五月も終わりが近づくと暖かいというよりは暑くなり、校内に生えている木々の緑も茂って美しくなってくる。そんな深緑の季節の穏やかな日は、きっと何事もなくいつも通りに過ぎていくのかと思われていたが、一人の人物が生徒会室に入ってきたことによって一変した。

 「おいっ、ここに久保田はいるか?」

 放課後の生徒会室にそう言って入って来たのは、荒磯の教師である三文字だった。別に三文字がここに来るのは珍しくはなかったが、いつもはどちらかと言えばのんびりとしている三文字が少し慌てているのはただ事ではない。
 気になるその声に生徒会室にいた執行部員が、いっせいにドアの方を向いたが…、実はその中にいるはずの人物が一人だけ欠けていた。
 三文字が久保田のことを呼んだことで、嫌な予感が桂木の脳裏をよぎる。
 けれど呼ばれた久保田も同じように、そんな予感を感じていたに違いなかった。
 久保田は吸っていたセッタをポケットから取り出した携帯用灰皿に放り込むと、いつも座っている椅子から静かに立ち上がる。
 そして、ゆっくりとドアの方に向って歩き出した。

 「ちょっと…」

 桂木はそう久保田に声をかけようとしたが、久保田を包んでいる空気に拒絶されてしまったので黙るしかない。そばにいた藤原も久保田の方に手を伸ばしかけたが、その手は空気を掴んだだけで久保田まで届かなかった。
 久保田はドアまでたどりつくと、そこで立ち止まって三文字の方を身もせずに話しかける。けれど三文字が話そうとしている内容を、なんとなくわかってでもいるのか、言った言葉はただ一言だけだった。

 「…時任はどこに?」
 
 久保田の口から時任の名前が出ると、生徒会室の空気が一瞬凍りつく。
 けれど三文字の口から時任のことが語られると、すぐに空気はふっと力が抜けたように通常の温度を取り戻した。
 三文字によると、時任はふざけて遊んでいた生徒達に巻き込まれて床で頭を打ったらしい。保健医の五十嵐の診断によると脳震盪を起こしただけと言うことだったが、やはり打った場所が場所なので、念のために病院で検査を受けることになったのだった。
 「あくまで念のためということなんだが…」
 そう三文字が言ってから病院の名前を告げると、久保田は何も言わずに生徒会室を出ていく。その後ろ姿を見ながら、桂木は小さくため息をついた。
 久保田がいなくなったことで、重かった空気が少し軽くなったが…、
 やはりまだ、重かった空気の余韻が生徒会室には残っていた。
 「時任は本当に大丈夫なんですか?」
 「ああ、意識はハッキリしてるし問題ないだろう…、たぶんな」
 「けど、ふざけてた生徒に巻き込まれてなんて時任らしくないですよね?」
 「あー…、それはだな…」

 「もしかして、何かあったんですか?」

 桂木がそう言うと、三文字は頭をガリガリと掻きながら詳しく状況を説明した。
 時任が床で頭を打つことになった訳を…。
 すると桂木は再びため息をつきながら、久保田が出て行ったドアを眺める。
 けれどそこにも廊下にも、すでに久保田の姿はなかった。
 病院に向った久保田のことを考えながら桂木が頬杖をついて憂鬱そうな顔をすると、三文字は「まぁ、心配ないだろ」と言って肩をすくめる。けれど、それにうなづきながらも桂木の憂鬱そうな顔は晴れなかった。
 「三文字先生…」
 「ん、どうした?」
 「先生の話を聞いて私は、時任らしいって思ったんです」
 「あぁ、確かに時任らしいな」
 「けど、久保田君はどう思ったかなぁって…」
 「それはやっぱり、時任らしいって思ったんじゃないか?」
 桂木の言葉に時任らしいと答えた三文字は、だらりとだらしなく下げられているネクタイを息苦しそうにさらに緩める。するとドアの方からそんな三文字に視線を移した桂木は、座っていた椅子から立ち上がった。
 そして三文字の前まで行くと、緩められた三文字のネクタイを強引にしめる。
 すると三文字は「すまん」と言って、またガリガリと頭を掻いた。
 桂木が頭を掻いている三文字に少し笑ってみせてから、ゆっくりと後ろを振り返って窓を見ると、そこには病院へと向う久保田の後ろ姿が見えた。

 「時任らしいって…、それがわかるのってつらいでしょうね…」

 そう言ったっきり桂木は黙って久保田の背中を見送ったが、同じように窓の外を見つめていた藤原も他の部員も何も言わなかった。
 桂木と同じ方向に視線を向けたまま…。
 けれど、それはここにいる全員が桂木と同じことを思っていたのか、それとも久保田の残した重い空気の余韻が残っているのかはわからない。
 重い空気と静けさを運んできた三文字は、せっかく桂木がしめたネクタイを再び緩めると、ポケットからタバコを取り出すと無造作に口にくわえて火をつけてから、静まり返った生徒会室に背を向けた。
 








 荒磯高校から一番近い病院はいつも混んでいて、行き交う人々と看護婦が診察室へ患者を呼び出しをする声が廊下に響いていている。
 繁盛しているという言い方に、眉をひそめる人は多いかもしれなかったが…、
 やはり世の中が不景気だとしても、病院に患者が耐えることないのかもしれなかった。
 そんな繁盛している病院に到着した久保田は、大勢の人の中を迷うことなく歩くと、すぐに診察室の前のイスに座っている五十嵐の姿を発見する。
 五十嵐は学校でもそのプロポーションと胸を強調した大胆な服装で目立っているが、それは学校から出ても変わらなかった。
 「あら、久保田君」
 「ども…」
 「絶対に来るとは思ってたけど、思ったより早かったわねぇ」
 「・・・・時任は?」
 「今、検査に行ったところよ」
 五十嵐が明るい調子がそう言うと、久保田は五十嵐の座っている長いすには座らずに近くの壁に寄りかかる。そしてポケットに手を伸ばしかけたが、病院だということを思い出したのでそこからタバコを出すことはなかった。
 三文字から話を聞いて無事だということがわかってはいたが、まだ久保田は時任の顔を見ていない…。
 そのせいなのか、少しだけ胸の奥がチリチリと焼けていくような感覚があった。
 五十嵐が脳震盪だと言ったのを信用していない訳ではなかったが、それでもタバコに向って伸ばされた手が行き場を失って下に落ちる。
 久保田は視線を足元に落とすと、病院の白い床をじっと見つめた。

 「すぐに意識を取り戻したし、顔色も良かったから大丈夫よ。あの単細胞バカがこれくらいのことで、どうにかなるばずないでしょ?」
 
 床を見つめてる久保田を気遣うように五十嵐がそう声をかけてきたが、久保田は軽く気のない返事を返しただけだった。
 だが、床ばかりを見つめていた久保田の視界に、ふいに暗く影が落ちる。それに気づいた久保田が少しだけ視線をあげると、そこには同じ荒磯の生徒が立っていた。
 
 「ごめんなさい…、私のせいで時任君が…」

 久保田の前に立ってそう言ったのは二ノ宮という女子生徒で、この二ノ宮をふざけていた男子生徒から助けたために時任は頭を打ったらしい。五十嵐がそのことを説明している間も二ノ宮は久保田にあやまっていたが…、久保田はじっとそれを聞いているだけだった。
 けれど、二ノ宮も時任と同じく被害者で、何か悪いことをした訳じゃない…。
 それがわかっていたとしても、おそらく時任が言うだろう言葉を久保田は二ノ宮に言ったりはしなかった。
 「あの…、私…」
 「そのセリフは俺じゃなくて、時任に言ってやってくれる?」
 「えっ?」
 「けど、検査に時間がかかるから…、明日ね」
 「でも…」
 二ノ宮は今日どうしても時任に助けてもらった礼を言いたい雰囲気だったが、久保田はわざわざ明日と付け加えて拒絶する。けれどそれに二ノ宮が気づかないでここにとどまっていようとしたので、そばにいた五十嵐が小さく息を吐きながら、二ノ宮に学校に戻るように言った。
 二ノ宮は学校に戻れと言われて戸惑ったような表情をしたが、久保田の周囲を包んでいる空気を感じてしまったのか、ビクッと少しだけ身体を震わせると慌ててその場を立ち去る。その様子を苦笑しながら見ていた五十嵐は、二ノ宮の姿が見えなくなってから久保田と同じように床に視線を落とした。
 「久保田君のことだから、私が言わなくてもわかってるでしょうね…」
 「そう言ってくれるのはありがたいですけど…、ホントはなにもわかってないって言ったら?」
 「久保田君・・・・」
 「あのコは被害者だし、時任も助けたくて助けたって知ってても、俺は大丈夫だからとか心配いらないとか言えないしね」
 「それは…、どうしても許せないってことなの?」
 「さぁ?」
 「・・・・・・・でも、女の子助けるなんてホントにらしいわよねぇ」
 「確かにね…」
 「でしょう?」

 「けど、時任になにかあったとしても…、時任らしいってだけじゃダメだから…」

 久保田がそう言うと、五十嵐は視線を上に上げると悲しそうな顔をして久保田の方を見た。しかし久保田の瞳はじっと床を見つめたままで、じっと壁に寄りかかったまま動かない。
 そんな久保田と五十嵐のそばで壁につけられている時計の針の秒針が静かに時を刻んでいたが…、まるで二人の周りだけが時間が止まってしまっているようだった。
 少しの間、二人とも口を開かなかったが、時計の一番短い針がカチリと音を立てた瞬間に五十嵐が重い口を開く。けれど、静かで重い空気は、なぜか苦しくなるくらい胸をしめつけてきて少しも軽くならなかった。
 「二宮さんは時任と同じ被害者だけど…、元々の原因になったふざけてた生徒達は悪いわ…。だから、許してあげてなんて頼まないし言わない。でも、悪気があった訳じゃないってことだけはわかってあげてね…」
 「・・・・・・」
 「久保田君……」
 「言ってるイミはちゃんとわかってますけど…。俺が許せないのはそうじゃなくて、後悔なんかしてないってカオしてる時任だって言ったら?」
 「どうしてそんな…」
 
 「もしかしたら…、時任を一番憎んでるのは…」

 そう言いかけた久保田の言葉は、廊下の向こうからこちらに向って歩いて来る人物を見た瞬間にそのまま途切れた…。
 五十嵐はその続きを聞かずに長イスから立ち上がると、検査結果を提出するように告げてから病院の廊下を出口に向って歩き出す。本当は診察が終わるまで待たなくてはならなかったのだが、その仕事を最後まで果たさずにそうしたのは…、
 時任を見た瞬間に微笑んだ久保田の表情が…、あまりにも優しすぎたからかもしれなかった。

 一番、憎んでいるのは・・・・。
 
 そんな風に言いかけたのに…、久保田の視線からは胸が痛みだしてしまいそうなほどの愛しさだけで…。
 その視線に気づいた時任も…、同じように柔らかく微笑んでいた。

 「正義の味方ってあの単細胞には似合ってるけど…。似合いすぎるのも問題なのかもしれないわね…。特にあんなバカを、憎んでしまうくらい大切に思ってる人には…」

 五十嵐はそう言うと、診察室から看護婦が時任の名前を呼ぶのを聞きながら、病院の窓から見える穏やかな光に満ちた風景を眺める。けれどその風景は、なぜか今日はあまりにも綺麗すぎるような気がしてならなかった。








 「ひ、一人で歩けるし、大丈夫だっつってんだろっ」
 「まぁ、そう言わないでさ」
 「なにがまぁだよっ!!」
 「言う通りにしてくれたら、今日はカレーじゃないもの作るって言ってもダメ?」
 「ううっ…」
 「チャーハンとオムライスどっちがいい?」
 
 「オムライスっ!」

 病院の検査の結果は、脳内出血も起こしてないし問題ないということだった。頭を打っているのでコブができてはいるが、それも一週間くらいで治るらしい。
 けれど、久保田は夕食のメニューで釣って、時任を自分の背中に背負った。
 さすがに背負ったのは病院を出てからだったが、学ランを着た男子高生が同じ男子高生をおんぶしているというのはやはり目立つ。時任は道行く人々の注目を浴びて、少しムッとした表情になったが…、オムライスのためなのか、それともあきらめてしまったのかおとなしく背負われていた。
 「頭は?」
 「ちょっちズキズキするけど、ヘーキ」
 「帰ったら、氷で冷やしとかないとね」
 「うん…。けど、後ろ頭にコブがある時って、やっぱ寝るのはうつ伏せだよな」
 「うつ伏せって、結構色っぽいかも?」
 「な、なに考えてんだよっ!」

 「さぁ…、なんだろうね…」
 
 久保田はそう言ったきり、時任を背負ったまま黙ってマンションへの道を急ぐ。
 その背中にゆらゆらと揺られていた時任は、その沈黙の中で久保田の背中越しにアスファルトをじっと見つめていたが…、
 落ちないように首に回している腕に少しだけ力を込めると、目の前にある見慣れた肩に額を押し付けた。
 するとそこからいつものようにタバコの匂いがしてきて…、時任がゆっくりと眠るように目を閉じる。そうしながら、ゆらゆらと揺られる感じと暖かい久保田の広い背中と…、そしてタバコの匂いを感じていると…、
 なぜか少しだけ、床に倒れて頭を打った時の感覚を思い出した。
 その瞬間に自分が何を思って考えていたのかはわからなかったが、黙ったままでいる久保田の暖かさが胸の奥に染みていく感じがして、時任は耳すませなければ聞こえないほど小さな声で「ごめん…」と一言だけ呟いた。
 するとその言葉が聞こえたのか…、歩き続けていた久保田が立ち止まる。
 どうしたのかと思って時任が肩に押し付けていた顔をあげると…、
 久保田は目をまぶしそうに細めて晴れ渡った空を見上げながら、履いている靴を片方を前に飛ばした。

 「うーん…、明日も晴れみたいだねぇ…」
 「…当てになんのかソレ?」
 「ぜんぜん」
 「あのなぁ…」
 
 当てにもならない天気占いをしている久保田の髪を、時任がぐちゃぐちゃにする。
 すると久保田はお返しに片手を伸ばして時任の髪をぐちゃぐちゃにしてから、投げられた靴のある所まで歩いた。
 投げられた靴は晴れなので、履きやすいように表を向いている。
 その靴を久保田が履き直すと、今度は時任が背負われたまま靴を前に飛ばした。

 「あ…、明日って雨じゃんかっ」
 「布団干せないから、晴れにしとかない?」
 「じゃあさ、真ん中取ってくもりっ!」
 「・・・・・・・くもりも布団干せないんですけど?」
 
 本当はたぶん…、天気の話をしたい訳じゃない…。
 けれど、久保田も時任もどうでもいい話ばかりをして、青い空に向って靴を投げた。
 占いで晴れでも雨でも、天気は明日にならなければわからないってわかってて…、なのに二人で笑い合いながら…、

 まるで天気じゃなくて明日を占うみたいに…。

 久保田は何度目かの靴を投げると裏返った靴底を眺めながら…、首に回されている時任の手に自分の手を重ねる。
 するとそこからは、ここにいるという確かな暖かさだけが伝わってきた。

 「・・・・・ゴメンね」
 「えっ?」
 「ほめてあげられなくて、良くやったねって言ってあげられなくて…、ゴメンね」
 「誰かにほめられるためにやったことじゃねぇし…、好きで助けたんだからそんなのべつに…」

 「・・・・・・ホント、時任らしいやね」
 
 久保田はそう言うと、時任の手から自分の手を離して再び歩き始める。
 けれどその足取りは、少しだけ重くなったような気がした。
 マンションが目の前に見えてきて帰りつくまでもうすぐだったが、足が重くなったために遠く感じる。
 だが、足を重くしているその重さが…、愛しさなのか、それとも憎しみなのかはわからなかった。
 青い空がまぶしすぎて…、その鮮やかな色に眩暈がする。
 なのに、いくら背中が重くても…、空の青さに眩暈がしても…、
 背中に感じる暖かさを…、愛しみながら憎みながら歩いていくしかない。
 ただ、なによりも大切だったから…、そうするしかなかった。
 けれど、その暖かさと重さを背負ってコンビニの前を通りかかろうとした瞬間、フッと背中が軽くなる。部屋にたどりつくまで背負うつもりだったのに…、時任は強引に久保田の腕を振りほどくと…、
 自分の足で、アスファルトの上に立った。

 「時任?」
 「背負ったりしなくったって、俺はいつだって大丈夫でヘーキに決まってんだろっ」
 「・・・・・それは、やっぱり正義の味方だから?」
 「違うっ」
 「じゃあなんで?」
 「ま、俺様がドジ踏むなんてありえねぇけどさ…。俺にもちゃんと正義の味方がついてるからに決まってんじゃんっ」
 「時任の正義の味方って?」

 「わかんないなら、ウチに帰ってカガミでも見やがれっ!」

 時任はそう言うと、久保田を置いてマンションに向って走り出す。
 すると久保田は横を向いて、コンビニのガラスに写っている高校生の姿を見た。
 その高校生は正義の味方にはやはり見えなかったが、時任は正義の味方だと信じているらしい…。久保田はコンビニのガラスなんて眺めている自分の苦笑しながら、そこから視線をはずして先に行ってしまった時任の後を追って走り出した。

 大切な人のその隣に並ぶために…、どこまでも続く青すぎる空の下を・・・・・。


                                             2003.5.18
 「青すぎる空」


                     *荒磯部屋へ*