ANY OLD TIME IN AMERICA


 ■ ANY OLD TIME IN AMERICA

  レコードコレクターズ 2002年2月号掲載


アメリカン・ミュージックのパイオニアたち

第11回 カーター・ファミリー

Can The Circle Be Broken
Carter Family
『Can The Circle Be Broken : Country Music's First Family』
Sony B00004RC8J
Country Music Hall Of Fame
Carter Family
『Carter Family, Country Music Hall Of Fame (Series)』
MCA(Decca) #10088

O Brother, Where Art Thou ?    先日、噂のコメディ映画『オー・ブラザー!』を観てきた。ジョエル&イーサン・コーエン兄弟の監督・脚本・製作にも興味はあったが、映画全般に流れるアメリカン・ルーツ・ミュージックに関心があったので渋谷の映画館に出かけた。しかも音楽監督は、かのTボーン・バーネットである。スタンリー・ブラザーズエミルー・ハリスギリアン・ウェルチ、故ジョン・ハートフォードなどの歌が聴けるとあって、サントラCDが、全米で爆発的に売れたという。それはともかく、選挙演説のシーンでカーター・ファミリー(以下CFと略す)の‘Keep On The Sunny Side’(邦題は「陽気に騒ごう」)が歌われていた。これはぼくの愛唱歌だったので、映画鑑賞中にも関わらず、ふと青春時代の良き思い出が脳裏をかすめた。嬉しいことに、このカーターズ・ソングは、エンディング・タイトルにも長々とフィーチャーされていた。
  家に帰り、パンフレットを開いてみたら、ピーター・バラカンさんがこの映画の音楽背景を語っていた。そこではアメリカン・ルーツ・ミュージックをTボーン・バーネットならではの知識で巧に散りばめたもの、と無難に述べられていたが、もう少し突っ込んだ解説があってもよいと思った。つまり、この映画に登場する音楽のオリジナルの多くは、30年代から40年代にかけて活況を呈したブラザー・デュオや家族バンドで歌われていたものなのだ。
先月号で触れたニュー・ロスト・シティ・ランブラーズもこの時代の音楽にぞっこんだった。そして、こうしたシーンの花形スターだったのが、何を隠そう「陽気に騒ごう」をヒットさせたCFなのだ。

家族系バンドを代表する存在と言えるCFは、アパラチアン山脈地方に古くから伝わるトラッド、宗教歌(ゴスペルと言っても良いだろう)を俎上に載せて歌作りを行ない、南部音楽シーンはおろか全米の人気者となった。メンバーはA・P・カーター、奥さんのセイラ・カーター、義理の妹のメイベル・カーターの3人。当時としては新鮮なハーモニー・コーラスが話題を呼び、主にセイラがリード・ヴォーカルと個性的な楽器オートハープを担当、メイベルはギターを奏でた。特に低音でメロディを弾き、和音を力強く弾きブラッシングするメイベルのギター奏法が多くのファンを魅了した。後に彼女は、このギター・スタイルは近所に住んでいた黒人ブルース歌手レズリー・リドルズに教わったと述懐しているが、この奏法は「カーター・ファミリー・ピッキング」と呼ばれ、今日のカントリー・ギターの基本となっていった。50年代のブルーグラス・ミュージシャンがこれをより発展させ「Gラン奏法」を編み出したことも広く知られている。
Carter Family
 レコーディング・アーチストとしてのデビュー当時から、CFと、初期カントリーの大スター、ジミー・ロジャーズとの間には深からぬ縁があった。ブルース歌手をオウケー・レーベルで手掛けていた敏腕プロデューサー、ラルフ・ピアが新しい歌手の発掘を目指して、今度はヴィクター社にその身を委ねて仕事に着手した。狙いは従来通り、南部音楽シーンの黒人、白人の優れたミュージシャン。
常套手段として手始めにオーディションを行うことにして、ラルフは新聞に「1927年7〜8月にヴィクター社がタレント・スカウトを行なう」という広告を出した。場所はテネシーとジョージアの州境の小さな町ブリストル。この情報の下に集まったミュージシャンの中にCFと、ジミー・ロジャーズがいたというわけだ。両者とも後にヴィクターの看板歌手になったのは、言うまでもないことだろう。
  CFの記念すべきヴィクターの第1回録音は1927年8月1日、オーディションと同じブリストルで行なわれた。6曲ほど録音され、‘Bury Me Under The Weeping Willow’‘Single Girl, Married Girl’は、早くもヒットを記録したという。その後CFは1927〜1934年に、ヴィクター、傍系のブルーバードに大量に吹き込みを行ない、1934〜1935年はARC(後のコロンビア)に所属、1936〜1938年の間は新興レコード会社デッカと契約を結び、安定した人気ぶりを示した。

 主なヒット曲を挙げてみよう。28年録音の「Little Darling Pal Of Mine」は、ウディ・ガースリーの代表作「この国はあなたのもの」のメロディ下地になったことでも有名。
  ニッティ・グリッティ・ダート・バンドでお馴染み「Will The Circle BeUnbroken(邦題は「永遠の絆」)」は当初ヴィクターで録音(1931年10月)されたが、マスター・テープの事故か何かの理由で発売中止となってしまったらしい再吹き込みはARCだった。さすがに大物らしく、ヒット曲は枚挙にいとまがないので、この辺で止めにしておこう。要チェックなのは、ジミー・ロジャーズとの共演も行なわれたという事実で、これは語られる機会が少ない。彼らの共演録音は、1931年6月11〜12日の二日間にかけてケンタッキー、ルイヴィルで行なわれ、お互いのヒット曲を会話を交えて歌う内容のSPが出された。また、CFは1938〜1940年に、テキサス州境の片田舎デル・リオに拠をかまえ、ボーダー・ラジオ局として知られたEXRAでレギュラー番組を持ち、大活躍した。1940年には再び大手オウケー、ブルーバードに所属して数曲の録音を行なった。 June & Johnny
メイベルの娘ジューン・カータージョニー・キャッシュと結婚、伝統はこの家族に受け継がれている。
 
Rambling Boys, Jack Elliott & Derroll Adams   CFの名をフォーク・ファンに知らしめたのは、ランブリング・ジャック・エリオットだった。
彼は50年代半ばからCF「Rambling Boy」をレパートリーにしていた。その後、英国に渡りデロール・アダムズとフォーク・デュオを結成するが、その際二人が付けたバンド名はランブリング・ボーイズだった。彼らはトピックから25センチLP(10インチ盤)を発表、タイトルも「The Rambling Boys」。ここには、CFの代表作「East Virginia Blues」も収録されていた。
  余談だが、ボブ・ディランは、1997年のジミー・ロジャーズ・トリビュート盤の制作に引きつづき、カーター・ファミリーに捧げるアルバムを企画中と噂されている。



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