校舎の中庭には、紫の綺麗な紫陽花が咲いている場所があった。
 それは丁度校舎の屋根の下辺りにあって、雨の降る日には時々廊下からその花を眺めている生徒や教師がいたりする
 今日はあいにく雨は降っていなかったが、桂木がその紫陽花の見える廊下を歩いていると、一人の生徒が窓から紫陽花の辺りを眺めていた。
 「こんなとこで何してんの?」
 桂木が見知った横顔に向かってそう呼びかけると、桂木に呼ばれた久保田は吸っていたセッタを指でつまんで口元から離す。どうやら休憩時間ということで、ここで一服していたらしかった。
 「別に何もしてないけど?」
 そう久保田は答えたが、さっき桂木が見た感じではじっと何かを見つめていたような気がする。桂木はなんとなく久保田の隣に立って、同じ位置から窓の下を眺めてみた。
 するとそこには、時任と一人の女子生徒が立っていた。
 「…あれって、どういうことなわけ?」
 桂木が思わずそう呟いてしまった理由は、時任とその女子生徒が抱き合っていたからである。信じられないことだが、時任がその女子生徒の背中に手を回して、まるで恋人を抱きしめるように抱きしめていた。
 「久保田君…」
 「なに? 桂木ちゃん」
 「いいの?」
 「なんで俺にそんなコト聞くの?」
 「なんでってそれは…」
 「それは?」
 「久保田君が時任のコト好きだからよ!」
 桂木が思い切ったようにそう言うと、久保田は小さく笑って再びセッタを口にくわえる。
 その笑いは桂木に向けられたものではなく、自嘲的だった。
 「俺が時任のコト好きだから、あそこに飛び込んでかなきゃおかしい?」
 「べ、別にそういう意味で言ったんじゃ…」
 「そういう意味でしょ?」
 そんな風に言いながらも、やはり久保田の視線は下にいる時任に注がれたままである。
 顔はいつものようにのほほんとした感じだったが、目だけがそれを裏切っていた。
 怖いくらい真剣な瞳が、時任だけをうつしている。
 久保田から漂ってくる冷たい雰囲気を感じて、桂木はわずかに肩を震わせた。
 「いつまでああやってる気かしら?」
 時任と女子生徒がいつまでも抱き合ったままなので、桂木が不審に思ってそう言うと、久保田は窓枠に頬杖をついて面倒臭そうに、
 「あの女のコが泣いちゃってるからなんじゃない?」
と言った。
 どうやら久保田は、時任が女子生徒と抱き合うことになった経過を知っているらしい。
 だがそれでも黙って見ているということは、時任が付き合うことになったとかそういう状況ではないに違いなかった。
 「時任がもてるなんて、珍しいこともあるものね」
 桂木はそう言いながら小さく息を吐くと、中庭に咲いている紫陽花を眺める。
 紫陽花は綺麗だったが、やはり雨の中の方が似合うような気がした。
 久保田は桂木が言ったことを聞いていないように見えたが、
 「ああ見えても時任はモテるから」
と、返事をする。
 時任だけを見つめてはいても、かろうじて桂木の存在を忘れてはいないようだった。
 桂木は軽く肩をすくめると、話の続きをし始めた。
 「久保田君だってモテるじゃない?」
 「ん〜、否定はしないけど。時任と俺じゃ違うからさ」
 「違うって何が?」
 「俺は外見、時任は中身。モテる理由が違うっしょ?」
 「えっ、それは…」
 「否定する?」
 「・・・・・・しないけど」
 「時任は俺が好きって言わなくても、たくさんのヒトに好きって言ってもらえるから…」
 久保田の言葉がなぜか途中で突然切れる。
 どうしたのかと桂木は思ったが、目の前の光景を見た瞬間納得した。
 時任が抱きしめていた女子生徒に、唇を押し付けられてキスされていたのである。
 「桂木ちゃん」
 「な、なに?」
 「俺さ、やっぱ女のコはニガテだわ」
 「それって、怒ったり、殴ったりできないから?」
 「…強くてずるいから」
 久保田の言葉に桂木がハッとして久保田の方を向くと、すでに久保田は桂木の後ろを通って廊下を歩き出している。その背中からは感情を読むことはできなかったが、なんとなく見ているのが辛くなって、桂木は久保田から目をそらした。
 






 その日、放課後の公務の時間になっても久保田は生徒会室に姿を見せなかった。
 実は授業も欠席しているので、学校にいるかどうかも不明である。
 時任はイライラしながら、行方不明になっている久保田が出てくるのを待っていた。
 「ったく、どこ行ったんだよっ!」
 時任はそんな風にぶつぶつ言いながら、自分に何も告げずにいなくなった久保田に腹を立てている。それ故、探しに行きたいのをがまんして、こうして久保田が帰ってくるのを待っているのだった。
 別にどこに行くか言うなんていう決まりはないが、時任にとってはそれが当たり前なので、それをしない久保田が悪いという図式が頭の中でできている。
 そんな時任を見た桂木は、深々とため息をついた。
 「たまには久保田君も、一人になりたい時くらいあるんじゃないの?」
 「なんで、んなことわかんだよ?」
 「わかるんじゃなくて、そういう時だってあるってこと。時任だって一人になりたい時ってあるでしょ?」
 「…そりゃそうだけど」
 「だったら、イライラしないで待っててあげたら?」
 桂木がそう言うと、時任はじっと何かを考え込むように少し俯く。
 今日はあいにく、桂木と時任以外は用事があって出かけているので、生徒会室は静かだった。そんな珍しい静寂の中で考え込んでいた時任は、ふいに顔を上げると再び桂木の方を見る。その瞳は相変わらず綺麗に澄んでいた。
 「久保ちゃんが一人でいたい原因、知ってんのか? もしかして…」
 いつになく鋭い時任のセリフに、桂木が驚いたように書類から顔を上げる。
 時任の真っ直ぐな視線と自然に視線が合ってしまった桂木は、少し躊躇した後、久保田が時任と女子生徒のラブシーンを見ていたことを話した。
 「なんでああなってたのかは知らないけど、言い訳したいならした方がいいんじゃないの?」
 「言い訳なんか誰がするかよっ!」
 時任は桂木にそう怒鳴ると、慌てて生徒会室を出て行く。
 行く先は久保田の所だと決まっているので、桂木は時任を止めなかった。






 授業には出ていなかったが、久保田は校内にいることを時任は確信していた。
 自分に黙って帰ったりしないことを知っていたからである。
 毎日毎日家で一緒にいて、学校でもなんて信じられないというヤツもいるが、時任にはそれが当たり前だった。どれだけ一緒にいなくてはならないという決まりはないが、離れなくてはならない理由もない。
 時任は迷うことなく階段をと駆け上がると、屋上のドアを勢い良く開いた。
 「久保ちゃんっ!」
 屋上へのドアを開けると、そこには長身をコンクリートの上に横たえて寝ている久保田がいた。おそらく、いなくなった時間から今までずっとここにいたに違いない。
 時任はドスドスと久保田の傍まで歩いて行くと、その横にドカッと座る。
 すると久保田は、ぼ〜っとした顔のままそんな時任を眺めていた。
 「久保ちゃん」
 「なに?」
 「言い訳はしねぇよ。言い訳するコト何もねぇから」
 「ワケは知ってるから別にいいよ。告白されて、『一度でいいから抱きしめてください、そしたらあきらめますから』って泣きながら言われたんだよね?」
 「…もしかして、最初っから見てた?」
 「うん」
 時任は久保田が見ていたことを知って、いなくなったのは別のことだったのかと思い首を傾げた。だが、何かあったとか何かしたとか、まるっきり心当たりかない。
 どうしていいかわからなくなった時任は、寝転がっている久保田の頭を軽く撫でた。
 「良くわかんねぇけど、あんま落ち込むなよ。久保ちゃん」
 「落ち込んでるように見える?」
 「自覚ねぇの?」
 「全然」
 「相変わらずニブすぎっ」
 時任に鈍いと言われた久保田はやはりぼ〜っとした顔をしていたが、時任が立ち上がろうとすると、その手を引いて自分の上に引き倒す。時任は急に手を強く引っ張られてバランスを崩し、久保田の胸の上に乗っかかる姿勢になった。
 「な、なにすんだよっ!」
 時任がじたばたと暴れたが、久保田はぎゅっと時任の身体を押さえ込んで、自分から離れることを許さない。時任が暴れ疲れておとなしくなると、久保田は時任の顔に手を伸ばして、人差し指で時任の唇をゆっくりとなぞる。
 時任はその手を払おうとしたが、時任の唇を見つめている久保田の瞳が暗かったので、じっとされるがままになっていた。
 「やわらかかった?」
 「なにが?」
 「女のコの唇」
 「な、なに言ってんだよっ」
 「やっぱり、やわらかい唇とキスすると気持ちイイよね?」
 久保田に気持ちいいかと言われて、時任はとっさに返事ができなかった。
 女子生徒にキスされた時、あんまりその感触がやわらかかったのでビックリしたのは事実だったからである。
 「女のコはね。男と抱き合うようにできてんの。だから唇も身体も柔らかいでしょ?」
 「く、くぼちゃん…」
 「男同士だと柔らかいトコないから、痛くてしょうがないのかもね」
 久保田はそんな風に言うと、あっさり時任の身体を開放する。
 けれど時任は逃げようとせずに胸の上に乗っかかったまま、久保田の顔を上から覗き込んだ。じっと瞳をあわせて、まるで心の中を見透かそうとしているかのように…。
 けれど久保田はそんな時任の瞳を見てもたじろかず、じっと静かに見つめ返していた。
 「キスして…、久保ちゃん」
 「時任?」
 「キスしてって頼んでも、キスしてくんないの?」
 キスをねだるように時任が目を閉じると、久保田は時任の頭を引き寄せて唇を合わせた。
 この姿勢だと実際にキスするのは時任の方なので、頭を動かせない久保田に代わって時任が何度も角度を変えてキスをする。
 舌をからめて、吸って、音を立てて、貪るように口付けを交わした。
 女子生徒としたような触れるだけのものとは明らかに違うキスに、時任の息が次第に上がっていく。呼吸も心臓の音も激しくなって、身体が熱くなってきた。
 キスしたい、抱き合いたい、溶け合いたい。
 その熱さは久保田にも伝染して、熱が激しく二人を犯していく。
 時任は久保田の唇から自分の唇を離すと、久保田の首すじに顔を埋めた。
 「頭で考えるより身体の方が正直だと思わねぇ? 抱き合うようにできてなくてもカンジてんのがホントだろ? 久保ちゃんはさ、俺とキスとかすんの気持ち良くねぇの?」
 「気持ちよすぎて死んじゃいそうだけど?」
 「だったらそれが全部だろ? それに、俺がキスとかすんのは久保ちゃんだけだし」
 「女のコとキスしたのに?」
 「…もう二度と何も言ってやらねぇ」
 「ゴメンね」
 久保田はあやまっていたが、時任は久保田の首筋に顔を埋めたまま起き上がらなかった。
 実は顔が真っ赤になっているため、起き上がれないのである。
 「なんで俺が、んなコト言わなきゃなんねぇんだよっ…。ハズカシすぎだっつーのっ」
 時任なりにがんばって久保田をなぐさめていたのだが、自分の吐くセリフのあまりのはずかしさに耐え切れなくなったらしい。
 時任が照れ隠しに久保田にギュッと抱きつくと、久保田は抱きついてる時任ごと起き上がった。
 「な、なんだよっ」
 「せっかくだから帰って続きしようと思って」
 「はぁ?」
 「頭で考えるより、自分の本能優先するから」
 「あ、いや、たまには頭で考えろって」
 「好きだよ、時任」
 「ごまかすなっ!」

 「俺のキモチを、本能で身体に刻んであげるよ」


 何回、何十回、何百回。
 誰かが君に言った好きよりも、俺の言うたった一回の好きに振り向いて欲しい。
 そんな風に思うのは、ただのわがまま。
 そんなのはわかってるケド、お願いだから君にとって俺が好きって言うコトの重さを、
 誰よりも何よりも重いってカンジてよ。
 
 何千回のキスよりも、一回のキスに想いがあふれて涙するみたいに…。


                                             2002.6.30
 「紫陽花」


                     *荒磯部屋へ*