勇者妻32

 ヒイロ……あんたって……あんたって……。
 何か言葉をかけたい。ヒイロに対して何か喋りたい。しかしそれは叶わない。熱くなりすぎた心が全身を麻痺させていた。
 再び剣と剣がぶつかり合い火花が走る。ベイトは辛うじて、美しすぎる線を描く水晶の刃を止めた。
「はん! 馬鹿じゃねぇのかテメェ?」
 力任せにヒイロの剣を弾く。
「女に捨てられたくらいで犯罪に走るような人よりはましだと思いますけど?」
 弾かれた勢いで体ごと持っていかれるのを必死で耐えるヒイロ。
「あんだとぉぉぉおおお!?」
 ヒイロのいつもの口調のいつもの毒舌が、完全にベイトの頭に血を昇らせた。
 二つの剣が様々な軌跡を描き、ぶつかり合い、激しい音を奏でる。その響きは、まるで私の心臓を直接殴りつけているかのようだった。
 痛く、そして心地よいその音はヒイロの優しさに似ていた。
 いや、ヒイロの優しさは本来ならただ心地よいだけのものなのだ。痛みを与えているのは私自身。
 雨に濡れた剣と剣がぶつかり合うたびに、2人の男からも汗とも雨とも知れない水滴が飛び散った。だがその水滴は、すぐに降り続けている雨に紛れてしまう。
「くっ!?」
 激闘の中、先に苦悶の声をあげたのヒイロだった。
 何を考えているんだ! こんな時に! 私の今するべきコトはこんなことを考えることではないだろう!? そんな場合じゃない!
 自分の両頬を手のひらでピシャリと打つ。
 考えるの、悩むのなんて後ですればいいじゃないの! しっかりと目の前を見なさいユリア!
 久しぶりに頭の中の霧が晴れた気がし、頭が回転し始める。
 ヒイロとベイト。
 スピードはヒイロの方が上かもしれないが、それ以外ではベイトの方が上回っている。特にパワーはかなりの差がある。
 剣と剣がぶつかる度にヒイロの顔が歪んでいるのが証拠だ。
 白兵戦は実力がものをいう。その言葉通り、このままではヒイロは負ける。あの狂ったベイトなら、命を奪うことも厭わないということも考えられる。
 ……ヒイロが死ぬ。殺される……。
 絶対嫌だ! そんなのは嫌だ! させない! 絶対!
 でも……でもどうすればいい? 魔法は使えない。武器も無い。そんな私に何ができる?
 ……この腕輪……この腕輪さえなければ……。
 しかし、この腕輪は外れない。一度はめた私にはわかる。幅が2センチ程度しかない腕輪なのだが、オリハルコン製だ。
 オリハルコンはこの世界でダイヤモンドの次に硬度の高い金属。高熱で溶かすことができるが、はめたままの状態でそんなことができるはずもない。もっとも今の状況では、高熱で溶かすなどという芸当ができるわけがない。
 じゃあどうする?
 この腕輪は手錠のような構造になっていて、外すにはカギが必要となる。しかしカギはベイトが持っているはず……いや、もしかしたら捨ててしまっているかもしれない。
 あいつには腕輪を外す理由なんてないんだから。
 ……カギが掛かっている箇所は一カ所。ここをはずせば腕輪は外れる。カギが外れれば広がるような構造になっているから……。
 ……そうか。裏を返せば……一カ所でも切れ目を入れることができれば腕輪は外すことができるんだ!
 でもどうやって? オリハルコンを切るなんてこと……。

『居合いの達人ならオリハルコンだって斬ることができるんだ』

 水晶の剣の持ち主の言葉が脳裏をよぎる。
 ヒイロの剣技は居合いに近い。
 だとしたら……。でもその人物であるソードは続けて、『……まぁこれはオレにもできるかどうかわからないが……』とも言っていた。
 ソードほどの腕前でもできるかどうかわからない芸当。しかもこれらの言葉は酒の席で零すようにいったモノだ。
 そんなモノが信用できるの? もし本当だとしてヒイロにオリハルコンを斬ることができるの?
 ……でも、今の私にはこの方法しか思いつかない……。一刻を争うのだ。今もヒイロはベイトに追い込まれつつある。
 でもこれを実行するとしてもまだ問題がある。ヒイロに腕輪を斬ってほしいということをいかにして伝えるか、そして斬るチャンスをどのようにしてつくるかだ。
 ベイトに気付かれてはいけない。気付かれては必ず阻止される。

 …………………………。

 考えたって答えが出そうもない。時間は無い。こういうときは心のままに行動するのみ!
「ヒイロッ!」
 今の私が出せる最大級の大声で叫ぶ。一瞬だけ激闘を繰り広げる2人の視線がこちらに向けられた。その一瞬でヒイロにすべてを伝えなければいけない。
(斬って!)
 腕輪を掴み、声に出さず口パクと目でヒイロに訴える。
 再び剣と剣がぶつかる音。激闘は何事もなかったかのように再開された。
 ……伝わっただろうか?
 ……いや信じよう。伝わったと。そして行動しよう。自分を信じて、ヒイロを信じて。
 私は走る。激闘を繰り広げる2人の元に。
「せぇぇぇいい!」
 そして私は大きく左拳を振りかぶった。

ブンッ!

 懇親の力を込め、ベイトに拳を突き出す。もちろんその拳は空を切った。ベイトがバックステップを行ったためだ。
 男2人の剣での白兵戦に、素手で乱入する。はっきりいって奇行以外のなにものでもない。しかし、この行動は2人の間を離し、ベイトに一瞬の混乱を与えることに成功した。

ヒュオッ……。

 風の音がした。そして拳を突き出したために伸びきっていた左腕に、美しい軌跡を描く刃が走った。


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