「おいっ、そっちに居たか?!」
 「いや、こっちには居ねぇぞっ!!」
 「あの小僧っ、ちょこまかちょこまかとっ!!!」

 さっきから、そんな声が後ろから横から追いかけてくる。
 だから、俺はさっきから走ってる。
 ずっと、走り続けてる。
 そうしながら、壊れそうなくらい打ってる心臓の鼓動とか、額を流れる汗とか息苦しさとかに、なんか覚えがあるような…、
 前にも、こんな風に走ってた気がしてた。
 でも、そんな気がするだけで思い出せないし、そんなコトなんか考えてる余裕なんてない。ただ今は追いつかれねぇように、走って走って走り抜くだけだ。
 追いかけて来るヤツが誰なのかはしんねぇけど、俺を追いかける理由はWAくらいしか思いつかねぇし、たぶんそうだと思う。でも、俺はWAのコトなんかなんにも知らねぇ…。
 ただ、右手が人間じゃないみたいになってるだけだ。
 だから、追いかけられる理由なんてホントは…と思いかけて、目に入りかけた汗を黒い皮手袋をはめてる右手で拭う。拭って手袋の皮の感触をカンジながら、今の俺にはなくても、前の俺は…と考えかけて頭を軽く振った。

 「だからって、捕まって良いワケねぇだろ…っ!」

 曲がり角を右へ曲がって、今度は左に曲がって足音や気配のしない方へ、しない方へと俺はひたすら走る。そうしてると、ただ走ることだけで精一杯で何も考えらんなくなってきて…、道の上に架けられた橋を通り過ぎる電車の音を聞きながら、その下を潜り抜けかけて立ち止まった。

 「一体、どこまで走りゃ…いんだよ…。俺はどこまで…っ」

 自分の心臓の鼓動がうるさくて、息がすっげぇ苦しい…。
 吐き出した声まで言葉まで苦しくて、胸を押さえてうずくまる。けど、来た方向からウルサイ足音が響いてきて、俺はすぐに立ち上がった。
 くっそっ、マジでしつけぇぞ…っ!!
 俺を追いかけてきてるヤツらは、なんか今までのヤツと違う気がする。
 ヤクザとか…、そーいうのとはどっか違ってる。
 それはたぶんカンだけど、前へ前へと走ってるはずなのに、今じゃなくて昔に戻ってく気がすんのはなんでだろう…。昔のコトなんて思い出せねぇし、それは今も変わんねぇのに、走るのに合わせて揺れる街が目の前で色あせてく…。

 まるで、古びた写真みたいに…。
 
 だんだん足も手も、カラダも動けねぇくらい重くなってきて…、
 その中でも…、特に右手が重くなってきたカンジがして…、
 俺は走りながら、ぐっと右腕を押さえた。
 こんなに重いなら…、いっそのコト右手を捨ててっちまおうか…。
 そんな考えが、まともに働かなくなってきた頭を過ぎる。
 重い右手を捨てたら、こんなに走らなくて良かったんじゃねぇのか…。
 そんな思いが…、まともに何もカンジられなくなってきた胸を過ぎる。
 ダメだってわかってんのに、色あせてく街を走ってると右手を切り落としたくてたまらなかった。

 「絶対に後悔なんかしたくねぇ…。何もわかんないまま捨てちまって、それで後悔すんのなんか絶対にイヤだ、イヤに決まってんだろ…っ!」

 息が苦しいのに叫んじまって…、もっと苦しくなって息を詰まらせて…、
 なにやってんだ俺って…て胸ん中で呟く。
 このまま倒れちまいたい俺と、絶対に倒れんなって叫んでる俺がココロを真っ二つに引き裂いて、重い右手から痛みだけが伝わってきた。

 「ちくしょうっ、なんでだよ…っ」

 人間じゃないみたいな右手でも、俺の右手に変わりない。
 でも、すっげ重ぇんだ…。
 すっげぇ重くてさ…、すっげぇ痛ぇんだ…。
 俺の右手のはずなのに、痛みしか伝えてくんなくて…、
 なんでなんだろうな…、なんでこんなコトになっちまってんだろう…。
 なんで…、俺は走ってんだろう…。
 答えろよ…、俺の右手…。
 頼むから、答えてくれよ…。
 

 「俺はあと…、どれくらい・・・・・・」


 自分のカラダが倒れていくのをカンジながら、なぜか胸が焼けるように熱くなるのをカンジながら…、そう呟いて目を閉じる。けど、その瞬間に右腕が何かにぐいっと引っ張られて、俺は閉じた目をパチっと開いた。
 「こんなトコで、何やってんの?」
 一瞬、夢かと思った…。
 聞こえてきた声も、俺の腕を掴んでるヤツの姿も…。
 でも、左手を伸ばして肩に触れてみると、少し骨ばった硬い感触が手のひらから伝わってくる。それと同時に無数の足跡が聞こえてきて、俺はそちらの方へ視線を向けた。
 「なにって…、鬼ゴッコに決まってんだろ。そーいう久保ちゃんは、なんでこんなトコにいんだよ?」
 「俺はバイト帰りだけど、そっちは鬼ゴッコ、ね…。鬼はどちらサマ?」
 「そんなの俺が知るかよっ。なんかわかんねぇけど、いきなり追いかけてきやがったんだっ」
 「ふーん、野良猫じゃなくて飼い猫なのにね」
 「俺は保健所に追われる野良猫かっ!!つーか、追いつかれっから走るぞっ」
 「なら、背中にどうぞ」
 「そ、そんなハズいマネできっかっ!」
 「もしかして、お姫サマ抱っこの方が良かった?」

 「余計に悪いわっ!!!」
 
 自分のカラダが倒れてくのをカンジて、もう走れないと思った。
 息が苦しくて、心臓が壊れそうだった…。
 右手が重くて痛くて…、もうダメかと思った…。
 けど、久保ちゃんの声を聞いた瞬間、久保ちゃんが目の前に立ってるのを見た瞬間、重くてたまらなかった右手が少し軽くなって…、
 もう走れないと思ってた足が、黒いアスファルトを踏みしめた。
 そして、今はもう走り出してる…。
 それはとても不思議なカンジで、とても信じらんねぇカンジで…、
 でも、その不思議さが信じらんねぇカンジが…、
 走るたびに吹き抜けてく風が、久保ちゃんの隣を走るってコトが…、
 すごく気持ち良くて楽しくて…、
 なぜか、次第にぼやけてくる視界を直すために、俺はゴシゴシと右腕の袖で目をこすった。
 
 「おいっ、ちょっと待てっ! そこは店だろっ!!」
 「だぁねぇ。しかもソープ」
 「ソープって何? つーかっ、マジで行く気かっっ!」
 「社会見学だと思って」
 「く、久保ちゃんは、こーいうトコで社会見学したのか?」
 「・・・・じゃ、行こうか」
 「とかって、その間は何なんだっっ」
 「ヒ・ミ・ツ」

 「うわあぁぁ…っ!!! やめろーっっ!!」

 二人で色んなトコを潜り抜けて走り抜けて…、
 いつの間にか聞こえなくなった足音に、ホッと息をついて空を見上げる。
 痛みだけしか伝えてくれない、そんな左手で汗を拭いながら…。
 すると、横から伸びてきた久保ちゃんの手がハンカチで額を拭ってくれて、反対側の手が俺の右手を取る。そして、ちっとも思い通りになんなくて、そこにあるかもしんねぇ過去ごと切り捨てて置いていきたかった…、あの時、そんな風に思ってた右手をぎゅっと握りしめた…。
 
 「もう…、桜の季節も終りだぁね」

 そんな風に言われて視線を少しずらすと、この間までピンク色だった桜の木が緑色をしてる。ピンク色だった時もキレイだったけど、風で揺れるたびに陽の光りが零れ落ちる緑の葉は、すごく生きてるカンジがして眩しくてキレイで…、
 俺は久保ちゃんと一緒にそれを眺めながら…、俺の手を握りしめてくれてる久保ちゃんの手をぎゅっと握り返した。

 「まだ…、終るわけにはいかねぇんだ…」

 俺がそう言うと、久保ちゃんは何も言わずに握りしめる手に少し力を込める。そして、二人で風の吹く方向へ…、何かに逆らうように歩き始めた…。
 右手を久保ちゃんに預けたまま…。
 そしたら、なぜか痛みしか感じない右手が、久保ちゃんと俺とを繋いでくれてる気がして…、そう感じたら…、もう二度と右手を捨てて行こうなんて、そんな風に思わないだろうって…、
 どんなに痛くても重くても…、この右手があるから走っていける。
 そんな気がして…、俺は痛みしか感じない右手を…、

 ・・・・・・・初めて大切に思った。

『走る』 2007.4.25更新


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