Probability 〜見込み〜 前編
去年が終って新しい年が明けて…、 ４日…。
まだ俺が拘置所から出て、それほど月日が流れたワケじゃない。けど、今日はあれから初めて鵠さんから電話があって、俺は一人で東湖畔に来ていた。
時任は念のために外出しないように言って留守番させてるけど、今の所は俺らの周囲で警察関係者がウロウロしてる様子はない。そして、それと同じように俺にかけられたもう一つの容疑も、捕まらない代わりに晴れる事はないんだろう。
俺はシロ…、じゃなくてクロだから。
けど、今更それについては想うコトも考えるコトもない。ただ、マンションには俺だけじゃなく時任もいるから、ウロウロされなくて面倒がなくていいというだけだった。
喉元過ぎれば熱さを忘れる…とまではいかないけど、今の所は何事もない日々が続いてる。でも、実は喉元過ぎてからが本当は熱かったんだってコトを、俺はその時になるまで知らないでいた…。
「しばらくお願いする仕事は、店番くらいに留めておいた方が良さそうですから…」
電話で俺を呼び出した鵠さんは、そう言うと出かける準備を始める。だから、俺は店番用のエプロンを着ながら「すいませんね、役立たずで」と返事した。
すると、俺の返事を聞いた鵠さんは「役に立つから呼んだんですよ」と言って微笑む。けど、正直な所サツにパクられた後に店番を頼まれるとは思ってなかった。
今の所、刑事サンに後を付けられたり、色々と嗅ぎ回られたりはしてなくても完全に安全とは言い切れない。だから、俺がココでバイトしてる事が知られれば、痛いか痛くないかは鵠さん次第だけど…、腹を探られる可能性は十分にあった。
「いいの？」
「何がです？」
「俺が店番してると、お客サン増えるかもしないけど？」
「それは…、黒い手帳を持った方々の事ですか？」
「たぶんね」
「でしたら、来店された際には滋養強壮に良く効く漢方薬でもお出ししましょう。事件の捜査や聞き込みで、日々お疲れでしょうから…」
「じゃ、高麗人参でも出そうかな」
「商売繁盛で、その時はバイト代はずみますよ」
鵠さんはそう言うと、いつもとは違う微笑を残してどこかへ出かけていく。
だから、俺はその背中に向かってヒラヒラと手を振った。
店番のバイトは、いつも鵠さんが帰ってくるまで…。
特に時間は決まってないけど、それほど遅くなる事もない。出かけた用事が本業なのか副業なのか、それとももっと別の事なのかは知らないけど、それは俺にはどーでもいいコトだし知る必要のないコトだった。
「今日も閑古鳥…、だぁね」
俺は鵠さんが聞いたら、また聞き捨てならないって言いそうなセリフを呟くとカウンターから店の入り口を見る。すると刑事サンの代わりに黒ネコが一匹、不審そうな顔をして俺の方を見ながら足早に通って行った。
ネコって言えば、ウチのネコはどうしてるかな。
たぶん…、部屋でおとなしくゲームしててくれると思うけど…、
今日は早く帰った方がいいかも…って、そんな風に思うのはやっぱり例の事件の時、時任と俺のケータイが壊れたせいだった。俺のケータイは警察にパクられる前に自分から壊したけど、時任のケータイが壊れたワケは知らない。
俺がどうしたのって聞くと、落とした拍子に壊れたって言ってたけど…、
そう言った時任のカオを見てると、すぐに違うってわかる…。
ウソがつけないタイプだよね…、ホント…。
けど、俺は何も言わなかったし何も聞かなかった…。
ただ…、早く新しいケータイを買わなきゃって思っただけだった…。
だから、何事もなく鵠さんが戻って来て店番のバイトが終ると俺はサイフの中身をちょっと確かめる。すると、鵠さんが俺の前にバイト代の入った茶色の封筒を二つ微笑みながら差し出した。
「これは今日のバイト代と…、少し時期はずれの賞与ようなものです」
「バイトでも賞与ってあったんだ？」
「ええ」
「でも次回は無い…、デショ」
「そうですね、そうして頂けると助かります」
鵠さんの手から渡された賞与…、ボーナス…。
それは警察に連行された俺が、何も喋らなかったコトへの謝礼金。
でも、今回の件で警察に運び屋としての疑惑をかけられちゃったから、二度目にしょっ引かれるような事になれば…、今度は喋らなくても確実に鵠さんにまで捜査の手が及ぶ。それがわかってても仕事をくれるのは有難いけど、鵠さんのコトだから案外どんな疑いをかけられても逃げ切れる自信があるのかもしれなかった。
「では、またよろしくお願いします」
そう言った鵠さんに、礼を言う代わり入り口に向かって歩き出しながら軽く手を上げる。すると、鵠さんは早く帰りたい俺のキモチを見透かしているのか、少し笑みを含んだ声で「今度は時任君と一緒に来てください」と追い討ちをかけるように言った。
確かにいつもの配達じゃなくて店番なら、時任を連れてくるのも悪くない。まだ事件の名残りが完全に消えたワケじゃないけど、俺はぼんやりと中華街の道を歩きながら…、そう思っていた。
そんな風に思ったのは不安だから…？
でも、何が不安なのかもわからないまま、俺は帰り道にあったケータイショップの前で立ち止まる。そして、店頭に飾ってあった年末に出た新機種を手に取った。
けど、俺はそれを買わずに店頭に戻すとプリペイド式のケータイを買う。それはプリペイド式は身分証も契約書も必要ないし、使ったとしても料金明細も通話記録も残らないからだった。
「俺の場合、ケータイには残らなくてもケーサツの記録に、指紋まで残っちゃってるんだけどね」
そう言いながら時任の分の入った袋を持って、自分のケータイはポケットに仕舞うと俺はマンションに向かって歩きなれた道を歩き始める。すると、前から吹いてきた冷たい風が街路樹を揺らして…、俺の着ていたコートをはためかせた。
今日も冬らしく風も空気も冷たいけど、雪が降るほどじゃない。
それほど…、寒くは無い…。
けど、住んでるマンションの自分の部屋に帰り着いた俺はドアを開けて玄関に…、そしてリビングに入った瞬間に凍りついたように動けなくなった。
「・・・・・・・・」
リビングには時任がいる…。
だから、ただいまを言おうとして口を開きかけた。
けど俺はただいまを言うコトもできずに、ただ立ち尽くす。それはリビングに入ってきた俺の方を見た時任の表情が…、目が…、いつもと違っていたせいだった。
少し驚いたような少し怖がっているような、色んな感情がごちゃ混ぜになったような表情と目…。それを見た瞬間、俺の胸の奥に何かが突き刺さる。
でも、時任はすぐにいつもとオナジに戻ると俺におかえりを言った。
「もっと遅くなるかと思ってたけど、早かったじゃん」
「まだホトボリ冷めてないし、鵠さんトコでバイトって言ってもできるのは店番くらいだから…」
「ふーん、そっか」
「うん」
時任はそれだけ言うと、また毛布を被ったままでテレビを見始める。だから、俺もそれ以上は何も言わずにコートを脱ぐと、キッチンで二人分のコーヒーを入れた。
俺のはブラックで…、時任のは牛乳入り…。
けど、俺がコーヒーを渡すのと同時にケータイも渡そうとすると、時任は急に不機嫌になってコーヒーもケータイも受け取ろうとはしない。コーヒーにはちゃんと牛乳も入ってるし、ケータイは絶対に必要だし…、不機嫌になる理由はどこにも見つからないのに…、
時任は頭から被っていた毛布を取ると「…寝る」と一言だけ言い残して、晩メシも食わないで寝室へと消えた。
「俺の居ない間に…、また何かあったかな」
あの事件の前にアンナがどうとか言ってた時任の様子を思い浮かべてそう思ったけど、留守電には何も入っていない。それに冷蔵庫にも新しく買ったモノも入ってないし、出かけた様子もなさそうだった…。
俺は軽く息を吐くと、受け取ってもらえなかったケータイを電話の横に置く。
そして、ポケットからセッタを取り出すと口にくわえてライターで火をつけた…。
時任が怒ったり不機嫌になりそうなコトって、今日の晩メシが昨日のカレーの残りってコトくらいなんだけど…、ねぇ？
そう思いながら、吸い込んだ煙をふーっと口から吐き出す。けど、帰った時に見た時任の目と表情が…、なんとなく脳裏に焼きついて離れなかった。
あの表情はなんだったのか…、
時任がなぜ…、あんな胸を突くような目をしてたのか…、
そんなコトを考え続けてセッタを吸い続けてると、灰皿に吸殻が山のようになってリビングには灰色の煙が充満する。けど、いくら肺に煙を吸い込んでも灰皿に吸殻を積み重ねても答えは出なかった…。
だから、夜明け近くになってベッドで眠る時任の横に入り込んで…、
夢にうなされてる時任の右手を、包み込むように左手で握りしめる…。けれど、時任は苦しそうな表情で額に汗を浮かべながら、俺の手を右手で払って拒絶した。
「離せ…っ、俺に触るな…っっ！！！」
・・・・・時任は夢の中で、俺じゃない誰かを見てる。
思い出せないばすの過去の…、俺が居ない夢を…。
そんなコトは今までに何度もあったけど、伸ばした俺の手を何度も拒んだのは始めてかもしれない。すぐには目が覚めないほど夢の中に入り込んだ時任は、暴れた拍子に手袋の取れた右手の爪で俺の頬を引っかいた。
「痛・・・・・・っ」
頬に走る…、熱い痛み…。けれど、傷ついて痛そうなカオをしてたのは俺じゃなく、やっと目を覚まして俺の頬についた傷を見た時任の方で…、
俺の頬を引っかいた感触が残ってるのか、ベッドから起き上がってじっと自分の右手を見ると…、ゴメンと呟く…。ゴメンと呟いて俺の手じゃなく、右手でベッドに落ちてる黒皮の手袋をぎゅっと強く握りしめた。
まるで…、それしか持ってないみたいに…。
だから、もう夢なんて見てないのに、時任の右手を握りしめるコトができない。俺に背を向けて丸くなった背中を抱きしめようとして伸ばしかけた腕も、拒絶される事を恐れて途中で止まったまま動かなかった。
事件の後、ずっと何事もない日々が続いてたけど…、今になって時任と俺の間で何かがほころび始めて…、
まだ終る様子もない冬が、ココロが震えるほどに寒くなる。
あの日に触れたぬくもりは、確かにココにあったのに…、
その日から眠ると時任はうなされる日が多くなり、それは次第に酷くなっていった。
けど、時任は何も言わないし…、俺も何も言わない…。
伸ばしかけた手も止まったまま動かない…。
・・・・・動けない。
それはたぶん…、時任がヘーキなカオをしてるせい。
寝不足気味なカオしてても、時任は今日もヘーキなカオして笑う。そして葛西さんとまだ肩の骨折が治ってない新木さんに偶然、街角で出会った時も…、時任は笑って新年の挨拶をした…。
「おっさんっ、新木さんっ、あけましておめでとう…だよなっ、今年初めて会ったんだし」
「明けましておめでとう、久保田君、時任君」
「おうっ、二人ともおめでとさん」
葛西さんと新木さんは事件後、初めて時任に会う。けど、時任がいつもと同じ調子だから、二人とも何も気づいた様子はなかった。
それどころか、時任じゃなく俺に大丈夫かと葛西さんが聞く。確かに警察に連行されて拘置所に入れられたのは俺だから、俺の方に聞くのが当然…。
でも、大丈夫じゃなのはヘーキなカオして笑ってる時任で俺じゃなかった。
「誠人…」
「なに？」
「後で話を聞いたんだが、長谷部が色々と無茶したらしいな」
「別に？ 前の時は取り調べもそれほどなかったし、今回が初体験ってカンジで新鮮だったけど」
「初体験ってお前ぇなぁ」
そんな風に話してる俺と葛西さんのいる場所から少し離れたところに、赤い警告灯が点滅してるパトカー。その前にある一戸建ての家には黄色いテープが張られ、警察の方々が出入りしている。
まだマスコミ関係は到着してないみたいだけど、辺りは騒然としていた。
だから、とりあえずＷＡ関係かどうか葛西さんに聞いてみる。すると、葛西さんはポケットから出したタバコを口にくわえて、近くで雑談をしている時任と新木さんを見ながら違うと答えた。
「いいや、フツーのって言っちゃあヘンかもしれねぇが、ＷＡとは無関係の殺人現場だ」
「ふーん、そうなんだ」
「けどな、今回は違うからいいが…。今度からはお前らはＷＡ関係の現場には、あまりカオを出さない方がいいかもしれん」
「もしかして、それってキャスターが愛モクの刑事サンが原因？」
「長谷部の野郎…、お前ぇがＷＡに関係してるんじゃねぇかって疑ってやがる」
「ま、ＷＡの現場でたびたび見かけたら、段々と親戚のオジサンに会いに来たって言いワケは通じなくなってくるよねぇ」
「・・・・・上から圧力があったみたいだが、長谷部はヘビみたいにしつこくて陰険な野郎だ。例の事件は犯人逮捕で終ったが…、注意はしてろよ」
「ほーい」
「…ったく、マジでわかってんのか？」
俺のした返事が不満だったらしく、葛西さんはそう言うと口をへの字の曲げる。けど、葛西さんが言う通り俺の意識は目の前の葛西さんでも近くの事件現場でもなく…、時任の方に向いていた。
明るい光の下で…、明るく笑う時任を…、
時任の笑顔には一点の曇りもなく、見ていると眩しくて目を細めたくなる。
でも、その笑顔の裏に俺の手さえ届かない場所に暗闇が潜んでいた。
俺と時任を繋ぐはずのケータイが…、無残な姿で床に転がるほどに…、
・・・・・・・・・・・・深い暗闇が。
去年が終って、新しい年が明けて１０日目。
今日もまた俺は夢を見た。
息ができないくらい胸が苦しくなって、叫びたくても叫ぶコトさえできなくなる…、そんな夢を…。でも、いつものように掻いた冷たい汗と激しい鼓動だけが夢の名残りで、目覚めるとなんにも覚えてなかった。
こんなのは初めてじゃないし…、同じ夢を何度も繰り返し見てるような気もする。けど、こんなに毎日のように夢を見て、息苦しさに真夜中、目を覚ますのは初めてだった。
夢にうなされて久保ちゃんの頬まで傷つけて…、なのに次の日、また夢を見る。傷つけないように右手を抱きしめて眠ると…、まるでその爪で引っかいたように胸が痛んだ。
眠ってても起きてても傷つけたり壊したりしかできない右手は、冷たさも熱さもカンジないのに、いつも痛みだけは俺に伝えてくる。
痛みと息苦しさと…、辛いのか哀しいのか良くわからない感情…。
そんなのをカンジ続けてると、まるで右手が俺に罰を与えるように夢を見せてるような気がした…。
「こんな右手・・・・・っ！！！」
そう言いかけて飲み込んだ言葉は喉に詰まって、また呼吸を苦しくする。すると、そんな俺の様子に気づいてるのか、それとも気づいてないのか…、１１日目から久保ちゃんはリビングのソファーで眠るようになった。
だから、これで夢を見ても久保ちゃんの頬を傷つけるコトがなくなって、俺は一人きりで眠るベッドの上でホッとしたように細く長く息を吐く。けど、このベッドはシングルで二人じゃなくて一人で眠るのにちょうどいいはずなのに…、やけに広くて…、
見上げた天井の白さが…、目に染みて滲んだ。
こんな風になっちまったのは、あんな夢を見続けちまうのは、何がきっかけなのか何が原因なのか俺自身にもわからない。思い当たるのはあの事件くらいだけど、久保ちゃんはちゃんと取り戻したし帰ってきたし…、何にも問題なんかあるばすなかった…。
だったら…、何が・・・・・・・・、
ベッドの上でうとうとしながら…、考えて…、
このままだとまた夢を見ちまいそうだから、いっそのコト…、一晩中ゲームでもしてようかと思ったりもすっけど、久保ちゃんに心配はかけたくない。せっかく…、せっかく事件が終って久保ちゃんが帰ってきたのに、そんなコトでいつもと変わらない日々を壊したくなかった…。
痛みしか生まない右手で・・・・。
年が明けて…、１3日目…。
今日もバイトに出かけていく久保ちゃんの背中を、俺はいつもと同じように見送る。
いつもと同じように…、何もかもいつもと同じように…、
痛む右手を抱きしめて、そればかりを考えて想っていた…。
「久保ちゃん…」
「ん〜？」
「今日の晩メシ、俺が作るから楽しみに帰って来いよ」
「…って、今日は俺の当番じゃなかったっけ？」
「カレーも鍋も食いあきたっっ。年末くらいから、ずっと久保ちゃんが晩メシ作るとカレーか鍋ばっかじゃんっ！！」
「あらら…、そうだった？」
そんな風に言った久保ちゃんも、まるで俺に合わせるようにいつもと同じで変わらない。だから、俺はその事に安心していた…。
何も変わらないから、絶対に大丈夫。
大丈夫だ…、何も変わったりなんかしない…。
そう、まるでおまじないか呪文のように胸の中で繰り返していた。
今日の晩メシ当番は久保ちゃんだけど、俺が久しぶりに何か別の作って…、
それで二人で食べて…、カンペキじゃんって想ってた。
けれど…、ふと出かけてく久保ちゃんの黒いコートの袖が目に入る。すると、その瞬間になぜか無意識に右手が伸びて、その袖を引き止めるように掴もうとしたから…、
それに気づいた俺は慌てて右手を引っ込めた…。
「なに？ どうかした？」
「な、なんでもねぇよっ」
「ホントに？」
「ホントっ」
「・・・・・・だったら、いいけど」
いいんだ…、久保ちゃん…。
これでいいんだ…、いつも通りで…。
そう言った久保ちゃんへの言葉は、声には出しては言わなかった。
胸の中で呟いて…、その中に仕舞い込む…。そして久保ちゃんが出かけると気合いを入れるように、両手で自分の頬をパンパンと軽く叩いた。
夢見たくらいでしょぼくれんなっ、元気だせ…っ。
俺はこれっくらいのコトでダメになるほど、弱くなんかねぇしっ、それっくらいでうずくまる気なんかない。でも…、久しぶりに外出した先で俺は、今度は夢じゃなくて右手の痛みが止まらなくてうずくまりそうになった…。
「くそぉっ、なんでこんな時に…っっ」
手にはもうスーパーのビニール袋を持ってて、マンションまではそう遠くない。
なのに、右手が痛くて視界まで歪む。
冬なのに額から流れてくる汗が、肌を伝って気持ち悪かった。
でも、きっともう少しガマンしてれば収まる…。
いつもそうだから…、大丈夫…っ。
けど、なかなか収まってくれなくて俺が寄りかかってた壁から崩れ落ちそうになると、横から伸びてきた手がそれを支えようとした。でも、俺はその手を反射的に左手で叩き落していた。
「い、イテテ…っっ」
「って、もしかして新木…、さん？」
「や、やあ、こんにちは時任君」
「なんで…、こんなトコに・・・・っ」
「ちょっと、葛西さんに頼まれてちょっと色々とね。肩もまだこんなだし役立たずだからって…、ははは…」
「・・・・・・っ」
「それよりもさっきから苦しそうだけど、大丈夫なのかい？」
新木さんはそう言って叩き落とされた手を、反対側の手でさすりながら俺を心配そうな目で見る。でも、今の俺にはそれに笑顔で返事するだけの余裕はなかった。
俺の心配なんてしてくれなくていい…。
俺の心配なんかしなくていい…。
だから…、早くどこかへ行って欲しかった…。
久保ちゃんじゃないなら、早く消えて欲しかった…っ。
話しかけてくる新木さんの声が、心配してくれてるってわかってるのに耳障りで…、
そんな風にカンジる自分をイヤだって思ってるのに…、
どうしてもなんででも…っ、ココにいるのは久保ちゃんじゃなきゃダメだった…っ。
「ウルサイっっ！！早くどっかへ消えろーーっっ！！！！」
そう叫んだ自分の声に驚いて、ハッと目を見開く…。
すると、同じように驚いたカオした新木さんのカオが見えた。
右手の痛みと自己嫌悪と…、そんなのが胸の中で混ざり合って…、
なぜかすごく哀しくて…、俺は痛む右手でカオの半分を覆うと何かを求めるようにマンションに向かって歩き始めた。
「時任君…っ、一人で大丈夫なのか？ 俺が途中まで送ろうか？」
「・・・・・ヘーキだから、もう構うな」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・ゴメンな、新木さん」
ゴメン・・・・・・。
一度しか口には出さなかったけど、心の中では何度も何度もあやまった。
けれど、右手の痛みも自己嫌悪もなくならなくて…、
俺はズルズルと…、ズルズルとそんな想いを…、重いカラダを引きずるようにしてやっとの思いでマンションへとたどり着く。そして、玄関に入ってエレベーターに乗り込むと４階のボタンを押した。
たった４階だから、いつもはすぐに着くけど…、
今日はそのたった４階が長い…。
やっと４階に着いてからも、４０１号室までの廊下がやたらと長くカンジて…、
途中で何度も倒れ込みそうになって、動けなくなりそうで…、
けど、そのたびに俺は歯を食いしばった…っ。
「もう…、ちょっと・・・だ…っ」
４０１号室のドアの前…、やっとたどり着いて…、
少しホッとしながらポケットの中からカギを取り出す…。
でもなんか手が震えてて…、なかなかウマく鍵穴に入らねぇ…。
廊下を歩いてる時も思ったけど、たったそれだけのコトがつらくて…、
いくら歯を食いしばっても、何かがココロの中で折れてしまいそうになる。
何分くらい…、どれくらい時間がかかったのか…、
ようやくドアのカギを開けた俺は、倒れるように玄関に入ってドアを閉めると這うようにリビングに向かう。ホントならリビングじゃなくて寝室に行かなきゃなんねぇんだけど…、そこには電話があるから…、
そこに行けば、久保ちゃんの声が聞けるから…、
どうしても…、そこまでたどり着きたかった。
何か言いたいワケじゃない…、何か聞きたいコトがあるワケじゃない。
ただ…、久保ちゃんの声さえ聞ければそれで良かった。
久保ちゃんが時任って呼んでくれたら…、それで良かった…。
でも、たどりついたリビングで電話の横に置かれたケータイを見た瞬間…、俺はあの日のコトを思い出して電話の受話器を上げるコトができなかった。
『ウチに帰ってこないでもらえる？』
葛西さんかヤブ医者のトコに行けって以外は、何も言わなかった…。
アンナのコトは関係ないって言われた…。
何も理由も告げずにゴメンとだけ、最後に聞こえて切れたケータイ…。
その音がなぜか耳の奥に残ってて…、消えない…。
久保ちゃんを取り戻して、何にもかも元に戻ったばすなのに…、
耳の奥に残ったケータイの音が…、なぜか…、
たぶん、それとは違う夢を見てたと思うのに…、
ずっと…、鳴っていた気がした…。
ホントは夢を見る前から、あの日からずっと…、
俺はその音を聞きながら、久保ちゃんのコトを心のどこかで疑ってたんだ…。
寒いって言った久保ちゃんの…、ぬくもりを感じても…、
俺のココロは寒いままだった…。
おかえり…って告げながらも、俺は裏路地にいた。
久保ちゃんが俺を拾ったっていう裏路地に、まるで久保ちゃんが買った何の記録も残らないプリペイド式のケータイみたいに…、
壊れたまま…、置き去りにされていた…。
バキィィィィーーーーっ！！！！
俺の右手の中で久保ちゃんの買った新しいケータイは、ぐちゃぐちゃに壊れてゴミ箱の中に落ちる。そして、俺はまだ痛む右手と重いカラダを引きずって…、久保田って書かれた表札のかかってる４０１号室を出た…。
あの日の久保ちゃんみたいに何もワケも言わずに…、たった一言だけ…。
電話の横のメモに……、言葉を残して…。
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