………この痛みは、雨音に似てる。

 激しい雨がアスファルトを、俺らの住むマンションの屋根をベランダを叩くたびにそう思うようになったのはいつ頃からだっただろう。室内にいてもハッキリと耳に届く雨音は、聞いてると遠くからも近くからも響いてくるようで…、その強さも一定ではなく…、
 けれど、だからこそ押し寄せ、迫ってくるような錯覚を起こす。
 それは海の波音と似てるようで異なっていて、そのリズムに安らぎはカンジなかった。空から落下してくる雨粒の一つ一つが叩きつけられる音は、その様は…、確かに安らぎよりも痛みに似ているのかもしれない。
 恵みの雨とか呼ばれていても、こんなに激しく叩きつけられたら、今日咲いた花は散って、明日咲こうとした蕾だって落ちてしまうかもしれないし…、
 そんな光景に立ち止まり心を痛めるなんて、そんな情緒は持ち合わせてないけど、押し寄せ迫りくる雨音に、俺は最近なぜか痛みをカンジるようになっていた。
 
 「…繊細なんて言葉は、俺には無縁なんだけどなぁ」

 そんな小さな呟きさえも、叩きつけられる雨音に掻き消される。押し寄せて押し寄せて引くことの無い雨は、まだ一向に止む気配はなく、俺はため息をついた。
 今日のバイトは入って無いし、特に外に出る用事があるワケじゃない。
 それでも、この音に雨に、ため息をつく気分にはなってる。
 雨の降る日は、どうしたっていつもこうだ。
 カンジる痛みに、何もかもが重く沈んでいく…。
 けれど、俺は未だに頭の中のなのか胸の奥なのか、一体、どこから何から自分の痛みが生まれてくるのかを知らなかった。

 「鵠さんにもらった頭痛薬飲んでも治らないし、時任がヤブ医者って言ってるのも、案外ハズレて無いのかも? なーんてね」

 頭痛薬を飲んだのは、ただの気休め。自分でも痛んでるのが本当に頭なのか、もっと別の場所なのか不明だし、飲んでも効くとは思っていない。
 身体に負った古傷のように湿度に因らない痛みは、最近は特に強くなる一方で、バイト中に痛みに意識を持っていかれるコトもしばしば…。そういったコトもあって、効きもしない薬に頼るほど、この痛みは俺にとって深刻だった。
 けれど、この痛みを誰かに悟られるようなヘマはしていない。鵠さんには薬を貰う時に頭痛がするとだけ話したけど、葛西さんや新木さんにも気づかれてはいない。
 でも、どんなに何事もなかったかのように表面を表情を取り繕っても、誤魔化しきれない人物がたった一人だけ存在していて…、
 その例外はリビングに入って来るなり、何か違和感を感じたのか、キッチンに向かいかけた足をピタリと止めて、俺のカオをじっと見つめた。

 「……どっか具合でも悪いのか?」

 いきなり言い当てられて、ちょっと天井を仰ぎ見たい気分になる。
 さて、何て言おうかと考えたトコロで、真っ直ぐに見つめてくる瞳からは逃れられないから…。俺は白旗を振るように右手を軽く挙げ、人差し指を自分の眉間に軽く当てた。
 「アタマってことは、頭痛?」
 「当たり。けど、雨が止む頃には治る予定だし、問題無いけどね」
 「雨が止めばって、そんな頭痛あんのかよ?」
 「あるみたいよ、俺限定で」
 「はぁ? 久保ちゃん限定頭痛ってワケわかんねぇし」
 「わかんなくてもいいよ、じきに治るから」
 雨が止めば治るのはこれまでもそうだったし、事実だからウソは言ってない。そのせいか、うーんと少し唸ってたりはしたけど、わぁったとうなづいて納得してくれた。
 だけど、行きかけてたキッチンには向かわず、俺の横にポスンと座る。
 そして、俺を見ずに前を向いたまま、自分の膝をぺしぺしと叩いた。
 「……もしかして、膝痛い?」
 「じゃなくってっ、とりあえず頭痛いなら寝ろっつってんだ」
 普段なら自分はヘーキで俺の膝に頭乗せてくるクセに、俺が時任の膝に頭乗せると邪魔だとか、こっち見んなとか言って嫌がる。でも、今日だけは別みたいで、少しカオを赤くしながらムスッとした表情で、また自分の膝をぺしぺしと叩いた。
 そんな時任の仕草と音は、まるで猫が尻尾で床を叩いてるみたいで思わず頬が緩む。けれど、ココで笑ったりして機嫌損ねたら膝枕してもらえなくなるの確実だし、そんなもったいないコトにならないウチに緩んだ頬を引きしめた。
 「いいの?」
 「〜〜〜っ、い、嫌ならベツに!」
 「遠慮なく、時任クンの膝枕で寝させて頂きマース。コレ逃すと、いつしてもらえるかわからないし?」
 「とか言いつつ、いつも乗せてくんだろっ」
 ま、確かに時任の言う通りだけど、強引に膝枕してもらうのと、こうして膝を叩いてもらって乗せてもらうのとじゃ気分も価値も違う。時任に膝枕してもらえるなら頭痛も悪くないかも?なんて思ってる現金な俺は、時任の気が変わらないウチによっこらせっとソファーに寝転がり、膝に頭を乗せるとオッサンくせぇとか言って笑われた。
 「これでも、まだ一応ハタチ前なんだけど?」
 「ハタチじゃなくて、ミソジ前の間違いじゃねぇの?」
 「三十路なんて言葉、お前知ってたんだ?」
 「そんなの知ってるに決まってんだろ。こないだ新木さんが落ち着いてて、それくらいに見えるとか言ってたし」
 「ふーん、三十路の発信源は新木さんね。次に会う時まで覚えとこ」
 「…って、新木さんに何する気だよっっ」
 こうして何気ない話をしながら、時任の膝枕でソファーに寝転んでると、雨音も頭痛も忘れてしまいそうになる。でも、やっぱり現実はそう甘くはないらしく、忘れかけると同時に増した頭痛に思わず眉をしかめた。
 すると、それに気づいたのか、時任の左手が俺の髪をそっと撫でる。
 そのふわりとした少しくすぐったいような感触に思わず見上げると、時任は心配そうに俺を見つめていて…。触れる温かな手に、俺を映すいつもより柔らかな瞳の色に、あぁ、敵わないな…と降参するように両手を上げる。
 そして、その両手で包み込むように、出会った頃よりも丸く柔らかくなった頬に触れた。
 すると、いつだったか同じように、下から手を伸ばして誰かの頬に触れた記憶が脳裏を過る。あれはここじゃない別のどこかで、確か雨は降っていなかった。
 けれど、無意識に手繰り寄せた記憶の中で、今は見ることの出来なくなったカオと滲む鮮やかな赤が混じり。まだ雨は止んでいない…けれど、一瞬、俺の耳に届いているはずの雨音が途絶えた…。

 『……久保田さんの痛みになる人って、どんな人なんっスかね』

 ザアァァァァ………。

 聞き覚えのある声が過去から響き渡り、それを追うように途絶えていたはずの雨音が激しく耳を打つ。そして、それは遠く近く押し寄せるように、叩きつけ壊していくように鼓膜を通して俺の中に響き渡り、温かい頬を包み込んでいるはずの手は凍りついたように動かなくなった。
 過去から響く雨音と、自分で手を伸ばし触れたぬくもり。
 もしかしたら頭痛の原因は身体的ではなく、精神的な問題…、なのかもしれない。
 慢性的な寝不足や天候による気圧の変化、雨による湿度の上昇よりも、それが原因と思える辺り、たぶんコレが当たりなんだろう。
 ……バカな話だ。
 痛みは…、特にこんな痛みは何よりも嫌いなクセに…、
 自分から手を伸ばして…、触れて…。
 
 「頭痛ぇクセに、なに笑ってんだよ。もしかして、治ったのか?」

 そんな時任の声に、凍りついた手をパタリと下へと落とす。
 すると、その手を何となく追った視線の先…、俺の肩の辺りに置かれた黒い皮手袋のはめられた右手が視界に入った。
 「治ってないけど、痛すぎて笑ってる」
 「それって頭痛がか?」
 「…うん」
 「ウソだろ」
 「………」
 上手くつけたと思ったウソを、また一瞬で見抜かれて…、
 これが勝負ゴトなら、負けは確実な事態だってのに苦笑しながらも、ココロのどっかでソレを喜んでる自分がいる。何よりも痛みが嫌いなクセに痛みに手を伸ばすように、見抜かれたくないとついたウソを見抜かれて喜んでる…、
 なんて、ホント矛盾にもほどがあると自分でも思うけど、いつかは止む雨のように、このせめぎ合いが止む事はきっとないんだろう。
 離れたい、離れたくない…、
 触れたい…、触れたくない…。
 時任に対して抱く想いや感情はなぜかいつも一つじゃないから、俺の中で迷いの雨が降り続く。あの雨に呼応したかのように、現実の雨に警告のような頭痛を起こしながら、それでも…、俺は時任の膝に頭を乗せたまま動かなかった。
 そして、まだ大丈夫だと今なら離れられると否定して、否定して…、否定して…、
 そうしながら、触れ合った部分にカンジるぬくもりに身を委ねて…、
 俺はココロのどこかで予感していた。

 ………この痛みはきっと、いつか俺を殺すんだろう。

 この殺されるほどの痛みに名を付けるなら、どんな名になるのか…、
 雨の激しく降る日に、赤い色に濡れてたアイツなら…、知っているのかもしれない。
 けれど、その名を聞きたいとは思わなかった。
 口にしたいとは思わなかった。
 窓の外から響く雨音に混じり、脳裏に響く過去から声を聞きながら、そんな想いに駆られ苦笑して…。でも、それは時任のためでも他の誰のためでもなかった。
 
 「葛西さん辺りが聞けば…、今更、何を言ってやがるって言われそうだけどね」

 時任に聞こえないように、そう小さく呟いて、まだ止まない雨に窓に視線を向ける。そして、今も髪に触れてる右手ではなく、黒い皮手袋の左手に自分の右手を伸ばし握りしめた。
 すると、握りしめた右手はビクリと震えて、一瞬逃げるような動きを見せる。
 だけど、それでも逃げ出さず思い止まり、ゆるゆると壊れモノに触れるように握り返してきた時任の右手を、俺は祈るように目を閉じながら額に押し付けた。
 すると、痛いの痛いの飛んでいけ…なんて、ぼそりと誰もが良く知る呪文を唱える可愛い小さな声が頭上から聞こえきて。その瞬間、雨音が収まってきたせいか頭痛はマシになってきてたってのに、なぜか今頃になって目の奥が少し熱くなるのをカンジて…、
 俺は今も響く痛みの雨の中、二人して手を握りしめ合い濡れながら…。同じ呪文を声には出さず唇だけで唱えながら、わずかに額に押し付けた手に力を込めた。

  
                                   『篠突く雨に』 2013.5.26

……リハビリ中(ノω・、)
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