ANY OLD TIME IN AMERICA


 ■ ANY OLD TIME IN AMERICA

  レコードコレクターズ 2002年1月号掲載


アメリカン・ミュージックのパイオニアたち

第10回 ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ

Early Years
The New Lost City Ramblers
『Early Years (1958-1962)』
Smithsonian Folkways CD-SF-40036
There Ain't No Way Out
The New Lost City Ramblers
『There Ain't No Way Out』
Smithsonian Folkways 40098)

97年のとある日、御茶ノ水のレコード店Dを帰り道に覗いてみたら、ボブ・ディランと共にぼくの青春時代の1ページを飾る懐かしいニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(以下、NLCR)の新着CD『There’s Ain’t No Way Out』が、カウンターに飾ってあった。「オウ、待ちに待ったフォークウェイズからのデビュー・アルバムのCD化だ!!」と思い、手にしてみて驚いてしまった。アルバム・カヴァーのデザインは、当時のものを踏襲していたが、何と新録音だったのだ。あまりにデビュー盤とデザインがそっくりなので間違えたのも無理はない。が、そのCDジャケットを注意深くじっくり見ると、T型フォードの後ろにNLCRのメンバーが小さく写っている。遊びごころ満点のデザインと、久方ぶりの新録音に関心した。
 NLCR#1   NLCRは60年代の前半から中盤にかけて、アメリカのみならず世界中の音楽ファンをとりこにした「フォーク・リヴァイヴァル」を語る上で絶対に欠かすことが出来ないグループと言える。3人の男たちによるこのバンドは、ザ・ヴィーヴァ−ズタリアーズキングストン・トリオなどと同じく、50年代後半のアメリカン・フォーク・シーンにとってかけがえのない存在だった。
つまり、NLCRは、フォークがブーム化する以前から活躍していたわけで、リヴァィヴァルを引き起こすきっかけを作ったフォーク・ミュージシャンの側の一角に位置していたのだ。
ハリー・スミスが編んだフォークウェイズの編集盤『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』(1952年)に触発された感が強いNLCRだったが、1958年に結成されてから、ハリーが伝えたかったアルバムの主題‘古くて奇妙なアメリカ’を実践に移し、当時の音楽ファンの目をルーツ・ミュージックへと向かわせた功績は大だった。

  NLCRは20年代から30年代に栄えた南部の白人音楽、オールド・タイム・ストリング・バンドを50年代に甦らせただけでなく、南部の黒人のカントリー・ブルース、ジャグ・バンド、さらに、ルイジアナの特異な音楽ケイジャン、ブラック色濃いヒルビリー・ブルースなども積極的に紹介した。
メンバーのリーダー格は、1933年生まれのマイク・シーガー。義理の兄は「フォークの父」との異名をとるピート・シーガー、妹はイワン・マッコールの奥方として知られたペギー・シーガーマイクはフォーク系楽器のマルチ・プレイヤーであり、フィドル、バンジョー、ギター、マンドリン、オートハープ、ハーモニカ、ダルシマーなどをこなす。ジョン・コーエンは1932年生まれ。写真家としても名が知られた人物で、フィドル、バンジョー、ギターを担当。トム・ペイリーは1928年生まれで、バンジョー、ギターが得意だった。ここまでがオリジナル・メンバー。3人ともニューヨーク生まれで生粋のニューヨーカーだった。 NLCR#2
そのうちトムは、62年に学者として生きる決心をして英国に居をかまえることになり、後釜にはフィドル、ギターが得意なトレイシー・シュワルツが収まった。
  NLCRが目指したものは、基本的にはスキレット・リッカーズチャーリー・プール&ノース・カロイナ・ランブラーズといったオールド・タイム・ストリング・バンド黄金時代の花形バンドの再現だったが、先にも触れたようにメンバーが様々な楽器の名手だったことから、フォークウェイズに数多刻んだアルバムのなかではソロ演奏も随所に聴くことができ、メンバーそれぞれの思い入れたっぷりの極上のアメリカン・ルーツ・ミュージックが録音されていた。そして、当時のフォーク・ファンは、NLCRのアルバムを通して20年代から30年代に栄えた様々な音楽スタイルを知ることになったわけだ。
Ry Cooder   グレイトフル・デッドジェリー・ガルシアは、フォーク・リヴァィヴァルの折、NLCRと出会ってからルーツ・ミュージックの素晴らしさに目覚めたと述懐していた。デッド・ソングでお馴染みの「アンクル・ジョンズ・バンド」は、一説によるとNLCRを歌っているという。そう言えばジョン・コーエンのニックネームが「アンクル・ジョン」だった。ライ・クーダーも少なからずNLCRの影響下にあったようだ。70年発売の彼のデビュー盤『ライ・クーダ−』「プア・マン」は、NLCRのレパートリーを下敷きにした作品だった。71年のセカンド『イントゥ・ザ・パープル・ヴァレイ』、サードの『ブーマーズ・ストーリー』は、不況時代のアメリカを題材とした意欲作で、ここでもNLCRのサウンド、思想が見え隠れしている。 Jerry Garcia

  ボブ・ディランがミネソタからニューヨークに流れ着いたころ、NLCRはグリニッチ・ヴィレッジ・フォーク・シーンのスター的存在だった。若きディランは、3人の男たちが繰り広げた‘奇妙な音楽’をコーヒー・ハウスで堪能、かれらの信奉者となり親交を深めたという。ジョン・コーエンはロックの道を歩み始めたディランを早くから支持し、ディランのイラストが表紙を飾ったフォーク専門誌『シング・アウト』1968年10/11月号でロング・インタビューを試み、ロック誌から羨ましがられた。
NLCR#3 つい最近フォークウェイズから発売されたジョン編集によるCD『There Is No EYE:Music For Photographs』には、ディランの未発表作品「ロール・オン・ジョン」が収録されている。二人の深い絆に思わずこころが和らいだ。ジョン同様、マイク・シーガーディランの才能を早くから認めていたひとりだ。数年前、ラウウンダーから発売されたマイクと友人たちの素敵な共演盤『3rd  Annual Farewell Reunion』にゲスト出演、二人で「ホリス・ブラウンのバラッド」を録音した。アシッド・フォークの先駆者ホリー・モダル・ラウンダーズの音楽も、歌詞こそ違うものの、サウンドはNLCRそのものだった、という事実を忘れてはならない。嬉しいことにNLCRらは1990年10月にひょっこり来日し、コンサートが浅草で催された。淋しい観客数だったが、会場には高田 渡なぎら 健壱両氏の顔も見られた。
奥深いアメリカ音楽に酔い、帰り道、なぎら氏と軽く一杯ひっかけた想い出が甦る。

 


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