勇者妻外伝
「その剣が進む道」3
迷いを断ち切り、本当の意味での剣の師としてやっていけるようになってから一年。ヒイロの剣が実戦レベルからさらに上へと伸びていき、もう剣の師匠としては教えることがなくなってきてしまった、そんな頃だった。 三年間。ヒイロ以外の来客が無かった私の道場に、来客があった。 ヒイロが来る前、朝早くに……、……最悪な……どうしようもないくらい最悪な来客だった。 「リレット……探したよ」 信じられない……。 「やっぱり俺にはおまえしかいないんだ」 この男だ。この男なのだ……。 「……なぁ……リレット」 酷くやつれ、明らかに筋力も落ちている。しかしその表情は柔らかく、かつての優しさを取り戻していた。 私が愛して……そして憎んで……斬り殺してやりたいと願った男。 ***** 「ラグ、おかえりなさい」 幸せだった。初めて好きになった相手。初めて身体を預けた相手。そして永遠の愛を誓った相手。それが、こんなにも強くて優しい男だったんだから。 小さな街にひっそりと佇む二人の家。小さいけど、温かい二人。この空間で永遠に過ごせたらどんなに幸せだろうと思っていた。 「リレット。次の闘技大会で優勝すれば俺の実力も認められる。賞金だって貰える、騎士団に幹部クラスで迎え入れても貰えるんだ。必ず優勝するからな」 腕っ節の強いだけの男だと蔑む人もいるけど、ラグはそれだけじゃない。私を心から愛してくれている。そして、しっかりと二人の将来を考えてくれている。 彼は街の大工として働いていたが、傍ら剣も習っていた。腕っ節の強さと生まれ持ってのセンス。三年間真面目に剣の腕を磨いた彼は、城の闘技大会でも充分通用すると剣の師範も言っている。 それならばとラグは闘技大会の出場を決意した。 賞金。そして騎士団という職業。二人の未来を明るくしてくれると彼は私に微笑みかける。……私はお金なんていらなかったけど……、私を幸せにしたいと頑張っている彼の気持ちを無下にすることなんてできない。 ……でも無理に止めておけば良かったんだ。 ラグは優勝した。城の騎士団長をも破り、富と名誉を手にした。 賞金。騎士団の中でも、もっとも名声の高い聖騎士団への入団。 私を幸せにしたいとラグは頑張ってくれたはずだった。賞金も、名声も、私のためだと言っていたはずだった。 しかし……その二つは、あまりにも眩しかった。目が眩んで……心が歪んでしまうほど眩しかった。 まさかラグに限ってそんなことにはならない。そう信じていた。 しかし、私の愛した男は普通の男で……、富と名声を手にしてしまったら、アッという間に人が変わってしまうような普通の男でしかなかったのだ。 使い切れない金。何をしても許されるほどの名声。 ……酒、賭け事。……そして……女。 貪るようにして欲求を満たしていく彼。……呆気なく壊れる幸せ。 ほとんど家に帰らなくなった彼が、突然家に帰ってきた。突きつけられたのは普通の女一人では一生使いきれないほどの大金。 富豪の娘と結婚するから、おまえとのことはなかったことにしたい。 信じられない一言。 永遠に続けばいいと思えた幸せ。私にとって最高の幸せ。 それがこんな形で呆気なく壊れてしまう。 何も考えられなくなった。何もできなくなった。ただもうこの町にいたくなかった。ここにいたら心が壊れてしまいそうだった。逃げるしかなかった。私には逃げることしかできなかった。 だって私は、最愛の男と一生幸せに暮らすこと以外望まない、そんなちっぽけな……、いや、それがちっぽけなこととは思わない、それが最高の幸せだと信じて疑わないような女だったから……。 それを失ってしまえば何もすることがない……何もできなくなってしまうようなそんな弱い女だったから。 ラグが突きつけた金でおもしろおかしく遊んで暮らそうとも思った。だけどそれもできなくて……、ただただラグが忘れられなくて、だから。 ……だから、……その思いがやがて激しい憎しみに変わるのは当然のことだと思う。 あの闘技大会がきっかけで彼を失ってしまった。彼が剣など始めなければ……彼に剣の才能さえなければ……。 あいつは……剣のせいで変わってしまった。剣によって今の富と名声を手に入れた。 なら……その剣で……ラグの幸せを奪ってやる。あいつよりも剣の腕を上げて、剣で斬り殺してやる。富と名声を手に入れた剣で……私を捨てる原因をつくった剣で……あいつを……あいつを斬り殺してやる。 そう思い始めたのは、街を離れてから何ヶ月後だろう。だけど、思い始めてから師匠に弟子入りするまでにそれほど時間はかからなかった。 私にはそれしかもうすることがなかったから。 ***** 「俺、この村から山を一つ越えた所にある街でまた大工を始めたんだ。小さいけど自分の家を手に入れた。小さいけど……あの頃……おまえと二人で暮らしていたあの家くらいの広さはある……」 何を……、何を身勝手なことを言っているんだ……。 何を……何を……。 「身勝手だって思うかもしれない。だけど……やっぱりおまえが好きで……、おまえほど俺を愛してくれる奴はいないってこともわかって……」 勝手すぎる。 許さない。許さない。許さない。 「……あのとき、おまえが俺を殺しに来たとき、おまえは俺を殺さなかったよな……。殺すだけの実力はあったはずなのに……」 ………………。 「……これも……自惚れかもしれないけど……、まだ俺のこと想ってくれてるからだって思うことにした。だから……俺、もう一度やり直そうと必死で……」 なぜ私は……、あの時この男を殺さなかったのだろう。 ***** 狡くて汚い必殺の剣を手に入れた私。 ラグの実力が如何ほどかは知らないが、サワナギ流剣術免許皆伝の私なら勝てるはずだ。サワナギ流は知る人ぞ知る流派。弟子も伝承者も少ないが、速さと剣の切れ味だけならば右に出る流派は無いと言われる。 この剣で嘲笑ってやろう。 騎士団長を倒したと増長しているラグは、大した鍛練を積んでいないはずだ。力任せに振られる剣を軽くいなし、避け、力の違いを見せつけてやろう。きっとラグは絶望に打ちひしがれるはずだ。 その顔をたっぷりと堪能した後に、斬り殺してやる。 そうだ。このために苦しい修行に耐えてきた。必殺の剣を編み出した。 なのに……なのに……。 剣を背に再会したラグは、以前の影を無くしていた。富豪の娘と結婚しても、酒を飲み、賭け事をし、あげくには暴力を振るい、女遊びもやめなかったようだ。 それは日を増す事にエスカレートしていき、彼は聖騎士団から追放された。当然のように、富豪の娘からは愛想を尽かされ、捨てられた。 真面目に働き、真面目に剣の鍛練をしていない彼に魅力はない。こうなって当然なのだ。 当然……で……。 やせ細った身体。その顔色からわかる。内蔵はアルコールに蝕まれているだろう。 嫌悪感を抱かずにはいられない。それが、かつて私が愛した男。そして、斬り殺しに来た男の姿だった。 「リレット……戻ってきてくれたの……か……?」 酒の匂いがする吐息を漏らし、虚ろな瞳で私に近寄ってくる。 ……殺せっ……。殺すんだ……。斬り殺せっ! 斬り殺すのよ! あれだけ憎いと思ったのよ? 斬り殺したいと思ったのよ? 斬る直前に、剣を振り抜くときに、躊躇わないための技まで編み出したのよ? さぁ斬り殺すんだ! 私は剣を振りかぶる。 「私はあんたを殺しに来た……」 その言葉を口にしたとき、まるで毬栗を吐き出したかのような痛みを覚えた。 「……そ、そうか……」 憎い。 憎いはずだ。 斬り殺したくて斬り殺したくてたまらないはずだ。 「……もう俺は……生きるのもつらい」 ……だけど……。 「いっそ死にたいと何度も思った。……おまえに殺されるなら本望かもしれない」 ………………。 こういう男がよく言う安っぽい言葉。 だけど……だけど……。 ラグは懇願するような目を私に向けていた。 かつての強く優しい姿はない。増長した高慢な姿もない。 ただただ情けない男がそこにいた。 「……っ!」 殺してやる……殺して……殺して……。 だけど……だけど……。 「殺してなんてやるもんですかっ……」 私は剣を振ることさえできなかった。 「腑抜けたあんたを斬りに来た訳じゃない」 ……半分は本当で半分はウソだ。斬ろうという意志さえ失ってしまった。 半分は……半分は……。 私は馬鹿だ。 今まで何をしていたんだ。こんな姿を見ただけで意志がぐらついてしまうほどこの男を愛している。あの憎しみは、愛しさの裏返し。 ……わかっていた……わかっていたはずなのに。 裏切られ、捨てられ、傷つき。あなたを愛することができなくなった。 ……でも想い続けたかった。 あなただけを……。 憎しみでもいい。あなたを想い続けたかった。 「………………」 私はまた逃げるようにしてその場を去った。 ラグを好きになってから、ずっとずっとラグを想い続けていた。愛して、憎んで……。そして……。 もうやめよう。 もうやめるんだ。 ラグを想い続けるのはやめるんだ。もうこんなヤツに捕らわれるな。 そう思った。思って……、新しい幸せを探そうとした。 ……だけど、そう決意したときの私はもう若くなくて、もう一度恋をする勇気もなくて、ただ残った剣の技術と、未だ使い切れない金をもてあますだけだった。 ***** ……あれからもう四年。 なぜ今になって……なぜ……。そんな強くて優しい眼差しを私に向ける? 狡い、汚い。 「……消えて……」 「リレット! 聞いてくれっ! 俺は……俺は……!」 「消えてよ! 私の前から消えなさいよっ!!」 忘れようと思ったのに! 忘れられると思ったのに! 真っ直ぐな瞳の少年のおかげで、この不毛な想いと決別できると思ったのにっ!! 「リレットッ!」 ラグは私の両肩をがっしりと掴んでユサユサと揺さぶる。 やめて……やめてよ……。 「誰ですかあなたはっ!」 大声が道場に響いた。聞いたことのない声。いや……よく知った人間の、聞いたことのない声色だった。 「師匠! 何なんですかっ、この男はっ!」 ……やめて……見ないで……。 その純粋な瞳で、こんな女を見ないで。 私は涙を流していた……大粒の涙を流していた。 「お弟子さん……か?」 「……帰って。これからこの子に稽古をつけるの……」 精一杯の声で絞り出すように言う。 「……わかった。 俺はウートって街にいる。待ってるから……ずっと待ってるからな」 !!! 何でなんでそんなこと……。今さらっ! 今さらっ! これだけ強く想っても、もう声にすることなんてできなかった。 立ち去るラグ。 泣き崩れる私。 そして……それを驚愕の張り付いた顔で見つめる少年。 なんで……なんでこんなことに……なんで……。 その後、私は泣き続けることしかできなかった。 稽古をつけなきゃいけないのに。少年が夢へと進むための手助けをしなきゃいけないのに。 弱くて、脆くて、どうしようもない私は何もできない。 もういい大人なのに。こんな少年の前で泣き続けている。自分の半分程度しか生きていない少年の前で……。 「師匠? ……師匠……」 困ったように、オロオロとするヒイロ。 情けない。本当に情けない。せめてこの少年に帰るように言わなければ。今日はもう帰れと……言わなければ……。 泣くのはそれからだ。それからだ。なのに……なのに……。 「あの……師匠……ボク……」 ゆっくりと近づいてくるヒイロ。 「し、師匠……師匠にこんなことするのおかしいかもしれないですけど……でも……」 そっと頭に優しくのるものがあった。……とても温かいものだった。 「こうすると、落ち着くから……。ボクもそうで……姉ちゃんもそうだって言ってたから……。ボク……こんなことしかできなくて……」 ヒイロはゆっくりと優しく頭を撫でていた。 純粋で真っ直ぐな優しさを感じた。 温もりを感じた。 ……こんな少年にこんなことをされている自分がどうしようもなく情けなくて、でもこの温もりを失いたくなくて、それがまたどうしようもなく情けなく感じて……。 私はただただ泣き続けることしかできなかった。 「……師匠。ボクよくわかりませんけど、泣かないでください。 ボクは師匠が大好きです。厳しいけど優しくて……、ときどき面白くて……」 私が好き? こんな私をこの純粋な少年が? 「……だから……、泣かないで……」 震える声で、震える腕で、震える心で。弱々しく、しかししっかりと私を抱きしめる。 「私が……好き?」 「……ハイ。好き……です」 好き……。それは……。 「師匠として? ……人として?」 ……それは……それは……それ……は……。 「……それとも女として?」 ……何を……、何を言っている? 私はこの少年の師匠だ。私はもう三十をとうに越している。この少年にとって、女としてみられる訳がない……。 ……そして、例え女だと見られていたとしても、私のような女なんて……。 「……わかりません。わかりませんけど。師匠が愛しいです。いつからかは忘れてしまいましたけど……、ずっと……ずっとそう思ってました」 否定を肯定してもらうために投げかけた問い。しかし彼が口にしたのは、頭を真っ白に染めてしまう呪文だった。 「……年の差とか、師匠だからとか、そういうの抜きで考えたことなかったけど、今泣いてる師匠を見て……それでも愛しくて……。だから……だから……」 私の中の女が、初めてラグ以外の人間を……、男を……愛しいと思えた瞬間……。 涙が止まらなくて、そして芽生えた想いも止まらなくて……。 「……だったら……」 私は……口にしてはいけない言葉を口にしてしまっていた。 「私をリレットと呼ぶことができる? ……私を……抱くことができる?」 |