自分の名前を呼んでもらいたかったら…、名前を名乗らなきゃならない。
 だから一度だけ、自分の名前をフルネームで名乗った。

 『俺はクボタマコトって名前だから…』

 そんな風に時任に向かって名乗ったのはいつのコトだったか…、それは忘れてしまったけど…。
 時任を拾った日のことは、冬の冷たい空気と雪の降りそうな空を見ると思い出すことがある。
 でも、だからってべつにどうってワケじゃない。
 あの日までは、俺の腕の中には冬の冷たい空気しかなかったけど、腕を伸ばせばそこにある温かさを抱きしめることができることが現実だから…。
 冬の冷たい空気に何を思う必要も、カンジる必要もなかった。
 けど、こんな風に時々思い出してしまうのは、きっとその時のことを覚えてるのが俺だけだからなのかもしれない。
 あの日の空の色も、空気の冷たさも…。
 起き上がらせて引きずるようにして連れて帰った時の重さも…。
 何もかもが俺だけの中にあって…、時任の中には何もなかった。

 俺の始まりと…、時任の始まり…。
 
 それは微妙にずれていて…、そのずれが時々、あの時に感じた少しの重さを思い出させる。
 眠るように目を閉じている時任をゆっくりと抱き起こした、その時の重さを…。
 灰色の空の下で…、何かを見つけた瞬間を…。
 
 「なぁ、久保ちゃん」
 「なに?」
 「また雪とか降って来そうだよな」
 「うん…」

 こんな風に隣りを歩いて、話して…、そして手をつないで…。
 そうなることを、始めから予想していたとは言わない。
 けど、そうなるようにきっかけを作ったのは紛れもなく俺だった。
 
 ベッドで眠り続けてる時任の髪を撫でながら…、右手を握りしめていたのも…。
 
 だから記憶をなくしてゼロになってしまった時任には、何も選択権なんかなかったし…、そんなものを作ってもやらなかった。
 ゆっくりと包み込むように時任を抱きしめたのは、優しさなんかじゃなくて…。
 その瞳が視線が…、他の誰かを見つめることが許せなかっただけで…。
 いつも名前を呼んでくれる唇が俺以外に触れないようにするために、右手を握りしめてその身体を抱きしめ続けていた。
 
 「な、なにすんだよっ」
 「寒いなぁって思って…」
 「人をカイロがわりにするなってのっ」
 「時任はお子様体温だから、あったかくていいやね」
 「誰がお子様だっ!」

 拾ってから数日たって眠りから覚めた瞬間、真っ直ぐ見つめてきた瞳はベッドの横にいる俺だけを捕らえていた。
 少しも瞳をそらさずに…、ただひたすら…。
 その瞳に見つめられた時に感じたのは、あの日の重さと薄暗い感情…。
 ずっとその瞳に囚われていたい…、その瞳を捕らえていたいという欲求だった。
 これを恋と呼ぶのなら…、恋する想いだとそう名づけるなら…。
 たぶんそれは底も果てもなくて…、どこまでも続く灰色の空が頭上を覆い尽くすように…、この胸の中には恋しさといとしさだけがあるのかもしれない。

 恋する人をあの部屋に…、腕の中に閉じ込めようとする独占欲という名のエゴと共に…。

 真っ直ぐに見つめてくれてるその瞳を想いながら…、灰色の空を見上げて優しく温かな身体を抱きしめると、世界が穏やかな色に包まれる。
 けどその穏やかさは抱きしめている瞬間だけで…、腕を離すと再び世界は冷たく凍りつこうとする。
 まるで温かな毛布から出ると、あっという間に夢が覚めてしまうように…。
 
 「時任…」
 「なんだよ?」
 「もし、俺が落ちてたら拾ってくれる?」
 「落ちてるって…、そんなことあるワケねぇだろっ」
 「世の中何が起こるかわからないし、そんなのわかんないっしょ?」
 「・・・ったく、しょうがねぇからそん時は俺が拾ってやるっ」
 「ホント?」
 「俺が拾わなきゃ誰が拾うんだよっ」
 「うん、そーだね…」

 誰にも選ぶ権利はあるから…、いつでも目の前に選択肢があるから…。
 あの日、あの時も…、きっとそういう中の一つだったのかもしれない。
 けど、時任の選択肢は俺がなくしてしまったから…、こうしている今があった。
 だから重さをカンジて…、灰色の空の下を歩いた時から…。
 きっと俺はこんな風に俺は時任の選択肢を…、選ぶ権利を潰して回ってるのかもしれない。
 目の前にある選択に気づかせないように、右手を握って抱きしめて…、ちっぽけな世界から外を眺めながら…、それが壊れることだけを心配して…。
 
 小さな小さな箱檻のような世界の中で…、息もつけないくらい強く君を抱きしめながら…。


                                             2002.12.17
 「箱檻」


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