「あー、またか…」
 「これで何体目だ? 初めは驚いたもんだが、さすがに見慣れたよ」
 「見慣れるほど、見たいもんじゃねぇんだけどな」
 「それにしてもだが、こんだけ仏さんが出てんのに未だクスリも事件解決の糸口も見つからねぇってのが不気味だぜ…」
 「・・・・・迷宮入りってヤツか」
 「おい、縁起でもねぇこと言うなよっ」
 「けど、このままの調子だとわかんねぇだろ…」

 「・・・・・確かにな」

 夕暮れ時に110番通報のあった古びたアパートの一室では、そんな会話を交わしながら鑑識と書かれた腕章をつけた二人が指紋の採取を行っている。けれど、室内にいるのはこの二人だけではなく、他にも警察関係者が狭いアパートの中で手帳を片手に事件の調査を行っていた。
 だが、管理人が発見したという獣化した遺体しか、この部屋には特に変わったところは見られない。こういうケースは今回が初めてではなく、もうすでに何体も同じ獣化した遺体が発見されていた。
 いつの間にか見慣れてしまった人間とは思えない奇妙な遺体を眺めながら、葛西は小さく息を吐いて眉間に皺を寄せる。すると、そんな葛西の隣にいた新木が刑事としての職務を放り出して、いつものように部屋の外に飛び出した。
 「うっ、おぇえ・・・・・・、げほけぼ・・・」
 新木はアパートの前にある植え込みの前で、昼食のうどんを派手に吐いている。そんな新木のところに葛西がやって来たのは、遺体のあった部屋の現場検証を終えてからだった。
 葛西はしゃがみ込んだまま動かない新木に近寄ると、その背中を軽く蹴る。すると、青い顔をして新木が葛西の方を振り返った。
 「な、なにするんっスかっ、葛西さんっ」
 「あーあ、せっかく昼におごってやったうどん吐きやがってもったいねぇっ」
 「今日のヤツは派手だったんで思わず…、す、すいません…」
 「…ったく、普通はこんだけ見りゃ少しは慣れるもんだろ」
 「そんなこと言われたって、慣れないもんはなれませんって…」
 「今度、おごったもん吐きやがったら罰金な」
 「えぇっ、それはないっスよ〜」
 毎回、獣化した遺体を見るたびに吐いている新木の情けない声を聞きながら、葛西は植え込みの向かいにある自動販売機で缶のお茶を一つだけ買う。それは自分が飲むためではなく、おごってやったうどんを吐いた新木に渡すためだった。
 葛西はいつものように新木に缶を投げて渡すと、ポケットから携帯を取り出して電話をかける。だが、電話をかけた相手は携帯にかけているにも関わらず、アパートからの通報の内容を知って警察署内でかけた時と同じように出なかった。
 どうやらかけた相手は、携帯の電源を切っているらしい…。
 葛西は携帯をポケットにしまい込むと、かわりにそこからタバコを取り出して口にくわえた。

 「まさか…、な」

 そんな風に葛西が思わず呟いてしまうのは、電話をかけた相手が獣化した変死体の件に関わっているせいである。詳しいことはまだ何もわかっていないが、この事件からはかなり危険な匂いがしていた。
 だから、できることなら事件に関わらせたくはなかったが、電話をかけた人物にはどうしても関わらなくてはならない事情がある。その事情を知っている葛西はその人物の人を食ったような笑みにうまく丸め込まれて、自分の思いとは裏腹に情報を流す羽目になってしまっていた。
 「しょうがねぇ、帰りにでも寄ってみるか…」
 「もしかして、例の甥っ子の?」
 「あぁ…、せっかくさっきから電話してやってんのに出やがらねぇんだよ」
 「なら、前に一緒に来てた連れの子に連絡してみたらどうっスか?」
 「確かに時坊なら出るかもしれねぇが、そいつはダメだ」
 「ダメってなんで?」
 「あー、そいつはなぁ…」
 「そいつは?」

 「誠人の…、あいつの目を見りゃわかる」

 葛西は目を細めながらそう言うとタバコに火をつけて、ふぅっと勢い良く煙を吐き出す。すると、その煙の向こうに獣化した遺体が運び出されているのが見えた。
 初めてWAというクスリに関係した事件現場に来た時と違って、今はやはりタンカーに乗せられて運ばれていく異様に小さな遺体を見ていると、どうしてもその姿と時任稔という少年の姿がだぶる。そしてそれと同時に、そんな時任を優しく見つめている久保田誠人の姿も思い出された。
 以前からヤクザに足を突っ込んだり危険な生活をしていた久保田だが、なぜかWAと関わる前よりも後の方が雰囲気も微笑みも穏やかに見える。けれど、そんな久保田の変化を目の当たりにしても、路地裏で時任を拾ったことを…、
 二人が出会ったことを…、なぜか心から祝福することはできなかった。
 「俺にできるのは見届けることだけ…、か…」
 「はぁ? なんっすかソレ?」
 「さぁな」
 「いつもそんなこと言って何も教えてくれないんですよねぇ、葛西サンて」
 「後、十年くらいすりゃあお前にもわかるようになるさ」
 「そんなこと言って…、どーせ十年たったら、あと十年足りないって言うに決まってるんっすからっ」
 「はははっ…、ちげぇねぇや」
 そんな風に葛西がいつものように新木と話していると、視界の中に見知った人物を見つける。その人物はじっとタンカーの遺体を見つめていたが、しばらくすると別の何かを探して視線をさまよわせ始めた。
 だから、そばまで行こうととしたが、そうする前にその人物の方が葛西の姿を見つけて走り出す。けれど、やはりその横にはいつも一緒にいる連れの姿はなかった。
 「葛西のおっさんっ」
 「おうっ、時坊か…、誠人のヤツはどうした?」
 「それは俺の方が聞きてぇよっ。朝、起きたらいなくなってるし、ケータイかけても繋がらねぇし…」
 「それで、探してんのか?」
 「だってさ…、ケータイまで繋がんねぇなんて初めてだったから…」
 「・・・・・・・そうか」
 「うん」
 久保田がいなくなって、不安そうな色を浮かべている時任の瞳が葛西を見る。そんな時任の瞳に見つめられていると、なんとなくいつも優しく微笑んでいる久保田の気持ちがわかる気がしたが…、
 時任が探しているのは、葛西でも他の誰でもなく久保田だった。
 吸っていたタバコの煙を深く吸い込むと、もう一度だけポケットから携帯を取り出して電話をかけてみたがやはり久保田は出ない。吸っているタバコの端を噛みながら何をしてやがるんだと葛西はつぶやこうとしたが、口を開こうとした瞬間に思い出したことが一つだけあった…。
 「おい、新木…」
 「はい?」
 「今日は何日だ?」
 「あー…、えーっと、今日は1月29日ですけど?」
 「・・・・・・・・」
 「それが、どうかしたんっスか?」

 「いや…、なんでもねぇよ」

 荒木は首をかしげていたが、葛西はそれには答えずに目の前に立っている時任の髪をぐちゃぐちゃっと撫でる。すると時任はぐちゃぐちゃにされるのを嫌がったが、髪を撫でる葛西の手は止まらなかった。
 久保田が時任を拾った一年前…、その時はこんな風に会話ができるようになるとは思っていなかったが、今は会話をすることもこうして頭を撫でることもできる。それが当たり前になりつつあったせいで忘れていたが、一年前と今との違いを改めて葛西は時任の頭を撫でながら感じていた。

 「良かったな…」

 しみじみとそう呟きながら心の底から二人が出会ったことを…、祝福したい気分になる。たとえ二人の前に広がっているのが暗闇でしかなかったとしても、今があるならそれでいいと初めてそう思えた…。
 葛西はゆっくりと頭から手を離すと、ニッと葛西らしい笑みを時任に向ける。そしてぽんぽんと時任の肩を軽く叩くと、久保田を探すのをやめてマンションに帰るように言った。
 「誠人のヤツなら、待ってりゃ必ず帰ってくる」
 「けどさ…」
 「ちゃんと誠人は帰ってくるって、俺が保障してやるからマンションに帰れ、時坊」
 「・・・・・・・・」

 「なぁに、心配はいらねぇよ。あいつの帰る場所は、お前のいるトコしかねぇんだからな…」

 葛西がそう言ったのは時任をマンションに帰すためではなく、それが事実で本当のことだからで…、
 それはたぶん、今も久保田は時任のことを考えながら想いながら二人が出会った日に…、寒空の下を歩いている気がしたせいだった。
 時任はポケットの中の携帯を握りしめて葛西の言葉にゆっくりとうなづくと、言われた通りにマンションに向かって歩き出す。もしも久保田の帰る場所はあのマンションだけだとしたら、時任の帰る場所もあのマンションしかなかった。

 「サンキュー…、おっさん」

 時任はそう礼を言うと、葛西達に背を向ける。
 そして、マンションからここまで来た道のりを戻り始めた。
 事件現場まで来たのは葛西がマンションの電話に残した伝言を聞いたせいで、最初は久保田を探しに来たんじゃなかったのに…、何回かけてみても繋がらない携帯を握りしめてると、WAの情報をつかむよりも久保田を探したくなった。
 それは、皮手袋のはまった右手を眺めていると、自分のことをWAの情報をつかみたいのに…、少しでも何か知りたいと思うのに…、
 たった一人でで現場に向かっていると、なぜか久保田との距離が遠くなる気がしたせいだった。
 倒れてる所を拾われて、他に行くところなんてないからって…、
 一緒に暮らすことになった事情を話すと、たぶん誰もがそう思うのかもしれない。あの部屋にいるのは記憶がなくなってて、何もわからないから仕方がないって…、そう言うのかもしれない…。
 けれどもしも記憶が戻ったとしても…、変わりたくなかった。
 一緒に暮らしてることだけじゃなくて、何もかも同じでいたかった…。
 でも、右手に痛みを感じるたびに握りしめるたびに忘れてしまったばすの過去が追いかけてきて…、嫌な夢ばかりを見て息が苦しくなる。けれど、その夢から逃げるように、痛みを右手から切り離したくはなかった。

 「痛いのを忘れても…、傷は治んねぇもんな…」
 
 痛みも傷も…、思い出せばもっと深くなってしまうのかもしれない…。
 けれど、本当はどこからこの痛みが生まれてるのかを知らなければ、痛みになれて麻痺していくだけのような気がした。
 葛西達のいる事件現場に背を向けて振り返らずに走り出すと…、ポケットの中の携帯が鳴る。その音が響くと、時任はハッとして足を止めた。
 一つだけの番号しかしかアドレスに入力されていない携帯にかけてくる人物は、この世にたった一人しかいない。
 時任の携帯には、見慣れた名前が表示されていた。
 
 「…ったくっ、今ごろ電話してきてもおせぇっつーのっ」
 
 そう言いながらも通話ボタンを押して携帯を耳に当てると…、受話器の部分から聞きなれた声が聞こえてくる…。その声を聞きながらいなくなったことを心配していた分だけムッとしていても、優しく名前を呼んでくれてる声を聞いているとすごくうれしくなった。
 だから…、マンションにいたことにして通話を切って…、二人で暮らしてる部屋のドアを開けておかえりを言うために…、

 北から吹いてくる冷たい風を切りながら…、全速力で走り出した…。











 一年前と同じ道を歩いて…、なんとなく手に持ったビニール袋を眺める。そうしたら、一年前は一人分しか入っていなかった塩ラーメンが二人分入っていた。
 だから、持ってる袋は一年前よりも重くなってて、なのにマンションに帰る足取りはたぶん前よりも早い。けれどそんな自分に苦笑してると…、突然、まるで古い映画のフィルムを巻き戻したように一年前と同じ風景が目の前に現れた…。
 喪服を着た女性が…、久保田に向かって深々と頭を下げている。その光景を見ていると、なぜかアスファルトを染める赤い血の匂いを思い出した。
 けれど久保田は一年前と同じように、その前を立ち止まることなく通り過ぎる。すると…、歩いていく先に薄暗い裏路地が見えた…。

 「そーいえば、けっこう重かったっけ…」

 一年前のことなのに、なんとなく裏路地にいた時任を抱き起こした時の重さの感覚が腕に残っているような気がする。それはもしかしたら、その時に感じた重さを今も背負い続けているせいかもしれなかった…。
 消えそうになっていた命をつなぎ止めた手だけれど、今も血の匂いが染み付いて取れない。でも、そんな手でつなぎ止めた命をその重さを…、ずっと抱いていたかった…。

 この手が…、どんなに罪に濡れていたとしても…。

 通り過ぎてしまうこともできたのに…、一年前も今も久保田の足はこの場所で止まる。そしてポケットから携帯を出すると電源をつけて、メモリーに一つだけ入っている番号を押した。
 すると…、携帯から呼び出し音が響き始める…。
 眠っている時任を置いてマンションを出てから、携帯の電源を切っていたことに深い理由はなかったけれど…、
 もしかしたら、少しだけ一年前の風景を見てみたくなかったからかもしれない。でも…、腕に残っている始めて時任を抱き上げた時の暖かい感覚が巻き戻りかけたフィルムを早送りして…、今の風景を久保田に見せていた。

 「今から…、帰るから……」

 そう短く携帯に向かって言葉をつむぎながら、ゆっくりと後ろを振り返る。すると、そこにはぼんやりと空を眺めている喪服の女性がまだ立っていた…。
 派手だった化粧も香水の匂いも薄くなっていたけれど…、確かにその女性の周りには過ぎ去った過去が漂っている。血の匂いの混じった消えない過去の匂いを嗅ぎながら、久保田は少しだけ後戻りすると…、
 女性に向かって…、深く頭を下げた…。

 「・・・・・・・さよなら、久保田君」
 「さよなら…」

 短く言葉を交わして…、二人は背を向けて逆の方向に歩き出す…。
 そして…、今度は振り返らずに久保田は家路をたどり始めた…。
 一人ではなく二人で暮らしているマンションに向かいながら眺めた空の色は、口にくわえたセッタから立ち上ってく煙をまぶしたような灰色で…、
 だから、もしかしたらいつの日もそんな日の空には、弔いの煙が混じっているのかもしれない。けれど帰るべき場所が…、帰りたい場所があるから空ばかりを眺めて立ち止まったりはしなかった…。

 「今度は俺の方が先…って言ったら、たぶん怒るんだろうけど…」

 二人分の塩ラーメンの入った袋を持って、帰りついたマンションのチャイムを押すと中からバタバタと走ってくる音がする。別に走って来なくてもいいのに、いつも走ってくる足音を微笑みながら聞いていると…、
 やがて、目の前のドアが勢い良く開かれた…。
 「帰ってくんの、おっせぇよっ! それに連絡しようとしたのに、ケータイの電源も切っちまってるしっ」
 「うん…、ごめんね」
 「…ったくっ、まぁべつになんもなかったみたいだからいいけどさ」
 「今日はカレーじゃなくて塩ラーメン作るから、許してくんない?」
 「えっ、マジ?」
 「二人で塩ラーメン食べよ」
 「うんって…、あっそうだ忘れてたけど…」
 「ん?」
 「おかえり…、久保ちゃん」

 「・・・・・ただいま」

 おかえりを言った時任の肩を触ったら、ずっと部屋の中にいたはずなのに冷たい…。けれど、その理由は留守電を聞いたらすぐにわかった。
 たぶん、一人で魔化した遺体の出た現場に行ってきたに違いない…。
 でも、時任が何も言わなかったから、久保田も何も言わなかった。


 『ピー……、用件を消去しました』


 大切な時ほど…、過ぎていくのが早くなる…。だからあっという間に君といる時は過ぎて…、思い出を記録するために回ってるフィルムはなくなってしまうんだろう。
 けれど早くても遅くても…、長くても短くても…、
 君といる今があるならそれでいい…。
 くわえたタバコから、ゆっくりゆっくりと立ち昇っていく煙は…、
 
 この部屋で抱きしめ合う…、僕と君の肺を汚していた…。
 


『フィルム』二周年記念 2004.1.29更新


注意*1月29日が拾った日なのは嘘なのですっ、
 勝手に作って、ごめんなさいです〜(汗)←おいっ。

*WA部屋へ*