公務中というのはやはり乱闘になることも多く、怪我をすることも少なくない。
 公務の時間にちよっと怪我をして保健室のドアを開けた時任は、偶然、そこに来ていた橘と鉢合わせた。時任は保健室の常連だが、橘はここにいる自体がかなり珍しい感じである。
 「こんにちは、時任君」
 「…どーも」
 執行部員として生徒会長室に行くことはあるが、会長の松本や副会長の橘と親しく話をすることはまずない。久保田はそれなりに話をするようだが、それでもどこか緊張感のある会話がされているようだった。
 「怪我、ですか?」
 「怪我ってほどのもんじゃねぇよ。かすり傷だし」
 実際に、こうやって時任と橘が二人きりになったのは今回が初めてである。
 時任が馴れない状況に戸惑いつつも橘の問いに答えると、橘はにっこりと優しく微笑んだ。
 さすがに、抱きたい男NO.1と言われるだけあって、その微笑みは魅力的である。
 だからといって別に見惚れたわけでもなんでもなかったが、時任は思わずじっとその顔を眺めてしまった。
 「どうかしましたか?」
 「べ、べつにっ」
 「そうですか?」
 橘は会長の松本と恋人関係にある。
 この学校で男同士のカップルは珍しくも無いが、受けとか攻めとかそういう発言がインパクトが強かったために、時任はなんとなく微妙に松本と橘を意識してしまっていた。
 「…ったく、どいつもこいつも」
 時任は男子校時代からこの学校に在籍していたが、男同士の恋愛には否定的である。
 一見、型破りな時任だが、この件に関しては別のようだった。
 自分の考えを他人に押し付けるようなことはしないが、恋愛は男女間でという意識が強い。
 完全に否定はしないが、理解できないという態度を時任は取り続けていた。
 「手すりむいてますね。消毒して差し上げますから、こっちへ来てください」
 「自分ですっから別にいい」
 「ついでですから」
 「…おいっ」
 橘は強引に時任の腕を取ると、傍にあった丸椅子に座らせる。
 時任は腕を振り解こうとしたのだが、橘の力の方が強かったのでそうすることができなかった。
 それに親切にそう言ってくれているのだから、あまり強く出るのも大人気ない気がして、時任は橘が言うままにおとなしくすりむいた手を差し出す。
 すると橘は、痛くないように手際よく消毒すると、そこにガーゼを当てた。
 「包帯するほどのもんじゃねぇって」
 「幅がありますから、包帯の方が面倒がなくていいですよ。それに、たかが擦り傷と甘く見てるとバイ菌が入ってしまいますから」
 「…わぁったよ」
 白くて繊細だが、意外に男らしい手が包帯をクルクルと巻いていく。
 時任はその手をじっと眺めていた。
 「気になりますか?」
 「はぁ?」
 「さっきから、ずっと僕のこと見てるでしょう?」
 橘に言い当てられて、時任は動揺して橘の手から視線をそらせた。
 当然だが、そういう態度がどんな風に橘の目に映るかなとど考えてはいない。
 俯いてしまった時任を、橘は妖艶に微笑みながら見つめた。
 「興味ありますか? 僕と松本会長の関係」
 「ねぇよ、そんなもん」
 「それとも、興味があるのはもっと別なことですか?」
 「なんの話してんだよ?」 
 「こういう話ですよ」
 橘は強引に時任の腕を引っ張ると、その身体を自分の方へ引き寄せる。
 すると、時任のすぐ目の前に橘の整った綺麗な顔がきた。
 息がかかるほどの距離。
 時任が驚いて目を見開くと、その視界から橘の顔が消えた。
 「…ん?」
 唇に当たるよくわからない柔らかな感触。
 なんだろうとなぜか真っ白になってしまった頭で考えていると、歯列を割って何かが口内に忍び込んできた。その時になって始めて、時任は自分が橘にキスされていることに気づく。
 途端に吐き気がしてきて、橘から逃れようともがいたが腕をつかまれて動きを封じられた。
 「うぅ…」
 唇を塞がれていて声が出ない。
 いいようにされている事実にくやしさが込み上げてきた。
 時任が舌に噛み付いてやろうかと思った瞬間、
 「お取り込み中悪いケド、一応ココ保健室なんで」
と、突然聞きなれた声がドアの方からする。
 聞き間違えようもないその声の持ち主は、時任の相方で同居人の久保田だった。
 「そういえばそうでしたね。僕の不注意でした」
 久保田の存在に気づいた橘が、やっと時任を開放する。
 時任は口元を押さえて俯いた。
 「怪我の手当ては僕がしましたから」
 「それはそれはご親切にどうも」
 「では、用事がすんだので僕はこれで失礼します」
 久保田も橘も、いつもと変わらない様子で短い会話を交わす。
 そんな二人の声を聞きながら、時任は気持ち悪さをぐっとガマンしていた。
 どうして、男である自分が同じ男である橘にキスされなくてはならなかったのか、なぜ自分がこんな目に合わなくてはならないのか理解できない。
 「…時任」
 久保田に呼ばれて視線を上げると、すでにそこには橘の姿はなかった。
 時任が口元を押さえたまま上目遣いで久保田を見ると、久保田はその頭をよしよしという感じで撫でる。時任は気持ち悪いことを目だけで訴えた。
 「こっちにおいで」
 「う…」
 久保田は時任を保健室内にある簡易キッチン台まで連れて行くと、コップに水を汲んでうがいをするように言った。

 ガラガラガラ・・・・・ペッ!!

 何度も何度もうがいをする時任は、正気を取り戻したと同時に完全に怒っていた。
 女の子ならまだしも、男にキスされるなど言語道断。
 あまりに驚いたので気後れしてしまったが、今度あったら絶対に殴ることを時任は心に誓っていた。 
 「くっそぉぉぉっ!ぜってぇ復讐してやるっ!!」
 「…復讐、ねぇ」
 「なんだよっ、久保ちゃん」
 「べつに」
 「ううっ、まだキモチわりぃ」
 「結構、ディープなのしてたもんねぇ」
 「言うなっ!!」
 「帰るよ、時任」
 時任は復讐だ、復讐してやると叫んでいたが、久保田はそれをはいはいとなだめている。
 時任が暴れて、久保田がなだめるのがいつものスタイル。
 だが、時任は自分がキスされたのに平然としている久保田にショックを受けていた。
 男にキスされたくらい、犬にかまれたと思って忘れればいいのかもしれないが、キスの感触が唇に残っていて忘れられない。だからかどうかはわからないが、さっきから時任は喋るたびに動く久保田の唇をじっと眺めていた。
 「なに?」
 「な、なんでもねぇよ」
 「そう? ならいいけど」
 橘としたキスはすごく気持ち悪かった。
 もし、キスがあんなにキモチ悪いものならずっとしなくてもいい。 
 そう時任は思ってはいたが、無理やりされたさっきのが始めてだった時任と違って、久保田は自分よりもたくさんキスしていそうだった。
 


 
 「だぁぁっ、そりゃねぇだろっ!」
 「待ったナシね」
 「うわっ、待てっ」
 「ダメ」

 いつものように二人で住んでいる部屋のリビングで、時任と久保田はゲームをしていた。
 時任が久保田に負けるのはいつものことだが、今日は集中力を欠いているため相手にもならない。あまりにあっけなく負けるので、嫌になった時任はコントローラーを床に投げた。
 「やってらんねぇってのっ!」
 「調子悪いね」
 「うっせぇっ」
 夕食を食べて風呂に入っても、時任はどことなく不機嫌だった。
 忘れよう忘れようとするたび、保健室でのことを思い出す。
 時任は眉間に皺を寄せて床にゴロっと横になった。
 「なに怒ってるの?」
 「…怒ってねぇよ」
 「ほんとに?」
 「しつけぇぞっ、久保ちゃん!」
 仰向けになって時任がそう怒鳴ると、久保田がゆっくりとその傍に寄っていって、かなり不機嫌になっている時任の顔を覗き込んだ。
 「ホントはねぇ」
 「久保ちゃん?」
 「怒ってんのは俺の方なんだよねぇ」
 「なんで?」
 「なんでだと思う?」
 久保田にそう言われて、時任が唇を尖らせた。
 不意打ちとはいえ、その唇は橘によって奪われている。
 久保田は手を伸ばして、時任の唇を指でなどった。 
 「く、久保ちゃん?」
 「トンビに油揚」
 「はぁ?」
 「なんで、あんなに簡単にキスされちゃうかなぁ」
 「フツーされるなんて思わねぇだろっ!」
 「そぉねぇ」
 「や、やめろって…」
 時任がやめろと言っても、久保田はやめようとはしない。
 ゆっくりとくすぐるように唇をなどっていく指を、避けようと思えば簡単に避けることができる。
 嫌なら起き上がればいい。
 けれど時任はそうしなかった。
 「時任はさ。男とキスしたくないでしょ?」
 「当たり前だろっ」
 「だったら俺から逃げなよ。逃げないと知らないよ…。どうなっても」
 「何言ってんだ?」
 「鈍感すぎるってのも、罪だよね」
 ゆっくりと時任の顔に久保田の顔が近づいてくる。
 久保田の右手がいつもかけている眼鏡を外した。
 そうすると、眼鏡をしている時よりも数段迫力が増す。
 眼鏡を外した久保田の瞳は真剣な色を浮かべていた。
 「くぼ…」
 時任は久保田の名前を呼ぼうとしたが、その声は途中で途切れてしまう。
 久保田の唇が時任の唇を塞いでいた。
 「ん…」
 とまどったように動いた時任の手に、久保田の手が重ねられる。
 時任は久保田にすがるようにその手を握りしめた。
 ゆっくりとその感触を確かめるように落とされるキス。
 そのキスは橘とした時とは全然違っている。
 息をついた時に久保田に深く口付けられても、時任はそれを避けようとせず、戸惑いながらもそのキスに応えていた。
 「時任…、ちょっとだけ舌出して」
 「う…ん…」
 優しくからめられてくる舌が気持ち良くて、時任は夢中になってキスをする。
 始めはたどたどしかった動きも、久保田にリードされて自然になっていった。
 「気持ち悪い?」
 長い長いキスが終わってボーっとしている時任に久保田がそう言うと、時任の顔が真っ赤に染まる。それは誰の目から見ても、気持ち悪いようには見えなかった。
 それを見た久保田は、微笑んで時任の額に一つキスを落とす。
 すると時任は、さらに真っ赤になってバカッと怒鳴った。
 「もう、俺以外にキスされないでね。時任」
 「…く、く、く」
 「く?」
 「くぼちゃんっ、なんでっ?!」
 「なんでって?」
 「なんで俺にキスなんかすんの?」
 「…お前ねぇ」
 時任の鈍さはハンパではない。
 そもそも、あれほど普段いちゃいちゃしていて、まったく久保田の気持ちに気づかないのはあまりにも見事に鈍すぎる。
 久保田はふかーくため息を付くと、音を立てて時任の唇に短くキスした。
 「俺はお前のコトが好きなの。キスとかそういうのいっぱいしちゃいたいくらい」
 「えぇぇぇ!?」
 「なんでそんなに驚くかなぁ? いつもちゃんと意思表示してたつもりだけど?」
 「し、知るかそんなもんっ」
 久保田が自分のことを好き。
 それを本人の口から始めて聞いた時任は、穴が空くほどマジマジと久保田を見つめる。
 いつも一緒に、いつも傍にいたが、そんな風に久保田が想っていることに時任は微塵も気づいていなかった。
 だが実は、これは鈍いのだけが原因なのではなく、時任が無意識の内に久保田を意識していたことが原因だったのである。
 つまり、自分の想いを押さえることに必死で余裕がなかったのだった。
 「男嫌いだって言うし、全然意識してくれないし」
 「うっ…」
 「ちょっとは俺のコト好きだって思ってくれてる?」
 「そ、そ、そんなの言わなくたって、わかれってのっ」
 「俺とキスしても平気?」
 「・・・・・・久保ちゃんのバカっ!」
 「俺のコト好きだって言ってよ、時任」
 「バカ、バカ、バカ…!」
 時任は全然力の入っていない手で、久保田をバシバシと叩く。
 久保田はその手を押さえて、唇を耳元に寄せた。
 「とりあえず、キス解禁ってことでよろしく」
 「うぅ…」
 「キス嫌い?」
 「…久保ちゃんなら…嫌じゃない
 
聞き取りづらい小さな声が時任の口から漏れる。
 その声を聞き逃さなかった久保田は、ふわっと嬉しそうに微笑んだ。
 「それからね。時任のファーストキス、橘じゃないから気にしなくていいよ」
 「なんで久保ちゃんにそんなことわかんだよっ!?」
 「あー、それはね」
 「それは?」
 「俺が毎日しちゃってるから」
 「はぃぃ?」
 「朝、キスくらいじゃ起きないんだよね。お前って」
 「・・・・・・・・」
 「どしたの?」
 橘にファーストキスを奪われたことにもショックを受けていた時任は、久保田から事実を聞かされて拳をふるふると震わせた。
 「何か解禁だっ!もうやってんじゃねぇか、このスケベっ!!」
 「キスくらいでスケベはないんでない?」
 「…キスだけじゃねえだろ?」
 「あれ、バレてた?」
 「キス禁止っ!!」
 「いまさらそれはないでしょ」
 「今までさんざんやったクセにっっ!!」
 「やっぱ、意識ある時がいいなぁ。ちゃんと積極的にこたえてくれるし」
 「・・・・・・・・・久保ちゃんなんか嫌いだぁぁぁっ!!」
 「まあまあ、そう言わないで」




 少しも進展しないかに思えた二人の間は、橘によってちょっとだけ前進した。
 とりあえず、前より気持ちは通じ合っているようである。
 「時任」
 「ば、ばかっ、学校ではやめろっつってんだろっ!」
 「学校じゃなきゃいいの?」
 「揚げ足取るなっ」 
 あれ以来、さらにスキンシップの激しくなった時任と久保田を見ながら橘が苦笑しているのを桂木が目撃したが、そんな橘に久保田が気づいていたこともことも桂木はちゃんと見ていた。
 「ねぇ、久保田君」
 「なに? 桂木ちゃん」
 「あたし、今日珍しいモノ見たんだけど?」
 「珍しいモノねぇ」
 「顔に青アザつくってる橘副会長」
 「ふーん、それは珍しいかも」
 「…まっ、いいけどね」
 橘は顔にアザが出来た理由を誰にも話さなかったらしいが、わかる人にはわかっているようである。
 

                                             2002.5.27
 「僕のキモチと君のキモチ」


                     *荒磯部屋へ*