勇者妻29

 グゥゥゥゥム……。

 体が空間の歪みにのまれ、独特のなんとも言えない感覚が体中に走る。全身が空気に溶け込むと言ったところか。

 キンッ!

 そして耳元で何かが弾ける音がする。それは転送が終わった合図。それと同時に密着していたベイトを引き離すため、懇親の力で突き飛ばした。
 ベイトがそれで本当に突き飛ばされるとは思わなかったが、これが火事場のクソ力と言うヤツなのだろうか? あっけなく突き飛ばすことに成功していた。
 一気に間合いを離すため、地面を蹴り後方に跳ぶ。間合いを離すまいと追撃するかと思ったが、ベイトは動かなかった……。もう余裕ってこと?
 確かにそうだ。雨の中のデモンズ。助けが来るわけはない。しかも雨が降っているために私の炎の魔法の威力は半減してしまう。
 勝ち目は……無いに等しい。しかし私は抗わないわけにはいかない。

 雨が降っているデモンズは初めてだった。
 障気の溶け込む雨は異常なまでに冷たく、触れた肌は、痒みに近い軽い痛みのせいで小さな悲鳴をあげている。普段は背の高い木々からもれる太陽の光があるのだが、今はそれもない。
 暗く……冷たい……。
 魔界……、そんな単語を思い浮かばせるそこは、デモンズの名に相応しい場所だった。

 ……障気の雨が集中力を散漫させるが、精霊を生み出せないほどではない。ベイトも何かしてくる気配がないので私は意識を集中させる。
「無駄だぜ」
 雨の音に消え入るようなベイトの呟き。
 無駄? どういうこと?
 疑問に思ったが、ベイトの言葉がどういう意味なのかはすぐにわかった。
 精霊が生み出せない。いつもならとっくに精霊が生み出されているはずなのに……。
 ふと左手首に違和感があるのに気付く。ベイトに思い切り掴まれたせいだと思っていたが、違うようだ。腕輪がついていた。
「ま……さか……」
 声が思わず震えた。
 オリハルコン製のその腕輪。私はこの腕輪を知っている。この腕輪をはめたことがある。魔法学校を退学してから半年はこれをつけさせられた。
 封魔の腕輪。
 魔科学より生み出された、マジックアイテム。魔法で罪を犯したモノにはめられる腕輪。これを着けると精霊を生み出せなくなる。簡単に言えば魔法が使えなくなるのだ。
 だが、これは普通の店では扱っていない。闇市か……それとも拘留施設から強奪するか……。どうやって手に入れたの? いや、そんなこと、今は関係ないだろう。
 魔法が使えない。魔法が主力武器の私は絶望的状況に立たされてしまったのだ。
「その表情……どうやらそいつを知ってるみたいだな」
 どうする?剣でベイトにかなう訳がない。
「苦労して手に入れたんだぜぇ? 魔法が使えるおまえを力でモノにするのは難しい……。だから必死に手に入れたんだよユリア。ふふ……はははっ」
 表情は憎悪に塗り固められたままにさも愉快そうに笑うベイト。不気味としか言いようがない。
「オレをいいように扱ってたお返しさ。今度はオレがおまえを扱うんだ。人形のように。へへっへぇっへっへ……」
 自分の考え、自分の言葉に酔っている。まるで麻薬患者だ。もしかしたら本当に服用しているかもしれない。
「抗う気力も無いか?」
 どうする? 観念するフリをして丸め込むか? いや、私に一度騙されているベイトがその手に引っかかるとも思えない。
「まぁいい。どうせどうにもできないんだ。これからはおまえはオレの人形になってもらうぜ? なぁに、たっぷり愛してやる。安心しろよ」
 舌なめずりをしてから徐々に近づいてくる。
 どうすればいい? どうすれば……。必死で考えても打開策が見えてこない。

 いったいどうしてこんなことに……。

 そんな言葉が思い浮かぶ。しかし、それは私が口にするにはとてつもなく滑稽な言葉に他ならなかった。
 言われたばかりのソードの言葉通り。自分の撒いた種だ。
 考えてみれば当然の結果だ。私はランスに裏切られた時どう思った?何をした?
 報復を受けるのは当然だ。
「なんだその顔は? 今更自分のやったことを後悔してるのか?」
 今の私はそんな顔をしてるのだろうか? ベイトにも今の気持ちを見抜かれてしまうような……。どうやら私の築き上げて来た仮面は、障気の雨によって洗い流されてしまったらしい。
 もう……いいや……。どうにでも……なれ……。
 私は全身の力を抜き、頭の回転も止める。
「かはははは、後悔したって無駄なんだよ。どうにもならねぇんだよ。ふふ……そしてきっちりけじめはつけないとなぁ」
 後悔したって無駄。
 どうにもならない。
 けじめはつけろ……。
 どう考えたって狂ってるベイトの言葉さえまともに聞こえる。
 今まで私はなんてわがままに生きてきたんだろう。自分の夢を成就させるために、人を傷つけて……。夢を追うためだから……なんてきれい事言って自分の行動を美化して……。
 最低じゃない私。

 そうか……。

 夢を追うってすごい自分勝手でわがままなことなんだ。自分がこうだと思ったことを実現するために行動するってすごい身勝手なことなんだ。そんなことを今までやってきたんだ……私は。
「いい顔だぜ。絶望に打ちひしがれたような顔してやがるなぁ」
 ベイトの手が私の頬に触れる。

 バシッ!

 私はその手を払った。

 わがままで身勝手な生き方。
 ……いいじゃないのよ。他人の言うとおりに生きていくなんてまっぴらだ!
 私の人生だ。好きにやってもいいじゃないっ!
 好きにやらせなさいよっ!
 人の言うがままに人形みたいに生きていくくらいなら……、わがままを押し通したまま自分の意志で最後までやってやる!

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