、面倒臭いらしくいつまでたってもレパートリーが増える様子はない。 「真っ直ぐ帰れよ」 「へーい」 新宿警察署の前で別れると、葛西は今追ってる山の聞き込みへ、誠人はカレーの材料を買うためにスーパーに向かった。 子供だろうと大人だろうと、親だろうが兄弟だろうが、一緒に暮らすのは難しい。 お互いのすることに口出ししないという無言の了解の元、葛西と誠人はアパートで同居生活を続けていた。二人とも他人に干渉されることが嫌いだからである。 同居とはいうものの、葛西の職業が刑事であるため、毎日顔をつき合わすわけではない。だが、今日のように二人で同じテーブルに向かい合って朝飯を食べることもあるのである。葛西は片手で新聞を読みつつ、卵焼きをつまんで、誠人はテレビを見ながら、味噌汁をすすっていた。 「お前。そういえば入学式はすんだんだよな、確か?」 「ん〜、そりゃあもう五月っすからね」 「そうか、入学式は四月だったっけな」 「たぶん」 「中学くらいは卒業しとけよ」 「卒業はするつもりですけど?」 「わかってんならいいけどな」 月日というのはあっという間に過ぎるもので、春になると誠人は中学生になった。 けれど、中学に上がったからといって浮かれるわけでもなく、誠人はいつものようにうまくもまずくもない顔で朝食を食べていた。 「今日から張り込みだからな。当分戻らねぇ」 「こないだ言ってたヤツ?」 「期待できそうにないがな」 「ふーん、そうっすか」 葛西は捜査について差しさわりのない程度のことを、たまに誠人に話すことがあった。 だが、それに対して誠人はいつも興味がなさそうに生返事をするだけである。 葛西の目から見た誠人は、何にも興味がないように見えた。 「お前もあんまりヤバいトコうろつくなよ」 「あれ、バレてました?」 「俺を誰だと思ってんだ?」 「そいつはどーも失礼しました」 葛西と同じ管轄区の刑事が、雀荘で誠人を見かけたと言っていた。 おそらく誠人は、葛西に見つかるとかバレれるとかそんなことなど気にしてはいないだろうし、バレたからといってそれについて何も思ったりはしないに違いない。 現に、暗に知っていることを葛西が告げても、誠人の表情はピクリとも動かなかった。 何を考えているのかも、何を思っているのかもわからない。 けれど、誠人は人のココロがわからないような、まるっきり冷たい人間でもないのである。 だが、葛西がどう思っていようと、久保田誠人という人間が、かなりやっかいだということには、変わりがないのかもしれなかった。 誠人は中学に上がってから、雀荘を出入りするようになっていた。 麻雀をするようになったきっかけはテレビゲームなのだが、ふと人間相手に打ってみたくなって、ふらっと雀荘に入ったのがきっかけである。 もう半年ほど色んな雀荘に通ってみたが、相手の顔色読むことが得意な上に手先が器用だった誠人は、麻雀で負けることはほんどない。 不法である賭け麻雀をしているため、勝つと当然ながらお金が入るのだが、誠人はそんなことよりも麻雀をすることを楽しんでいた。 お金を賭けることは、命を賭けることに似ている。 命の駆け引きをしていると、生きていることがよりリアルになってくるのだ。 けれど、こういう場所ではありがちなのだが、雀荘で勝ち続けるとかなり目立ってしまうことになる。この目立つというのは、有名になるとかそういった意味ではなく、目を付けられてしまうという意味だった。 「おいクソガキ、最近勝ち続けらしいじゃねぇか?」 案の定、しばらくするとその筋らしきチンピラに絡まれることになった。 けれど誠人はいつものように平然として、 「まぁねぇ」 と、答えた。 その態度にムッとしたチンピラは、誠人に殴りかかろうとする。 だがそれを、目付きの鋭い中年男が止めた。 「まあ待てや」 「し、シゲさんっ」 シゲと呼ばれた男は、雀卓に座るとそこから薄ら笑いを浮かべて誠人を見る。 誠人は少し目を細めてシゲを眺めた。 シゲは、さっきのチンピラとはあきらかに雰囲気が違う。名の知れた雀師らしき風格が感じられた。 「勝負しねぇか、にぃちゃん」 その言葉を聞いた誠人は、ゆっくりと歩みよってシゲの正面に座った。 「そう来なくっちゃよ」 雀卓に近くにいた二人が加わって、面子が揃い麻雀が始まる。 十中八九、シゲはイカサマが得意に違いない。 後の二人もグルだ。 三人は誠人から金を巻き上げるために店が用意したゲストかもしれない。 誠人は口元に少しだけ笑みを作った。 イカサマは玄人だけの特権ではない。 相手が誰であろうと、誠人は負けるつもりはなかった。 「あ〜、葛西さんっ。いたいた」 「なんか用か?」 葛西が珍しく警察署内の自分のディスクに座って書類を書いていると、若い男が葛西のところへやってきた。 その男は最近葛西について仕事をしている男で、名前を高柳と言った。 「例の雀荘の件なんですけどね」 「ああ、誠人のことか?」 「いえ、まぁそれもありますけど、別件でちょっとありましてね」 「あぁ?別件だぁ?」 「ちょっと耳貸して下さい」 高柳は葛西の耳元に顔を寄せると、何かをぼそぼそと話した。 すると葛西の表情が険しくなる。 「そいつぁ、ヤバイな」 「でしょう? 早いとこ手を打った方がいいですし、甥っ子さんに出入りをやめさせないと危ないですよ」 「高。お前は目ぼしいヤツ捕まえて、そいつと一緒に張り込め。俺はヤボ用だ」 「ヤボ用ってなんですか?」 「バカかお前っ。言わねぇからヤボ用なんだろうがっ」 「は、はい。すいませんっ」 「いいから、とっとと行け!」 「はいっ!」 高柳は元気良く返事をすると、慌てて室内から出て行く。葛西は椅子にかけていたトレンチコートに袖を通した。 書類なんか書いている場合ではない。 三ヶ月前から、雀荘に行った者が消えるという噂が流れていた。 だが、あくまで噂は噂で事実だという確証は何もなかった。 本当に噂話という可能性もあるが、何か嫌なものを感じた葛西は高柳に雀荘を調べるように命じていた。そしてそれが見事にビンゴだったわけである。 「ったく、なんだってアイツはヤバイとこばっかいやがんだ!」 誠人の周囲はいつも血生臭い。 なぜか誠人は、そういうモノを呼び寄せる何かがあるらしかった。 葛西はパトカーではなく自分の車に乗り込むと、雀荘とは逆の方向に車を走らせた。 牌を並べる瞬間、指をすぅっと滑らせる。 そのワザは手品にも似てる気がした。 イカサマというのは、ようするにタイミングと手先の器用さが問題なのである。 誠人は相変わらずの無表情で牌をさばいていた。 「ちくしょう…」 シゲとグルになっている男が、誠人を鋭く睨みつけている。 すでに一度目の勝負は決しており、それは誠人の一人勝ちだった。 店の依頼で来ている三人が一人勝ちさせたまま帰すはずもなく、テーブルの上には一つの封筒が乗っかっている。これはシゲが掛け金の代わりに出して来たモノだった。 「こいつはマンションの権利書だ。勝ったらくれてやる」 「へぇ、もらっていいの?」 「勝てたらな」 再び牌が配られる。 誠人は自分に回ってきた牌を見て、わずかに目を細めた。 なかなかいい並びである。 だが、雀荘に飛び込んできた男によって一巡目も始まらない内に麻雀は中断されてしまった。 「おいっ、サツが張り込んでやがるぜ!」 「なにっ!!」 警察と聞いてシゲ達の顔色が変わった。 賭け麻雀は違法だが、それくらいではこんなに顔色は変わらないだろう。張り込んでいるくらいですぐにどうにかなるものでもない。誤魔化す方法はいくらでもあるのだ。 だが、一気に雀荘内が騒がしくなった。 「なんでバレたんだ」 「知るかよっ」 「おい待て、俺、こいつ見たことあるぜ。確か、葛西って刑事と一緒にいた…」 「こいつかっ!!」 すべての視線が誠人に集中する。 その視線を一身に受けた誠人は、やれやれと肩をすくめて見せた。 「まあ、関係なくはないけどねぇ」 誠人が葛西と関係あることを認めた瞬間、雀荘にいた何人かが誠人に向かって拳銃を構えた。この数だとさすがにまずい。 「う〜ん、どうしようかなぁ」 こんな状態なのに、誠人の口調はいつもと変わりなかった。 ガゥンッ!ガゥンッ!ガゥン・・・・・!! 雀荘内に銃声が鳴り響く。 雀荘に張り込みに来ていた高柳は、銃声に驚いて車内から飛び出した。 何が起こったかはわからないが、まずい状況なのは間違いない。 高柳は車内に戻ると、慌てて無線を取る。 応援を呼んだ後、高柳と一緒に来ていた刑事が雀荘内に侵入してみると、そこには三体の死体が転がっており、それ以外に人の気配はなかった。 「気づかれちゃあ、張り込みの意味ねぇだろうがっ!」 「そんなこと言われてもっ」 「まあいい。とりあえす゛、ここを徹底的に洗うぞ」 野暮用を済ませて葛西が到着すると、現場にはすでに現場検証が始まっていた。 葛西がざっと現場を見渡すと、正確に心臓と額を射抜かれた死体が三体の他に、明らかにその三人のものではない大きな血痕が残っていた。これくらいの大きさだとかなりの出血だろう。 「・・・おい」 葛西は鑑識を呼ぶと血痕を指差した。 「こいつの血液型がわかったら、すぐ俺に知らせろ」 「わかりました」 やけに正確な鉛弾の跡と血痕を見ると、嫌な予感がする。 これほど拳銃の腕をもったヤツはそうはいない。 しばらくの間、葛西は血痕を見つめていたが、小さく息を吐いてその場から離れた。 その嫌な予感が自分の思い過ごしであればいいと願いながら。 けれど、鑑識の報告を聞いた瞬間、葛西は自分の予感が外れていないことを確信したのである。 血液型はO型だった。 目を覚ますとベッドの上だった。 自分に何があったかははっきりと覚えているので、とりあえず死ななかったらしいことを認識する。誠人は痛む身体を起こして周囲を見回した。 おそらくここは日本国内だと思われるが、どう見てもこの部屋の調度品は中国のものに違いなかった。 「タバコ吸いたいんだけどなぁ」 誠人はそう呟くと小さく欠伸をした。 銃で撃たれたので、身体が熱を持っている。そのせいでだるくて眠いのだった。 「おや、気づきましたか?」 とりあえずもう一度寝ようかと誠人が思っていると、部屋に一人の男が入ってきた。 服装からしても、顔からしても、日本人でないことは明らかである。 長い髪を腰まで伸ばした男は、中国服を着ていた。 「どーも、助けていただきありがとうゴザイマス」 棒読みのセリフを誠人が言うと、男はクスッと笑った。 「無事でなによりです。けれど、それほどの怪我をして助かったのは、貴方の生命力が強かったおかげですから、貴方自身に感謝した方がいいでしょうね」 「俺自身に、ねぇ」 「診察しますから、横になってください」 「実はお医者さん?」 「無免許ですが」 男は自分の名前を鵠と名乗った。 本名かどうかはわからなかったが、とりあえずまっとうな暮らしはしていないようだった。 「まだ動かない方がいいですよ。弾が急所をかすってますから」 「う〜ん。そうしたいのは山々なんだけど、行かなくちゃいけないトコあるんですよね、俺」 鵠は誠人に怪我をした理由も、素性も聞こうとはしなかった。 それどころか、助けたことを恩に着せることもしないし、出て行こうとする誠人を止めたりもしない。誠人は鵠に借りた服に着替えながら、口元に笑みを浮かべた。 「それじゃあ、どーもお世話になりました。治療費はいずれ支払いに来ます」 「治療費は要りませんよ。私が勝手にやっただけですからね。それよりも、貴方は私の患者なんですから、ちゃんと治るまで治療に来てくださいね」 「それは医者としてのコトバ?」 「そうです」 「また治療しに来ます」 「そうして下さい」 誠人は傷のことなど少しも感じさせない足取りで、中華街を歩いて行く。 行き先は決まっていた。 かなり前から使われていないビルは、外観もかなり荒れ果てている。 誠人は非常階段を上がると、三階からビルの内部へと入った。 「いかにもって感じだなぁ」 三人は仕留めたが、店のオーナーらしき男とシゲという男を逃がしている。 シゲが逃げ際に言っていた場所がこのビルだった。 足音を立てずにビルを最上階の五階まで上ると、奥の部屋から人の声が聞こえてきた。 「俺達、見捨てられたんじゃねぇのかっ」 「そ、そんなことはない」 「じゃあ、なんで誰からも連絡ねぇんだよっ!」 「やっ、やめろっ!」 二人の言い争う声が響いていた。 誰の指示かは知らないが、あの店では金の払いが滞った客に保険金を賭けて殺害していたらしい。 「誰がどこで何してようと構わないケド。とりあえずこないだのお礼はしなくちゃねぇ」 誠人は手袋をはめると、雀荘で手に入れた拳銃をズボンから取り出す。 弾はすでに充填されていた。 「どーも、こんにちわ」 そう言って、誠人が部屋のドアを開けると、シゲと男が驚いたように誠人を見た。 「てめぇっ、生きてやがったのかっ!!」 「しぶとくてすいませんねぇ」 それだけ言うと、迷いも戸惑いもない指が引き金を引く。 誠人が撃った銃弾は、シゲと男の額を打ち抜いた。 「ご愁傷サマ」 感情のこもっていない口調でそう言うと、拳銃を投げ捨ててさっさと部屋を出て行こうとする。だが、机に置いてある封筒が目に入って誠人は足を止めた。 「これはもらっとこ。あんときのお金もらってないしね」 マンションの権利書を手に取ると、誠人は今度こそ部屋を出て行った。 来た廊下と非常階段を再び通って外に出ると、それと同時にパトカーがビルに到着する。 そのパトカーには葛西が乗っていた。 なぜ、こんなに早くここがわかったのか、その理由は葛西の野暮用にある。 葛西はあの雀荘に関与していた暴力団に取引きを仕掛けたのだが、取引きの内容は葛西しか知らない。これはその結果だった。 こんな人気のないビルにいたのは、犯人が見捨てられたからである。 「ちょっとまずかったかなぁ」 ヘタに逃げると余計にまずいので、誠人は立ち止まると葛西が来るのを待つ。 マンションから出てきた瞬間は、見られていないはずだった。 「一体どこに行ってやがったっ!」 怒鳴りながら葛西が近づいてくる。 誠人は小さくため息をついた。 「ちょっと用事あったもので…」 そう誠人が言うと、葛西はぐいっと誠人の腕を引っ張った。 「・・・・・っ」 声は出さなかったものの、さすがに痛みに顔が引きつる。 その顔を見た葛西は、誠人を睨みつけた。 「ヤバイとこはうろつくなって、言っただろうがっ!! このバカ!!」 いつも犯罪者を尋問するだけあって、かなりドスが聞いている。 あまりに大きな声だったので、誠人は片耳を手で塞いだ。 「ったく! 心配かけやがってっ!!」 怒っているような顔をしていたが、それは誠人を心配しているからである。 その顔を見た誠人は、葛西に向かって軽く頭を下げた。 「どうも、すみませんでした」 素直に頭を下げる誠人に、葛西は少し驚いた顔をして黙り込む。 誠人は下げていた頭を上げると、ビルの方を指差した。 「突入とかしてるみたいだけど?」 ビルに集まった警官達は、突入を開始ししていた。 「あっ、くそっ!! 誠人、先に家に帰ってろっ!!」 「はいはい」 「カレー作っとけよ」 「了解です」 遅れを取った葛西は、ビルに向かって走っていく。 誠人はそんな葛西の後ろ姿を暗い瞳で見つめていた。 そうしてしばらくその場に立ち止まった後、アパートへ向かって帰り始める。 帰ってカレーを作らなくてはならなかった。 「今日はチキンカレーにしてみようかなぁ」 そう言いながら歩いている久保田の手には、しっかりとマンションの権利書が握られていた。 それから更に月日が流れ、中学三年の冬。 久保田は葛西のアパートからマンションに引っ越した。 そうすることに葛西は一切反対せず、黙って見送ったらしい。 高校生になっても、誠人は相変わらず雀荘に出入りしている。 そして相変わらず、その周囲には血の匂いが漂っていた。 |
『夜明け前』 2002.4.6 キリリク6500 キリリクTOP |