荒磯高等学校の校舎は鉄筋四階建てになっているが、生徒達の教室があるのは二階から上になっている。一階に職員室があるのはわかるのだが、一年と二年の教室は六クラスもあるにもかかわらず、二階に集中していた。
 それが悪いという訳ではないが、そのために他の階に比べて二階はかなり騒がしい。
 そのせいか執行部の部室である生徒会室と、生徒会本部は同じ二階に部屋があった。

 「ったく、近いからって気軽に呼び出すなってのっ」
 「ま、しょうがないんでない? 執行部は一応、本部の命令で動くことになってるし」
 「だいたいっ、そーいうトコも最初っから気にいらねぇんだよっ」
 「だったら、生徒会長やってみる?」
 「メンドいからイヤだっ」
 「だっしょ?」

 そんな風に話しながら時任と久保田が本部に行くと、いつものように生徒会長の松本と副会長の橘が二人を待っていた。
 普段なら全員で呼び出しされる所だが、二人で呼び出しされたということはそれなりに理由があるに違いない。のほほんと立っている久保田の横で、時任はいつも呼び出されるとろくなことがないのでかなりブスくれた顔をしていた。
 すると不機嫌そうな時任の様子を見て、橘がなぜか楽しそうに微笑んでいる。
 そんな橘を見た時任は、ますます不機嫌そうになった。
 「機嫌が悪そうですねぇ、時任君?」
 「これから見回りあんのに、呼びつけたりするからだろっ」
 「毎日とてもお忙しいのに、お呼び立てしてすいませんね」
 「嫌味かそれはっ」
 「たまには素直に取ってくださいませんか? 僕は時任君とは仲良くしたいと思ってますし」
 「はぁ? なんで?」
 「さぁ、なんででしょう?」
 そんな会話を時任と橘が交わしていると、橘の横で椅子に座っている松本が一つ咳払いをする。すると時任の横にいた久保田が、何も言わずにポケットからセッタを取り出して火をつけた。
 「ここは禁煙だぞ…」
 「知ってるけど?」
 生徒会本部で堂々とタバコを吸ってる久保田に、松本がさりげなく注意をしたがやはりわかっていて吸っているらしい。生徒会室ならまだしも、本部がタバコ臭くなるのはあまり有難いことではないに違いなかった。やはり生徒達の上に立っている以上、表向きのクリーンなイメージを崩したら会長としての地位は成り立たないのである。
 松本はもう一度咳払いをすると、時任と久保田を呼び出した用件を話し始めた。
 「最近の大塚達の動向なのだが…。噂によるとどうも校内だけではなく、他校にまで手を出しているらしい。まったく困ったものだ」
 「ふーん、なるほどね。それでこれ以上、荒磯の評判が落ちる前に何とかしろって言いたいワケね」
 「いつもながら、ものわかりが早くて助かるよ、誠人」
 「相変わらず人使い荒いなぁ、松本」
 「そう言うなよ」
 そんな風に久保田と松本が大塚達の件で話している間、時任はその二人の会話に入っていけずに更にブスっとしながらそっぽを向いている。二人で呼び出された時は、公務の内容を話すのは久保田と松本で、時任は口を挟むことはあるが最終的にはこうやって黙っていることがほとんどだった。
 久保田と松本は中学から一緒だということだったが、執行部でコンビを組んでいたせいか二人の会話はなぜか独特の雰囲気がある。その雰囲気を感じるたび、松本が久保田のことを『誠人』と呼ぶたび、時任はなんとなく嫌な気分になった。
 校内広しと言えど、久保田のことを『誠人』と呼んでいるのは松本だけである。
 時任も『久保ちゃん』と呼んではいたが、下の名前を呼ぶのはどことなく引っかかる気がしてならなかった。
 けれどそう呼ばれている久保田の方は、そのことを気にしている様子はない。
 松本には10円の借りがあると久保田は言うが、それでは納得がいかないのは確かだった。

 「そういうことでまかせたぞ、誠人」
 「ま、期待はしないでほしいけどね」

 結局、大塚達の様子を厳重注意ということで、二人の話は終了した。
 今回の話はそれほどたいしたことではなかったため、時任も口を挟むことはしてしない。
 時任はここでの用事が済んだと同時に久保田よりも早く生徒会本部を出ようとしたが、ドアのところまで行くと後ろから立場なの声がした。
 「せっかく来たんですから、お茶でも飲んで行きませんか? クッキーがありますよ?」
 「えっ、クッキー…」
 「もらいものですけど、おいしいって評判のお店のものらしいです」
 「へぇ…、うまいのか…」
 橘のことはあまり良く思っていないが、おいしいクッキーには罪はない。
 時任はクッキーがあると言われて、思わずピタリとその場で足を止めた。
 だがクッキーに少し心を動かされてしまっている時任の肩に、久保田の腕がかけられる。
 そしてクッキーを食べたいと思っている時任の気持ちを無視して、久保田の方に肩をぐいっと引き寄せられてしまった。
 「久保ちゃん?」
 「今から見回りあるっしょ?」
 「あっ、そういやそうだったっ」
 「せっかく言ってくれたトコ悪いケド、俺らは忙しいんでこれで…」
 結局、半ば久保田に連れ出されるような形で時任は見回りに行くために本部を出る。
 するとその後、生徒会本部に残された松本は、二人がいなくなると盛大にため息をついた。
 「あまり二人を挑発するな、橘」
 「べつにそんなつもりはありませんよ、会長」
 「そんな風には見えなかったがなぁ」
 「そういう会長の方こそ、挑発なさってたでしょう?」
 「お前じゃあるまいし、俺はそんなことはしてないぞ」
 「ふふっ、貴方もやはり罪な人です」
 「…一体、何の話をしてる?」
 妖艶な笑みを浮かべている橘の横で、額に汗を浮かべながら松本がそう言った。
 橘はちゃんとわかってやっているようだが、松本は時任を挑発していたことに気づいていないらしい。だが、久保田に対して別に特別な感情を抱いていないのだから、無理もない話なのかもしれなかった。
 松本が久保田を『誠人』と呼ぶことを気にしている時任も、二人が今の自分と久保田のような関係だったとは思ってはいないが、やはり気になるものは気になる。
 なので今日の見回りは、そのことを考えているのでどことなく気合いが足りなかった。
 大塚達が何かしている様子もないし公務事態は楽だったこともあって、暴れて気分を晴らす場所もない。時任は校内を巡回し終えると、らしくなく小さくため息をついた。
 「どしたの?」
 「べつになんでもねぇよっ」
 ため息をついている時任を不審に思ったのか、久保田が顔を覗き込んでくる。
 すると時任は今は憂鬱な顔を見られたくなくて、久保田から顔をそらせた。
 「なんでもねぇっつってんだろっ」
 「なんでもないって顔してないのに?」
 なんでもないと言っても久保田はそれでは納得しないらしく、小走りに生徒会室に戻ろうとする時任の腕をつかんで引き止める。
 時任がその腕を振り解こうとすると、久保田はそれを許さずに腕を掴んだまま歩き出した。
 「どこ行くんだよっ、生徒会室はあっちだろっ」
 「まだ見回り済んでないトコ残ってるから、戻れないっしょ?」
 「済んでないトコって?」
 「屋上…」
 確かに久保田の言う通り、まだ屋上が済んでいなかったが、こうやって腕を引っ張られていると公務で行くという感じはしない。
 しかし腕を握っている久保田の手に力が入っていたので、時任はそれを振り解けずにいた。
 なぜこんなことになっているのかはわからなかったが、今、久保田の手を振り解いたらいけない気がしていたからである。
 セッタをくわえている久保田の横顔を見ながら、時任は黙ったまま腕を引かれて屋上へと上がった。そしていつものようにドアを開けたのだが、今日は寒いせいか誰もいない。
 どうやら今日の公務は、本当にこれで終わりのようだった。
 しかし久保田は生徒会室に戻ろうとはせず、時任の腕を放すと屋上のフェンスへと寄りかかってセッタをふかし始める。そんな久保田の様子を見た時任は、同じようにフェンスに寄りかかって久保田の横に並んだ。
 肩が触れそうで触れない距離に時任が立っていると、久保田はふーっとため息のように口から煙を吐く。その煙を眺めながら、時任は思い切ったように久保田の名前を呼んだ。
 「誠人」
 「ん?」
 「…って、俺が久保ちゃんのこと呼んだらどう思う?」
 「さぁ、どうって言われても困るけど?」
 「あんま変わんない?」
 「どしたの、急に?」
 「急にって言われても…、べつにどうもしねぇけどさ…」
 こんなことを言い出すきっかけになったきっかけは、本当はきちんとわかっていたが、時任はそれを久保田には言わない。それは名前の呼び方とかそんなことに、久保田があまりこだわっていないことを知っていたからだった。
 だがもし逆にこだわっていたとしたら、いつまでも松本に『誠人』と呼ばせている久保田のことが許せなかったかもしれない。
 そんなことを思いながら時任がそれきり何も言わずにフェンスにもたれてボーっと空を眺めていると、今度は久保田が時任の名前を呼んだ。
 「稔…」
 「えっ?」
 「…って、俺が時任のこと呼んだらどう思う?」
 「ど、どうって言われても…」
 「困る?」
 「うー、たぶん…」
 「稔って、呼んだらいつもみたいに返事してくれる?」
 「それは…、わかんねぇけど…」
 呼ばれなれない名前で久保田に呼ばれてわからないとは言ったが、本当はいつものように返事はできそうにはなかった。久保田に稔といつもとは違う呼び方で呼ばれたら、それはそれでうれしかったがなんとなく違和感がある。
 照れ臭いという気持ちもあったが、呼ばれているような気がしないというのも事実だった。
 時任は触れそうで触れなかった距離を少し詰めると、頭を久保田の肩に乗せる。
 すると横から伸びてきた久保田の腕が、時任の肩を少し自分の方に引き寄せた。
 「久保ちゃん」
 「なに?」
 「やっぱ呼び方は、どうでもいいかもしんない」
 「うん…」
 「久保ちゃんは?」
 「どっちでもいいよ。時任が呼んでくれるならね」
 「そっか…、なら『久保ちゃん』にしとくっ」
 「じゃあ俺は『時任』にしとくから…」
 そんな風に話しながら久保田の肩にもたれていると憂鬱な気分がなくなっていくのを感じて、時任はさっきまで気になっていた松本のことを考えるのはやめにした。
 きっと誰よりも『時任』って名前を呼んでくれてるから、自分も誰よりも『久保ちゃん』と名前を呼んでいるはずだから…。
 だからきっと『誠人』より、『久保ちゃん』の方が強い。
 呼び方によって色々な想いはあるのかもしれなかったが、時任にとっては『久保ちゃん』が一番だった。

 そう呼んだら必ず返事をしてくれる『久保ちゃん』のことが好きだから…。
 
 時任は空から視線を久保田の方に移すと、いつもの時任らしくニッと笑いかける。
 すると久保田もゆっくりと、いつもの久保田らしい笑みを浮かべた。
 「そろそろ戻ろうぜっ、久保ちゃんっ」
 「うん、そーだね」
 そう言いながら顔を見合わせて笑うと、どちらからともなく唇を寄せる。
 そして軽く音を立ててキスをすると、二人は同時にフェンスから離れて歩き出した。
 久保田は手に持っていたセッタを携帯用灰皿の中に入れると、軽く伸びをしている時任の横に並ぶ。そしてチラリと横顔を見ると、時任の目の前に飴玉を一個差し出した。

 「飴玉一個じゃ、クッキーには叶わないけどね」
 「バーカッ、一個でも重さが違うっつーのっ!」

 また近々、生徒会本部に行くことになりそうだったが、やはりいくらヤキモチを焼いても『久保ちゃん』と『飴玉一個』が最強なのかもしれなかった。
 

                                             2002.11.8
 「君の名前」


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