勇者妻33

 背筋が凍るほど綺麗な直線だった。
 何の音も聞こえない。もうすでに耳にこびりついてしまった、降り続く雨の音さえピタリと聞こえなくなった。
 一瞬の沈黙。
 止まる時間。
 色を失う世界。
 モノクロの世界の中でも半透明の美しさを失わない刃。
 風のように通り抜ける真っ直ぐな瞳の持ち主。

 スタッ。

 聴覚を失っていた耳に再び音が戻る。
 風にのり、腕輪を斬ったヒイロが地に足をつける音。
 その音は雨音と比べれば非常に小さな音だったにも関わらず、私の耳には確かに届いた。

 ザァアアアアアア!

 時間が動き出し、世界に色が戻る。そして……私の腕輪は、確かに斬られていた。
 でも外れることはなかった。……完全に斬られていなかったのだ。
 紙一枚。その薄さ分足りていなかった。 
 なぜだ……なぜだ……!!!!
 その原因はすぐにわかった。震えていたのだ自分の腕が。ヒイロは……きっと私が動かなければ見事に腕輪を斬っていたはずだろう。私が震えていなければ……。どうして震えていたのよっ!?
「どうしてっ!? どうしてっ!? どうしてぇぇええっ!?」
 冷静さを失う。
 私のせいだ! 私のせいだ! 私のせいだ!!
 私が震えていたのは私がヒイロを信じ切っていなかったからだ。だから恐怖を感じてしまっていたんだ。
 私がっ! 私がっ! 私がっ!
「何でよ!? 外れなさいよっ! 外れなさいよぉぉぉおおっ!」
 私は地面に腕輪を叩きつけていた。
 だってこの腕輪は、本当に繋がっているのが不思議なくらいの薄さで、そんな僅かな薄さで私を戒めて続けているんだもの! 強い衝撃さえ与えれば外れてしまうんじゃないかと思ってしまうくらいの薄さで!!
 でも……雨でぬかるんだ地面に腕輪を叩きつけたところでどうにもならなくて……。叩きつけることで起こった泥飛沫が顔にかかって……。それが許せなくて……、でもどうにもできなくて……。

 ガキィィィン!

 今日この音を聞くのは何度目になるのだろう?
 闘いの音だ。
 無情にも再び闘いは始まってしまう。
「まったく驚いたよっ! オリハルコンの腕輪を斬ろうとするなんてなぁ!」
 激しい斬撃を繰り出し続けるベイト。
「そんなのできるわけないだろうがっ! やっぱり馬鹿だろうテメェ!?」
 違うっ! ヒイロは悪くない! 私が……私が……。
「そんなのできるわけがないだろうって言ってるわりには焦っているように見えますけど!」
「てめぇ!」
 ヒイロは自分のペースを崩すと言うことがないのだろうか? 確かにベイトは焦っていた。
 ヒイロならあの腕輪を斬れることが証明されてしまったのだ。当然かもしれない。
 ……もう完全に警戒されてしまった。もう一度ヒイロに腕輪を斬るチャンスを与えるような愚行をするほどベイトは抜けていない。激しい斬撃を繰り出し続けているのはそのためなのだろう。
 もうヒイロの力を借りることはできそうもない。
 どうすればいい?
 ……私に何が出来る?
「は、ははは……」
 なんだか笑えてきた。
 ……私って一人じゃ何もできないのかもしれない。ずっと……男に頼ってきた。だから……一人じゃ何もできなくなってしまったのかもしれない……。
 だって……だって私は……、自分の夢でさえ……男がいなければ叶えられないんだもの……。自分の信念としていた……夢を追うことでさえ……一人じゃできないんだもの。
「うわっ!?」
 愛する男の声と、剣が弾かれる音と、湿った地面に剣が突き刺さる音だった。
 ベイトの容赦のない斬撃を防ぎきれなくなったヒイロが、水晶の剣を手放してしまったのだ。
 間髪入れずにヒイロが水晶の剣を取り戻そうと風にのる。
「させるかよっ!」
「っ!?」
 しかしその試みは失敗に終わる。突如隆起した地盤がヒイロの足を取ったのだ。
 足を取られ、もつれるように転がる。地面に叩きつけられ、泥にまみれになり苦悶の表情を浮かべる。
 そんなヒイロのもとに容赦なく歩み寄るベイト。
 勝負が着いた。
 着いてしまった。
「……へっ……」
 ベイトの口の端があがる。剣が振りかぶられる。
「終いだ!」
 ダメ……。
「だめぇえええええええええええええ!」

 ガギイイイィ!

 耳を劈くような音がした。両腕に衝撃が走った。
「なっ……!?」
 私は無我夢中でわからなかった。だが目を瞑っていたらしい。目を開くと目の前に驚愕の色に染まったベイトの顔があった。
 両腕が痛かった。今まで経験したことの無い痛みだった。特に左腕が痛かった。もしかすると折れているのかもしれない。
 私は振り下ろされる剣の前に出ていた。本能的に両腕で自分をかばっていた。でもそんなことでベイトの斬撃が防ぎきれるはずがない。

 ボチャッ……。

 湿った音がした。
 それとともに左腕の違和感が消える。落ちたのは……封魔の腕輪。
 そうか……。
 私はすべてを理解した。
 それと共に、私の全身を包むように精霊が生み出されていく。
 私を戒めていたはずだったオリハルコン製の腕輪。それが私の命を助けた。ベイトの剣は腕輪に止められた。ベイトの剣ではオリハルコンを斬ることはできなかったのだ。
 いや……その衝撃で、紙一枚の薄さで繋がっていた腕輪が壊れたのだから、ベイトが斬ったと表現すべきなのだろうか?
「こ、このやろう!」
 ベイトの剣は剣を持ち直し、私に斬りかかってきた。
 だけど遅い。私の繰り出す爆撃魔法がベイトを吹っ飛ばした。
 私を戒めるためにベイトがつけた封魔の腕輪。しかしその腕輪が私とヒイロの命を救った。さらにベイトの剣でその戒めを破ってしまった。なんと皮肉な話だろう。
 私の魔法は今までと比べモノにならないくらい冴えており、イメージ通りの動きをした。そして、炎の魔法の障害になったであろう雨さえいつの間にあがっていた。
「くっ……」
 吹っ飛ばされたベイトは空中で何とか体勢を整え、両足で着地することに成功していた。
「くそぉぉぉおおおお!」
 目を血走らせ、鬼のような表情で私に向かってくる。
 ……しかし……。

 ヒュオッ!

 私に意識を集中してしまったのが敗因。
 風の音がし……水晶の刃が煌めいた。
 その時にはもう木漏れ日があったため、その光が刃に当たり、虹色の輝きを生み出していた。
 私は改めて華麗だと思い、見とれてしまっていた。

 シュタッ……。

 ヒイロが地に足を着ける。その瞬間、ベイトの剣から刃が消え、武器としての価値を失った。
 オリハルコンさえ斬るその美しい刃が、狂気に満ちた復讐の刃を根本から斬り捨てたのだ。
 

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