冬の寒さに震えながら暖かな春が来るのを待っていても、やがて訪れた春が過ぎるのはあまりにも早くて…、目の前をゆっくりと落ちていくピンク色の花びらに気づいて空を見上げると、そこには満開の桜の花ではなく緑色の葉桜があった…。
 まだわずかに付いている小さな花は風に揺られて一枚、また一枚とアスファルトの上へと落ちる。そして、その落ちた花びらの前で時任が立ち止まると、すぐ近くから規則的な音を出しているチャイムの大きな音が聞こえてきた。
 チャイムを鳴らしているのは長いフェンスに囲まれた大きな建物だったが…、それが何の建物なのかは隣を歩いている久保田に聞くまでもなく見ればわかる。時任が立ち止まったままフェンスの中を覗き込むと、同じくらいの年の子達が楽しそうに笑いながら校門に向かって歩いて行くのが見えた。
 けれど、その中の一人が時任が見ているのに気づいたのか、少し驚いたような表情でこちらを見ている。でも実はその視線は時任ではなく、葉桜を見上げながらセッタを吹かしている久保田の方を向いていた。
 「アイツ、久保ちゃんの知り合い?」
 「さぁ? たぶん話したことないと思うけど、ココに通ってるなら俺のカオ知っててもおかしくないかもね」
 「話したことないのに知ってるって、なんでだよ?」
 「どこにしまったのか忘れたけど、一応ココの制服持ってるから…」
 「…ってことは、久保ちゃんってもしかして高校生っ!?」
 「しかも、まだ現役」
 「ま、マジで?」
 「そんなに信じられない?」
 「そういうワケじゃねぇけど…、なんとなく…」

 「ま、席はあっても通ってないから、高校生とは言えないかもしれないけどね?」

 久保田は、そう言いながら吸っていたセッタの灰をアスファルトの上へと落とす。すると、その灰はそこにわずかに降り積もっていた桜の花びらの上に降りかかった。
 だが落ちた灰も桜の花びらも…、すぐに風にさらわれて空へと舞い上がる。
 吹いてきた突風に混じった砂に頬を撫でられて時任が本能的に瞳を閉じたが、その風は時任の髪を乱しながら吹き抜けることなく久保田の身体によってさえぎられた。
 風がなくなった後、自分の前にあたたかさを感じて時任が顔をわずかに上へとあげながら瞳を開くと、そこには優しく微笑んでいる久保田がいる。けれど、時任はなんとなくそんな久保田の顔を見ていられなくて、少し赤くなりながらふいっと視線をそらすと…、
 そばにある金網に手を伸ばして、カラカラと音を立てながら歩き出した。
 カラカラと鳴る金網の向こうには…、久保田が通ったことのある高校がある。けれど、学ランを着た久保田も、ここに通っている姿も見たことがないから…、少しもここにいる久保田を想像することができなかった。
 「なぁ、久保ちゃん…」
 「ん?」
 「なんで、学校に行かなくなったんだ?」
 「うーん、雀卓がなかったからとか?」
 「…って、そんなのあるワケねぇだろっ」
 「なーんてね」
 「くーぼーちゃんっ」

 「けど、それがわかってたら今も通ってたかもね…、ココに…」

 久保田がそう言い終えると、カラカラと鳴っていた金網の音が止む。それは歩いている内に校門にたどり着いて、金網がそこで途切れたからだった。
 校門の中にある校舎は少し赤く染まりかけた日差しに照らされて、それを見ているとどこか別の世界のようにも見える。時任は一歩足を踏み出して中に入ろうとしたけれど、横を通り過ぎる生徒達の声が聞こえてくると足を元へと戻した。
 
 「日が暮れる前にさっさと帰ろうぜ、久保ちゃん」

 時任はそう言って校門に背を向けたが、そんな時任の腕をぐいっと引っ張ると久保田は校門の中へと足を踏み入れる。そして、そのまま学校の敷地内を歩き始めた。
 いきなりの行動に驚いて、時任はぼーっとしたまま久保田に腕を引かれていく。そんな二人の姿を見た生徒達がこちらを指差しているのが見えたが、久保田は気にした様子もなく自分が通っていたことのある学校へと時任を連れて行った。
 「生徒じゃないヤツが、学校ん中に入っていいのか?」
 「見学するだけだし、べつにいいっしょ?」
 「でも、どこに行く気だよ?」
 「さぁ? どこだと思う?」
 「そんなの、俺が知るワケねぇだろっ」

 「だぁね」

 きょろきょろと辺りを珍しそうに見回している時任を見ながら声を立てずに小さく笑うと、久保田は吸っていたセッタを携帯用の灰皿の中に放り込む。そして、迷うことなく上の階へと続いている階段を登り始めた。
 誰もいなくなった放課後の静かな校舎内に、二人分の足音が違うリズムを刻みながらも重なりながら響く。時任はてっきり忘れ物でも取りに来たのかと思っていたが、久保田はどの階の廊下へも足を踏み入れなかった。
 二人で上へ上へと続く階段を登って…、登って…、そうしている内に階段が行き止まりにたどりついて途切れる。けれど、いきどまりだと思っていた所にはドアがあって、その先にはまだ何かがあった。
 久保田は手を伸ばして目の前にあるドアのノブをひねろうとしたが、そうする前に時任の手が伸びてきてドアを開く。すると、その先にあったのは教室や物置ではなく、夕暮れ色に染まりかけている空だった…。

 「なんか…、マンションで見る時より空が近い気ぃする…」

 ドアを開けて屋上に出ると、時任の頬を少し冷たくなりかけた風が撫でる。
 いつもより近い空をじっと眺めながら屋上のフェンスの前まで来ると、そこからは金網の外の世界が見えた。
 金網の外は車の音も人の声も…、あふれるようにたくさんで騒がしくて…、
 けれど、そんな喧騒もここまでは届かない。
 目の前の景色に吸い込まれていくように、時任が身体を前に倒しながらフェンスに両手をかけると、その横に久保田がフェンスに寄りかかりながら後ろ向きに立った。
 「学校に来てた時、もしかしなくてもココで昼寝とかしてただろ?」
 「なんで、そう思う?」
 「ココで寝たら、すっげぇ気持ち良さそうだからっ」
 「屋上だとタバコも吸えるしね」

 「…って、学校で吸うなってのっ」

 そんな風に二人で話してるとさっきまで想像できなかったことが、段々と想像出来るようになってきて…、ここで寝転んでセッタを吹かしている久保田を見たこともないのに見たことがあるような気がしてくる。そして高かった空が低くなったように…、制服を着てなくてもここにいることがさっきまで思っていたほど不自然じゃない感じがした…。
 自分が学校に通ったことがあるのか、それともないのかわからなかったけれど…、
 もしも通ってたら、こんな風に二人で屋上から空を眺めていたのかもしれない気がして…、
 そんな風に思ったりしてると、もう少しだけこのまま空を眺めていたかった。

 赤く染まりかけた空の下で…、穏やかな風に吹かれながら二人きりで…。

 でも…、どんなに空を眺めても現実は一つきりしかない。
 時任は目の前にある一つきりしかない現実を掴むように黒い手袋に覆われた右手を前へと伸ばすと…、何もない空間でゆっくりと指を曲げていく…。けれど、その手が胸の奥に染み込んでくるような静けさに満ちた空気を掴む前に、久保田の手がその手の上に重なった。
 そんな二人の目の前には、いつもと変わらない灰色の街が広がっている。金網の中からも見えるその景色を眺めていると、吹きぬけていく風が乾いていくような気がした。
 けれど、吹いてくる風から守るように久保田が後ろから抱きしめてくる。
 時任は抱きしめてくる久保田の腕に左手を乗せると…、じっと金網の向こうを眺めながら少しだけその手に力を込めた…。
 
 「帰ろう…、久保ちゃん…」

 帰るべき場所も…、行くべき場所も金網の向こうにある。それを伝えようとするかのように時任がそう言うと、久保田は右手を握りしめたままで軽く時任の髪にキスを落とした。
 そして抱きしめていた腕をほどいて…、赤く染まっていく日差しの中で顔を見合わせて笑い合うと…、入ってきたドアに向かって歩き出す…。
 すると、この高校の教師らしい男の声が、あらゆる所に設置されているスーピーカーから校内に響き渡った。

 『三年五組の久保田っ、久保田誠人っ! 来てるなら、ちょっと職員室に来なさいっ!』

 どうやら、久保田を見かけた生徒の内の誰かが、放送をしている教師に来ていることを話したらしい。けれど放送を聞きながらも、久保田は時任と一緒に立ち止まらずに走り出した。
 もしも学ランを着ていたから立ち止まったかもしれないが、今は現実を手のひらの中に握りしめるように…、皮手袋に覆われた時任右手を握りしめて金網の向こう側に帰らなくてはならない…。途中で学校に引きとめようとした教師を振り切ると、二人は校舎の外へと走り出して…、それから一気に校門までの道を駆け抜けた…。
 
 「帰りにファミレス寄って何か食ってこうぜっ、走ったらなんかハラへったっ」
 「そんじゃ、今日はバナナジャンボパフェにしよっかなぁ」
 「ジャンボじゃなくてフツーのにしとけっ、フツーのヤツにっ」
 「どうして?」
 「あのでっかいパフェは、食ってるトコ見てるだけで胸焼けすんだよっっ!」
 「うーん、なら見てるだけじゃなくて一緒に食えば?」
 「ぜぇったいにっ、食わねぇっ!!」
 「そんなに力いっぱい言わなくても、ねぇ?」
 「なにがねぇ…っだよっ!!見ただけで胸焼けしてんのにっ、食ったらもっと胸焼けするに決まってんだろっ!!!」
 「だったら、タピオカ」
 「げっ、やっぱファミレス中止にしてウチで…」
 「ふーん、そう? 今日で一週間目のカレー…、カビ生えてないといいなぁ…」
 「はははははっ…、い、行かないなんてジョウダンに決まってんだろっ、ファミレスまで急ごうぜっ!!!」

 「はいはい」

 二人が走り去った後の校門の前には、葉桜の間に残っていた花びらがひらひらと踊りながら舞っていたが、その落ちてくる花びらに足を止める人はいない。そして、ただ学校の敷地内を吹き抜けていく風だけが、花びらをさらうようにゆっくりと静かに桜の枝を揺らしていた…。


『遠景』 2004.4.16更新


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