部屋の中では、クーラーの静かなモーター音だけが響いている。
 珍しく朝から仕事に出かけていた久保と時任は、帰ってきてすぐに二人して眠ってしまっていた。別にそんなに早起きしたというわけではなかったが、眠い時はいつでもどんなときでも眠いものである。
 時任はすぐに潰れてしまったのでリビングのソファー、久保田は少しして眠ったので部屋のベッドだった。
 けれども、早く眠った方が早く目覚めるわけでない。
 久保田はしばらく仮眠すると目を覚まし、キッチンでコーヒーを入れてから、眠っている時任のちょうど反対側でソファーを背にして座った。
 すると、何かの気配を感じたらしく、時任が小さく唸って寝返りを打つのが聞こえる。
 それを背中から感じた久保田は、コーヒーを飲みつつゆっくりと微笑んだ。
 こうやっているだけで、時任の気配がちゃんと伝わってくる。
 静かな寝息と静かな気配。
 それがなぜか、手に持ってるコーヒーよりも暖かかった。
 そんな風に感じている自分に疑問を持つこともなく、何も考えることもなく、久保田は部屋の天井を見上げて目を閉じる。
 そして軽く息を吐くと、コーヒーカップを床に置いた。

 「時任、寝てる?」
 「…う、…ん」

 眠っているはずなのに、久保田が呼びかけると時任が無意識に返事をする。
 もう一回、久保田が名前を呼ぶと、時任も久保田の名前を呼んだ。

 「…くぼちゃ…ん」

 眠っているせいか、その声はなんとなく甘えているような響きがあった。
 久保田は小さく笑うと、膝だけで立ち上がって振り返り、ソファーの背から眠っている時任を覗き込む。すると時任はやはりまだスヤスヤと熟睡中だった。

 「地震とか起きちゃっても、そのまま寝てそうだよねぇ」

 そんな風に言いながら久保田が時任の髪を軽く撫でると、それが気持ち良かったのか時任がふわっと微笑む。
 その顔は、普段からは想像もつかないくらい穏やかだった。
 今日は時々うなされるような、例の夢は見ていないらしい。
 久保田は髪を撫でる手を止めて、時任の右手に手を伸ばす。
 そしてその手を捕らえると、力を入れずに軽く握りしめた。

 「・・・・・どこか遠くに行く? 二人で」

 未だ眠り続けている時任を見つめながら、久保田はそっとそう囁く。
 絶対に時任がそう望んでいないことを知っていながら。
 けれど、そう囁いた久保田の瞳は真剣だった。

 野獣の手と時任の過去。

 もう嫌だと、逃げてしまいたいと時任が言うなら本当はそれでもよかった。
 二人で過去なんか捨てて、始めからやり直したって全然かまわなかった。
 けれど、時任はそれを選ばなかった。
 だから、こうして久保田は時任を見守りながら傍にいるしかない。

 時任が取り戻したいと思っているモノが、この右手に戻ってくるまで。
 
 手を握りしめたまま身体を倒すと、久保田は眠っている時任の唇に自分の唇を重ねる。
 だがそれは、キスと呼ぶにはあまりにも短く、そして優しすぎた。
 
 「・・・・・・ん」
 「目が覚めた?」
 「…う、ん」

 目を覚ました時任は、自分の手を握っている久保田を見てちょっと驚いた顔をしたが、すぐに元に戻って久保田の手をゆっくりと握り返す。
 その手の感触を確かめるように。
 すると久保田もその手を握り返した。

 「寝たのって俺だけ?」
 「いんや、俺も寝てたよ?」
 「起きてるじゃんっ」
 「さっき起きたから」
 「ふーん、まあいいや。久保ちゃん、俺にもコーヒー入れて」
 「コーヒー飲んでるって良く分かったね?」
 「…匂いがすっから」
 「そう?」

 久保田がコーヒーを入れるためにキッチンに移動すると、時任は起き上がってソファーから久保田を見つめていた。
 その視線があまりにしつこく追ってくるので、久保田が、
 「なに?どうかした?」
と聞く。
 すると時任は視線を久保田の顔からキッチンの床へとうつした。

 「さっき…、久保ちゃんさぁ」
 「うん?」
 「・・・・・・・・やっぱ、なんでもない」
 
 
 辛いコトとか、哀しいコトとか、そんな色んなことがあったとして…。
 もし君がそれから逃げ出したいと望むなら、俺はやっぱり君と一緒に行くだろう。
 どこへでもどこまででも…。
 俺は逃げ出した君のコトを責めたりはしないし、ヘタな慰めを言ったりもしない。
 それはたぶん、きっとスゴクひどいことなんだと思うケド。
 
 君さえいれば、俺には何もかもがどうでもいいことだったんだ。


                                             2002.6.25
 「君と一緒に」


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