それは夕食時のことだった。 「ううっ、マジかやっぱ・・・今日もコレなのかっ」 三日連続のカレーを前に、時任はうなっているばかりで一向に食が進んでいない。 そんな時任を見た久保田は、口に運んでいるスプーンをちょっととめて、 「好き嫌いせずに食べなさいね」 と、言う。 その一言に怒りを感じた時任は、カレーの匂いの漂う部屋で叫んだ。 「そういう問題じゃねぇだろっ!」 久保田はあまり食にこだわってないというより、作るのが面倒だった。そのため、カレーばかりの定番メニューが食卓にのぼることへの抗議を聴く気はないらしい。 「・・・久保ちゃん」 「何?」 「俺と勝負しろっ」 「何で?」 もくもくとカレーを食べてる久保田のそっけない返事に、時任はさらに怒り倍増という感じで、ばぁんと机を叩いた。 「俺と勝負して負けたら、カレーは週に二回にしろっ!」 「じゃあさ。時任が負けたらどうすんの?」 あくまで冷静な久保田は、負けることなど考えていないのかそんなことを聞く。 ムカッときた時任は、 「一回だけ、久保ちゃんの言うことなんでも聞いてやるっ!」 などと、とんでもない発言をした。 「ホントに?」 「男に二言はないっ!」 「それじゃあ、勝負といきましょうか?」 かくして、久保田は普段ではあまり見られないほどなんだか嬉しそうな顔をして、時任の申し出を受けたのである。 翌朝。 荒磯高等学校への登校途中、執行部の紅一点の桂木は、奇妙な現場に遭遇した。 学校に近づくにつれて、ひそひそ話をしながら歩いている生徒達の数が、確実に増えていくのである。しかも団体様で。 しかし、校門の辺りに差しかかった時、そのひそひそ話の正体が知れたのだった。 「べっ、別にそんなに呼ばなくてもいいじゃんかっ」 「俺は普通に呼んでるだけだけど?」 見た目には普段と変わらない、執行部の名物二人組。 時任稔と久保田誠人。 限りなくいちゃいちゃしてるってのは、普通のことだからそれはひそひそ話の元ではない。残念ながら。 おかしなことはもっと別なところにあった。 「稔も普段通りに俺のコト呼んでよ」 「ま、まことって!さっきから名前ちゃんと呼んでんだろっ!」 「呼び方がぎこちないからダメ。もっと普通に呼んでよ、稔くん」 「うっわぁっ、名前で呼ぶなっ!バカっ!」 「だったらやめる?」 「うっ、それは・・・」 「がんばろうね、稔」 「く、くそぉっ」 普段名字で呼び合っている二人が、登校しながらお互いの名前を連呼しあっているのである。 「・・・何やってんのかしら、あの二人」 二人はいつもよりも更に、あやしげな妄想に取り付かれた乙女達の視線を釘付けにしていた。いきなり名前を呼ぶようになった二人に、ありとあらゆる妄想を彼女達が展開していることは間違いなかったが、桂木はそんな乙女達と同類ではない。 「どうせ、ろくでもないことよね」 と、ため息混じりに呟いた言葉は、やはり執行部在籍の桂木らしいセリフだった。 何か騒ぎが起こらないようにと桂木が祈っていることを知らない二人は、校内に入っても相変わらず名前を呼び合っている。 それというのも、今朝起きたときから、時任が何度話し掛けても、名前を呼ばない限り久保田が返事をしないからだった。 それというのも、昨日、時任が持ち出した賭けのことが原因なのである。 『それじゃあさ。明日から、お互い名字じゃなく名前で呼び合うってのはどう?』 『どうって何が?』 『さっきの賭けの話。名字で呼んだ方の負けってヤツで勝負しない? 俺は格ゲーで対戦とかの勝負でもいいけど、それじゃあ時任に勝ち目ないでしょ?』 『うっ・・・』 時任は自分から勢いで勝負を申し出たが、その試合方法については考えていなかった。つまり、時任は自分が勝てる算段を少しもしていなかったのである。 確かに久保田の言う通り、格ゲーに限らず時任が久保田に勝てそうなものは少ない。 しかも、確実に勝てそうなものはそれよりもっと少なかった。 『よ、よし、それで勝負しようぜっ!』 何か少しひっかかりを感じたが、この勝負の場合、いつもの呼び名で呼ばないように気をつけていれば良いだけの話なので、時任は久保田の案に乗った。 しかし、そこには意外な落とし穴があったのである。 久保田はどんな名前で呼ばれても動じてないようだが、時任は久保田に名前で呼ばれるのも、自分が久保田を呼ぶのも、気恥ずかしくて仕方が無かったのだった。 「ち、ちくしょうっ。絶対負けねぇからなっ!」 「はいはい、がんばってね」 怒鳴ってみせても、顔が赤く染まっているので格好がつかない。 名前で呼んだり呼ばれたりするたびにバクバクする自分の心臓を、時任は恨みたくなる。それに、自分がこんななのに、久保田が平気なのがムカついて仕方なかった。 (なんで俺だけこんななんだよっ!) 時任が心の中でそうわめいていると、すぐ耳元で声が聞こえた。 「真っ赤になっちゃってカワイイなぁ。稔くん」 「っっつ!!!」 背中にゾクゾクっと走ったモノに声にならない悲鳴をあげながら、時任はしばらくその場で硬直してしまった。久保田は時任が固まっているのをいいことに、その頬に軽くキスをする。 当然のことながら、周囲から黄色い悲鳴が上がった。 「こ、こここ、このっ、セクハラ親父っ!!」 今更正気に返っても、時すでに遅し。 この日一日、時任と久保田は生徒達の視線を一身に受けることになったのだった。 勝負は放課後も生徒会室で続行中。 授業中も、休憩時間も久保田の攻撃?は続き、時任は感情のバランスをくずしてヘトヘトに疲れ果てていた。 ドキドキして恥ずかしくて、ムカムカして腹が立つ。 それを交互に繰り返していれば無理も無い話である。 「どしたの、稔? そろそろギブアップする?」 「・・・誰がするかよっ!」 恨めしそうな目付きで久保田を見た時任に、二人の様子を見ていた藤原が食ってかかった。 「なっ、なななんで名前なんかで呼び合ってるんですかっ!?」 「うるっせぇぞ、藤原っ」 「僕だって名前で呼んでないのにっ!」 「んなこと、俺が知るかっ!」 煩い藤原の相手までする気力は、今の時任にはなかった。 「ああもうっ、うるせぇってのっ!」 時任は、誰に言うともなくそう怒鳴ると、ドスドスと音を立てて生徒会室を出て行く。机の一個くらい壊れそうな勢いだったが、運の良いことに何も壊れてはいなかった。 「そうとう煮詰まってるみたいだけど、何やってんの? あんたたち」 時任が出て行った後、そう尋ねた桂木に久保田は簡単に理由を話した。 「まあ、そういう感じで賭けが進行してるってワケ」 そう話を括った久保田に、桂木は大きなため息をついた。 「なんかミエミエって感じの手だわね」 「負ける勝負はしない主義だもんで」 「あたし、あんたとだけは勝負したくないわ」 「俺も桂木ちゃんとは勝負したくないけど?」 「なんでよ?」 「負ける勝負はしない主義だって、言ったっしょ?」 そんな会話を久保田と桂木がしていた頃、時任は校内の廊下をもの凄い勢いで歩いていた。あまりに凄い形相なので、廊下を歩いていた生徒達はことごとく端の方へとよけていく。今の時任はまさに、触らぬ神にたたりなしといった感じだった。 しかし、考え事をしながら歩いていると、やはり前方不注意になってしまうのか、時任は角を曲がった辺りで何者かとぶつかった。 「うわっ!」 「なっ、なに!?」 時任はかろうじてコケはしなかったが、相手は床にしりもちをついていた。 衝撃はけっこう大きかったが、二人には身長差があるので、あまり大事には至らなかったようである。 「悪かったな、大丈夫か?」 さすがに自分が前も見ずに歩いていたという自覚があるらしく、時任がそうあやまると、相手はゆっくりと立ち上がり制服に付いた埃を払った。 「いや、大したことは無いから、気にしなくていい」 「あれ?」 聞き覚えのある声だったが、それもそのはず。 時任がぶつかったのは、生徒会長の松本だったのである。 「珍しいな。今日は誠人と一緒じゃないのか?」 時任の顔を見て松本がそう言うのを、時任はさっきとは違うムカムカした気持ちで聞いていた。 自分は久保田のことを名前で呼ぶことすらまともにできないのに、松本はなんなく久保田を名前で呼んでいるからである。 「一人でいちゃ悪いかよっ!」 時任が松本に食ってかかると、松本は困ったような笑みを浮かべた。 「別にそういう意味で言った訳ではないんだが」 「それじゃあ、どういうイミだよ!?」 ぶつかった上にケンカを売られるという災難が、松本に降りかかろうとした瞬間、時任の背後に何かの気配が湧いて出た。 「どうかなさいましたか? 会長」 その声にビクッと反応して、時任がその場から飛び退くと、そこには副会長の橘が柔らかい笑みを浮かべて立っていた。 「なんでもない」 そう松本がいうと、橘はそうですかとうなづいて見せた。 前のこともあってか、時任はこの橘が苦手である。 時任が速やかにこの場から逃げようとしていると、橘が松本から時任に視線を移した。 「そういえば、生徒達の話題になってたんですけど。今日、あなたと久保田君は名前で呼び合っているそうですね?」 不意打ちにそんなことを言われ、時任の顔は再び赤く染まっていた。 「そ、それは、そういうんじゃなくて、賭けなんだよ、賭けっ!」 別にだからどうという訳でもないのに、慌てた時任は二人に事情を話していた。 男同士が名前で呼び合ったからと言って、少しもおかしいことはないのだが、その時の時任はそんなことは考えもしなかったのである。 かなり気が動転していた。 「っていうワケなんだって!」 事情を聞き終えた松本はため息をつき、橘はなるほどとうなづいた後、 「このままじゃあ、時任君は久保田君に勝てませんよ」 と、言った。 「なんでそんなことがわかんだよっ」 時任がそう言って睨みつけると、橘はまあまあとなだめるように言ってから、おもむろに時任の名前を呼んだ。 「僕にはわかるんですよ、稔くん」 「てめぇ、人の名前呼んでんじゃねぇよっ」 橘に名前で呼ばれるいわれは無いと、時任は怒鳴る。しかし橘は、余裕の表情でそれを受け流す。時任よりも橘の方が上手なのだった。 「これは実験なんですよ」 「実験?」 「まあ、いいですから。黙って見ててください」 何をする気なのかと、時任が首をかしげていると、橘はおもむろに松本の傍に寄っていくと、いつもよりもより一層妖艶な笑みを浮かべると、いつも呼んでいる松本の名字ではなく、名前の方を呼ぶ。 すると、いつも冷静な松本の顔がみるみる間に真っ赤に染まった。 「ふふっ、相変わらずかわいい人ですね。貴方は」 「か、からかうな、橘」 「おや、私のことも名前で呼んでくれないんですか?」 「い、今はダメだ」 名前を呼ばれただけで真っ赤になった松本だが、しばらくすると回復したらしく、ごほんと一つ咳払いをするといつもの松本に戻った。 「それでは、今度はあなたが会長の名前を呼んでみてください」 「なんで?」 「とにかく、呼んでみてください」 橘に言われて仕方なく、ちょっと近くへ行って松本の名前を呼んだが、松本は変わりない様子で「なんだ?」と答えただけだった。 「この実験でわかったでしょう? 名前を呼ばれて恥ずかしくなるのは、好きな相手に呼ばれたからです。好きな相手以外から呼ばれても、なんともないのは自分でもわかるんじゃないですか?」 「俺はべつに・・・」 「久保田君は、貴方が恥しがり屋なのを知っているから、そういう勝負をしかけたんですよ。まあ、他にも思惑は色々あるでしょうけどね」 「は、はずかしがり屋って、誰のこと言ってやがんだっ」 「もちろん、貴方のことです」 「・・・!」 久保田に呼ばれるたびに真っ赤になっていた自分を思い出して、時任はそれ以上言い返すことができなかった。くやしさを噛み締めていると、橘はにっこりと笑って、 「久保田君は、ただ貴方の名前を呼んでるんじゃないんです。ですから、時任君も同じことをすれば少しは勝ち目があるんじゃないですか?」 と、言った。 そんな橘に向かって、松本が止めようとするかのように「橘」と名前を呼んだが、橘は笑顔でそれをかわす。 「久保ちゃんと同じコト?」 首をかしげている時任に、橘は秘策を授けたのだった。 もうすぐ帰る時刻なのに、時任が戻ってこない。 「あんまりいじめるから、一人で帰ったんじゃないの?」 と、桂木が言うと、久保田は軽く肩を竦めて、 「どうだろうねぇ?」 と、読んでいる雑誌から目を離さずに言った。 おそらく、下校時間になっても時任が戻らない限り、久保田はここで待っているに違いないという確信が桂木にはあった。 「時任先輩なんかほっといて、一緒に帰りましょうよ、久保田先輩」 藤原は相変わらず久保田と一緒に下校しようと誘いをかけているが、やはりいつものようにそっけない返事しか返ってこなかった。 「まったく、あんたも懲りないわねぇ」 「ほっといてくださいっ」 そろそろ帰ろうかと、桂木が自分の鞄を手に取る。 すると、突然、生徒会室のドアが勢い良く開いた。 「あれ、時任じゃないっ。公務サボって、一体どこいっていたのよ!?」 入ってきた時任に桂木がそう文句を言うが、時任は桂木のセリフなど一つも聞いてはいなかった。 「少しは静かに入って来れないんですかっ!」 もちろん、藤原は眼中にない。 時任が見ているのは、窓際に座っている久保田だけだった。 「おかえり、稔」 相変わらず雑誌を読みながら、久保田がそう言うと、時任はゆっくりと久保田の方に歩み寄っていた。その表情はなぜか、これ以上ないと言ってもいいほど真剣である。 何事かと見ている桂木と藤原の目の前で、時任は背後から座っている久保田の肩に手を置いた。 「なぁ?」 「ん〜?」 久保田が振り返らずに返事をすると、時任は久保田の肩に頭を乗せて、その肩を両腕で抱きしめた。 「一緒に帰ろう、誠人」 時任の口から出た久保田の名前を呼ぶ声は、聞いている方が赤くなるくらい甘ったるかった。本気で久保田に甘えているような様子である。 「そうだねぇ、帰ろっか?」 そんな時任のセリフを受けて、久保田のセリフもこれまた砂を吐きそうなくらい甘い。 どこからどう見てもバカップル。 そんな二人を見ていられなくなった桂木は、 「・・・帰るわよ」 と、放心している藤原を首根っこを引っ張って、生徒会室から出て行った。 「くっ、くっ、くぼたせんぱぁ〜い!」 「うるさいわよ、アンタ」 二人が出て行っても、時任は久保田を抱きしめたままだった。 「どういう心境の変化?」 「別に。なんかヘン?」 「いんや、ヘンじゃないけど?」 なんとなくちょっと微妙にいつもと違う久保田に、時任は心の中で拳をぐっと握った。 『どきどきしてるのは、貴方だけじゃないんです。それは久保田君も同じことなんですよ。彼の場合は、まあ、あまりそういうのは表に出ないでしょうから、わかりづらいでしょうけどね。相手を動揺させれば、いくら久保田君でもボロが出やすくなるはずです』 と、橘にアドバイスされて、時任はやる気十分で生徒会室に戻って来たのだった。。 (俺だけドキドキしてんのなら、結構ショックだしさ) 好きだからドキドキする。 ドキドキすると顔が赤くなったりして恥しいけど、それはやはり大切なコトだったりとかする。 「誠人」 時任が今のありったけの気持ちを込めて名前を呼ぶと、久保田は軽く息を吐いて、時任の頭を優しく撫でた。 「なんか、このまま帰れなくなりそう」 「なんで?」 「時任のコト、好きだから」 この久保田のセリフを聞いた瞬間、時任は久保田から離れて万歳をした。 「やったっ! 今俺の名字呼んだろっ! 俺の勝ちだかんなっ!」 時任が非常に嬉しそうに勝利宣言をすると、久保田はポケットからセッタを取り出しそれに火をつけた。 「今更、勝負なしってのはダメだからなっ!」 何かといいように言いくるめられることが多いため、やはり勝利しても安心できないとばかりにそんなことを言う。 けれど、その嫌な予感は確実に当たっていたのである。 「喜んでるトコ悪いんだけどさ。やっぱ、俺の勝ちなんだわ」 これでカレー地獄から逃れられると思っている時任を見ながら、久保田はタバコの煙をくゆらせながらそう言った。 しかし、時任は自分が今日、久保ちゃんと呼んだ覚えは一回もない。 「ちゃんと聞いてたんだからなっ! 言い訳なんかきかねぇ!」 必死の形相でそう言う時任の肩を久保田は慰めるかのように、ポンっと叩いた。 「実は朝、起こした時にねぇ。『久保ちゃん、もうちょっとだけ寝かせて』って言ったんだよ、時任くんは」 「なっ、なんだよそれっ!」 「ちゃんとMDにとってあるから、言い訳は聞かないよ? そおいう訳だから、勝負は今朝もうついてたワケ」 「なにぃ〜!!!」 かくして、勝利の軍配は久保田に上がった。 しかし、久保田家のメニューは前よりもレパートリーが少しだけ増えたとか増えていないとか・・・・。 それを知るのは二人ばかりである。 |
2002.2.9 「本日の勝利者」 *荒磯部屋へ* |