六時間目終了後。
 なぜか三年六組の教室内は甘い匂いで一杯になっていた。
 実は隣の五組が前の時間調理実習だったらしいのだが、その時に製作したクッキーを、おすそ分けみたいな感じで六組に持ち込んでいたからである。
 けれどそれを持ってきているのは、やはり女子。
 つまり、自分の目当ての男子に手作りクッキーを渡してポイントを上げようという魂胆なのだった。
 「あの、これ貰ってくれない?」
 「作りすぎたからあげるわよっ」
 「感謝して食べなさいね」
 「よかったら、これ…」
 アプローチの仕方はそれぞれだが、やはりこういうのは人気のあるナシでもらえる数も決まってくるものである。
 三年六組。
 このクラスにいる男子はかなり不幸だった。
 バレンタインにしても、こういう時にしてもハンパじゃなくモテる男が一人。
 こういうヤツがいると、その余波を受けてもらえる数も自然と減ってしまうのである。
 「あの、久保田君」
 「あっ、私のも貰って?」
 「…こ、これ」
 教室の一番端の久保田の席には人だかりができていた。
 五組の女子が、久保田に自分の作ったクッキーを渡そうと必死になっていたからである。六組の女子はそれを睨んでいるという状況だ。
 「う〜ん、もらっても困るんだけど」
 久保田は自分の机に置かれていくクッキーをぼ〜っと眺めながら、面倒臭そうにそう言った。おそらく、クッキーをくれた女子の顔など一人も見てないし、覚えてもいないに違いない。
 久保田誠人。
 やはり罪な男である。
 そして、そんな久保田を物凄く不機嫌そうな顔で見ている人物が約一名。
 その一名は言うまでもなく、久保田の相方の時任だった。
 「なんで久保ちゃんばっかなんだよっ」
 ぶすくれた顔をして久保田を見ていた時任がぼそっとそんなことを言ったが、その呟きを聞いていた桂木に突っ込みを入れられた。
 「アンタがモテるより不思議じゃないと思うけどね」
 「なにが不思議だっ!俺様の方が美形なんだぞっ!」
 「そういうのは、クッキーもらってから言えば?」
 「うっ、うっせぇ!」
 実際、時任はまだ一個ももらっていなかった。
 主な原因というのは定かではないが、やはり常に久保田の隣にいるのが問題なのかもしれない。久保田がかなり男臭いので、その隣にいるとどうしても時任をそういう対象に見づらい。つまり、カッコいいでなく、カワイイという感じになるのだ。
 自分よりカワイイ男というのは、やはり問題なのかもしれない。
 「たかがクッキーじゃんっ」
 そんなふうに時任が久保田を眺めながらブツブツ言っていると、
 「あの、時任君」
と、時任を呼ぶ声がした。
 時任が久保田の方から声のした方に視線を移すと、そこには綺麗にラッピングされたクッキーの入った袋を持った女子が一人立っていた。
 「あの、時任君」
 「えっ?」
 いきなりのことに時任がきょとんとしていると、その女子はクッキーの入った袋を時任の方に差出した。
 「これ、食べてほしいんだけど…」
 「お、俺?」
 「うん」
 顔を真っ赤にして頷いた女子から、時任はクッキーを受け取る。
 丁寧なラッピングが、その想いをあらわしているかのようだった。
 「サンキューな」
 笑顔のサービス付きで時任が礼を言うと、女子はさらに真っ赤になって走って自分の教室に戻って行く。誰の目から見ても、時任のことが好きだということがわかる。
 しかし、変なところで鈍い時任は、そのことに気づいていない。
 「どっちが罪作りなのかしらねぇ?」
 単純にクッキーをもらったことを喜んでいる時任と、思いっきり面倒臭そうな久保田を見ながら、桂木はそう呟いたのだった。





 放課後の生徒会室。
 時任はさっそく、自分のもらったクッキーを食べていた。
 「ほんっと食い意地はってるよな」
 相浦がそう言うと、時任はモグモグ口を動かしながら、
 「俺がもらったんだから、どうしようと俺の勝手だろっ」
と、言った。
 目の前に食い物があったら食う。
 時任は菓子類が目の前にあると、手を出さずにはいられないのだった。
 「それにしても、沢山もらいましたね」
 久保田の前にあるクッキーの山を見て、松原がそう言うと久保田はだるそうにフーッと煙草の煙を吐き出した。
 「そうねぇ」
 「食べないんですか?」
 「ん〜、ちょっとね」
 時任と違って、久保田はこういう貰い物は絶対に食べない。
 神経質なのかどうなのかはわからないが、どうやら手作りが苦手らしい。
 『なんで食わねぇの?』
 以前、そう時任が聞いた時、
 『何が入ってるかわからないっしょ? 手作りって』
と、答えている。
 時任は思いもよらなかった久保田の答えに首を傾げていた。
 『べつに毒なんか入ってねぇと思うけどな』
 『だろうね』
 『なんか、ヘンなの』
 『そう?』
 『…そんなに人のこと信用できねぇの?』
 その時任の問いに、久保田は微笑んだままで答えなかった。
 過去に何かあったかどうかは知らないが、やはり今もこうしてクッキーを無造作に机に置いたままそれを見ることもない。
 「いる人は持って帰ってね。こんなにあってもしょうがないから」
 久保田がそう言うと、桂木が置いてあるクッキーの一つを手に取った。
 「確かに多すぎっていえばそうよね。いいわ、バレー部の友達に渡してバレー部のみんなに食べてもらうわ」
 「サンキュー、桂木ちゃん」
 こうして、久保田のもらったクッキーのバレー部行きが決定した。
 これだけのクッキーを持って帰っても、時任一人では食べきれないだろう。
 無難な選択である。
 「じゃあ、俺は巡回に行くぜ。行くぞ松原」
 「了解です」
 「ちょっと資料室まで行って来る」
 今日の巡回は時任、久保田コンビの当番ではない。
 当番である相浦と松原が生徒会室を出て行き、室田も用事があって資料室へと行った。
 「それじゃ、あたしはバレー部に行ってくるわね」
 桂木もクッキーをバレー部に届けるべく席を立つ。
 そして、久保田の前にあるクッキーを両手に持った。
 「ちょっち待てよ、桂木」
 「何よ?」
 桂木はクッキーを全部抱えて行こうとしたが、それを時任が呼び止める。
 てっきり自分の食べるクッキーを置いていけというのかと思っていたのだが、
 「一個、一番上の青い袋のヤツ置いてけよ」
と、たった一つだけ置いていくようになぜか真面目な顔で言った。
 桂木はそんな時任に向かって軽く肩をすくめると、時任の指定した袋をゆっくりと机に置いた。クッキーが割れてしまわないように。
 「一つでいいの?」
 「一個でいいんだよっ」
 「ふーん…、まあいいけどね」
 それ以上、時任に何も言わず、桂木は生徒会室を出て行った。
 相浦、松原、室田、桂木の順番で皆が出て行き、生徒会室には時任と久保田の二人が残った。
 久保田は煙草を吹かしながら、本を読んでいる。
 時任は桂木の置いていったクッキーの袋を開けると、クッキーを一つ取り出した。
 「…久保ちゃん」
 「ん〜?」
 時任の呼びかけに、久保田が生返事を返す。
 視線は本に向いたままだった。
 時任はそんな久保田の傍まで行くと、読んでいる本と煙草を久保田の手から強引に奪い取る。すると久保田はやっと顔を上げて時任の方を見た。
 「どしたの?」
 少しも怒っていない顔で久保田がそう時任に聞くと、時任は本を机に置いて煙草を灰皿で消すと、自分の手に持っているクッキーを少しだけ齧った。
 「一個だけでもいいから食えよ、久保ちゃん」
 「なんで?」
 「だってコレ、久保ちゃんがもらったんじゃん」
 「べつに頼んでないけど?」
 「そーかもしんないけど、もらったのは事実だろ? きっとさ。一生懸命作ったんだぜ、コレ」
 そう言いながら時任が青い袋を久保田の前に差し出したが、久保田はそれを手にとろうとはしなかった。
 「久保ちゃん」
 「どしても食わなきゃダメ?」
 時任の真剣な視線を受けて久保田はため息をついた。
 どうしても、食べることに抵抗があるらしい。
 食わないとダメかと聞いてくる久保田に、時任は返事をしなかった。
 返事をせずに青い袋を机に置く。
 そして、食べかけのクッキーを自分の口にくわえた。
 「時任?」
 久保田が少し首を傾げると、時任がその肩に手をかけて顔を近づけてきた。
 クッキーを口にくわえたまま。
 時任はキスするみたいに、久保田の唇に唇を寄せていく。
 久保田は少しだけ躊躇したが、口を開けてクッキーを齧った。
 口の中に広がるバニラエッセンスの香り。
 苦笑しながらそれを食べ終えると、その様子を眺めている時任の唇に自分の唇を重ねる。
 時任の唇からも、久保田の唇からも甘い匂いがした。
 「んっ…」
 久保田は時任の頭を引き寄せると、唇を割って舌で口内をさぐる。
 時任もそれに答えるように、椅子に腰掛けている久保田の膝に座って、深く深く口付けた。濡れた音が生徒会室に響く。
 「…はぁ」
 しばらくして時任が唇を離したが、それを久保田が許さなかった。
 「久保ちゃん…、桂木が帰ってくる」
 「いいじゃない、帰ってきても」
 「良くないっ」
 「うれしそうな顔して、女の子からクッキーもらってたヤツの頼みなんか聞いてやらない」
 「あ、あれはべつに、おすそわけもらっただけじゃん」
 「あんなに真っ赤になって渡してたのが、ただのおすそ分けなの?」
 「だ、だってさ」
 「かわいかったよね?」
 「そんなの覚えてねぇよっ」
 「ウソつき」
 「ウソじゃねぇもん」
 「俺のコトだけ見てくれるようになるまで、放してあげないよ」
 「だっダメだって…」
 「俺がクッキーもらっても、嫉妬もしてくれないし?」
 「…く、久保ちゃん…んんっ…」
 何度も角度を変えながら激しく口付けられて、時任の頭も視界もぼ〜っとぼやけてくる。そのぼやけてくる視界の中に、クッキーの入っている青い袋がうつった。
 青い綺麗な袋。
 時任は自分にクッキーくれた女子の顔は覚えていなかったが、この青い袋を持っていた女子のことは覚えていた。
 ひたむきな目でじっと久保田を見ていた女の子。
 その子は久保田の周りに集まっていた中で、ずば抜けて美人で綺麗でスタイルもよかった。時任が思わずじっと眺めてしまったくらいに。
 …久保ちゃんと並んだら、似合いそうなカンジだよな。
 そう思ってしまった瞬間、胸が苦しくなった。
 なのに、時任はその子のクッキーを久保田に食べさせたのである。
 「久保ちゃん」
 「なに?」
 「クッキーうまかった?」
 長い長いキスが終わった後、時任がそう聞くと、久保田は首をかしげて、
 「…クッキーの味忘れちゃった。時任のキスの方がうまかったから」
と、言った。
 それを聞いた時任はちょっと泣きそうな感じの顔で微笑む。
 すると久保田は、時任の頬にキスを落とした。
 「久保ちゃんのバカ」
 「バカでいいよ」
 「…このクッキー、もう食わなくていいから」
 「うん」


 相浦達が戻ってくるまで、時任は久保田の膝に乗っかったままだった。
 久保田が時任を膝に乗せたまま、ずっと時任の頭を撫でていたからである。
 だが実はクッキーを置いて、相浦達よりも早く桂木が戻ってきていたのだが、時任と久保田が熱烈にキスしていたため、一度開けたドアをパタンと閉じた。

 「ったく、生徒会室でやらないでほしいわよねっ」
 
 などと言いつつ、やはり今回も桂木は邪魔しないように出て行ったのだった。
 
                                             2002.4.22
 「クッキー」


                     *荒磯部屋へ*