勇者妻外伝
「その剣が進む道」4

 ヒイロ・ブレイブ。

 彼は勇者を夢見る少年。
 勇者伝説を夢見て、ただただ真っ直ぐに生きてきた少年。
 剣の稽古の合間。勇者の話をする彼の目はとても美しかった。そんな目に映るの自分の姿は嫌いだった。
 だけど今、彼の目は私だけをとらえている。
 
 彼は真面目すぎる少年。
 夢を追い求め、信じ。その強い想いは、汚い欲望で書かれた剣の教本からでさえ強さを得ることができる。憎しみに彩られた剣を振るう師から強さを得ることができる。
 彼のその想いの強さを目の当たりにするたびに、どうしようもない痛みを覚えた。
 だけど今。彼はその想いを私に向けている。

 彼は水晶のような澄んだ美しい心を持つ少年。
 素直すぎるほど素直で、純粋すぎるほど純粋で、そして正直すぎるほど正直だ。
 その言葉は、ウソに慣れすぎた人々を傷つけることもある。……大抵の人たちは彼に傷つけられる。自分の汚れを目の当たりにしてしまうから。
 私もそうだった。嫌というほど思い知らされた。
 だけど今。その澄んだ美しい心は私を好きだと言っている。

 これは間違いなんだとわかっていた。……だから涙が止まらなかった。
 だけど弱い私は少年の想いを振り払うこともできなくて。その優しい心に安らぎを感じてしまって……。
 ……彼を傷つけてしまうことはわかっていたけど、私は……私は……。

 この少年はもう私から教わる事など無い。きっと一人で技を磨いていける。これ以上一緒にいても意味はない。
 ……いてはいけない。
 彼に抱かれている時間。しっかりとそれを感じた。……それが……とても辛くて、悲しくて、涙が止まらなかった。

 ……もっと狡くて汚くなれたらいいのに。それに耐えられれば、ずっとこの少年の優しさに包まれ続ける事が出来るのに。だけど……彼の目は、想いは、心は、私にそれをさせない。
 罪な少年だ。
 ……いや、それは違う。罪があるのは私だ。……この少年以外の人間たちだ。
 この少年はこのままでいい。私が変わらなければいけないのだ。

 この少年との決別。そして自分の想いを正面から見直す決意。

 少年と女として過ごしたその日。私は剣を捨てる覚悟を決めることができた。

 剣は強さの象徴。
 相手を傷つけ、自分を守る。
 私の剣は鋭く尖らせた心。
 傷ついたままで、どうもしようとしない弱い心。
 歪んでしまった想い。

 私の剣はそういうものだった。 

 そして翌朝。まだ日も昇らない時間。
 一通の手紙を道場に残し、私はこの村を去ろうとまだ暗い外への一歩を踏み出した。
「……師匠」
 そこにいたのは少年。その真っ直ぐな瞳を涙でにじませた少年。
「…………」
「……師匠。お別れですか?
 ……お別れなんですか?」
 なぜここに、そしてなぜそうだと……。
「……姉ちゃんが……僕の姉ちゃんが。……僕が昨日帰ってこなかったから……、師匠とのことに感づいて、それで……泣いてる女を抱いたんじゃないかって……訊いてきて」
 ……お姉さん。確かヒイロにはお姉さんがいて、いつも自分に色々教えてくれるって、自分をよくわかってくれるって言ってた。
「僕はそれに答えなかったけど、……姉ちゃん厳しい顔して……、泣いてる女は抱くなって……。それで結ばれた二人は長く続かないって……。その女を本当に好きなら抱くなって。そう言ってました……」
 ………………。
「師匠。僕……僕……。
 間違ってましたか? だからもう一緒にいられないんですか?」
「……それは違う」
 違う。違うのだ。
「じゃあ……師匠……」
「でももう一緒にはいられない。今日でお別れです。これは……、絶対です」
 その言葉とともに少年の瞳から零れ落ちる涙。
 胸が激しく締め付けられたが、これは私への罰だ。きっと、この少年を泣かせてしまった、迷わせてしまった罰だ。
 ……だからしっかりと言わなければいけない。
 逃げずに。泣かずに。ヒイロの師匠として。
「だけど間違ってなんてない。君はそのままでいい」
 ポンと頭に手をのせる。
 そう、私の方が師匠なのだ。これが正しい。昨日のように逆の状態じゃいけない。この子の師匠として。
 剣の師匠として。そう。私はこの少年の師匠だ。
「……ヒイロ。最後の稽古です。」
 涙をこぼしながら、見つめてくる少年の視線は痛かった。
 だけど……。
「見せてみなさい。あなたの剣を」
 私は真っ直ぐに彼を見据え、荷物の中から直径二十センチほどの石を取り出した。
「私のもとで磨いた剣。……成長した証。見せてみなさい」
 オリハルコン。
 少年が持つ水晶の剣ではとても斬れないよう石。
「……師匠……。僕……僕は……」
「私の持つこの石を、あなたの剣で斬りなさい」
「そんな……、持っている石をなんて……、危ない……ですよ。それに……僕はまだそんな実力は……」
「………………」
 この以上私は口を開かない。ただ真っ直ぐにヒイロの目を見据える。
 できるかどうかなどわからない。だが、師匠として、旅立つ前に彼の成果は見なければいけないだろう。……見なければ。いや……見たいのだ。
「………………」
 ヒイロは私の視線を真っ正面から見つめていた。涙で滲んだその瞳はその美しさを失っていない。そして、確かな強さが宿ってくる。
 水晶の剣を構えた。
 それとともに昇る朝日。生まれる光のプリズム。生み出される精霊。そして時が止まった。

 すぅ……。
 再び時が刻まれたのは少年の吐息とともに。

 フワリと風が吹き、少年が舞った。少年の目は確かな未来を捕らえている。
 真っ直ぐな、鳥肌が立つほど真っ直ぐな道を走る剣。
 器用さはない。真っ直ぐ進むことしか知らない。戦いには向かないかもしれない。相手を倒すための剣技なら、この少年のレベルはそこまで高くない。
 でも、その剣の切れ味だけは、他の追随を許さないほど鋭い。 
 その道に何があろうとも、突き進むことができる。
 そんな剣。
 剣は心を映すモノだと言う人は多い。だとしたら、この少年は、進む道に何があろうとも突き進むことができる。前を向いて、しっかり前を見据えて、真っ直ぐに。

 ザンッ!

 まるで空を斬ったのかと錯覚するような刃。しかし……。

 タンッ……。

 少年の足が地につく。
 それとともに、手にあったオリハルコンは美しい断面図を私の目の前に晒していた。
「お見事。免許皆伝です」
 私は手を叩き、笑顔で言った。
「師匠……」
 振り返る少年。その表情は曇っている。
「免許皆伝ですよ? そんな顔をする人がいますか……」
「……僕……。」
 師匠として、この子の師匠として。最後の役目。
「なぜ、剣を習い始めたの?」
「……それは……」
「君は夢を叶えるのでしょう?」
「……は……い……」
「私の教えた剣。
 君の夢の成就のために役に立てなさい」
「…………」
「次の勇者は、私の教えた剣で、伝説の剣を用い、魔王を斬り伏せる」
 曇っていた彼の表情に光が宿り始める。
「そんな話が私の耳に届くことを、私は待ち望んでいます」
「……はいっ! ……はい師匠っ!」
 そして生まれる笑顔。
 最後に、そして最低限すべきこと、この子の剣の腕を確かめて、そしてこの子の顔に笑顔を取り戻すこと。そして、夢へと進ませること。
「最後の稽古はこれで終わりです」
「ありがとうございましたっ!」
 頭を下げる私の弟子。最初で最後の私の弟子。そして頭を上げたときの少年は、強い意志の瞳を秘め、しかし穏やかに笑っていた。
 少年と呼ぶのはもう失礼かな。
 ……青年。そう、青年だ。
 もう少年よりも青年という言葉が似合う。……いや、私が少年でいてほしいと思っていたから今までそう思えなかったんだろう。
 ヒイロは子供ではない。しかし、かといって大人でもない。子供のように自分勝手でわがままではない、大人のように狡くて汚くもない。こんなにも強い意志を持ち、穏やかな笑顔で笑うことができ、そして真っ直ぐに前へ前へ進める。
「それじゃあ、これでお別れです」
「……はい……」
「返事が小さい」
「ハイッ!」
「よろしい」
 私も笑った。穏やかな笑顔、自分で言うのもなんだけど、そんな笑顔を浮かべることができていたと思う。
「……道場の中に手紙が残してあります。私がいなくなってから読むように」
 私はそれだけ言い残し、ヒイロに背を向ける。
「師匠! 本当にありがとうございましたっ!」
 向けた背に投げかけられる青年の熱い想い。まるで私の背中を強く押してくれているような気がした。

 さぁ……。
 私も前へ進もう。
 剣と決別してラグの元へ行こう。

 私の剣。ラグを斬り殺すためだけに振るわれるはずだった私の剣。それがこの少年の夢を叶える力となるならば、とても幸福なことだ。
 私は最初で最後の、最高の弟子を持つことができた。もう剣士として何の未練もない。……これからは女として生きよう。
 あの男を愛してしまった私。捨てられて、傷つけられて、あれだけ憎んだのに、未だ想いを断ち切れない私。
 私はラグと生きていく。多分それが私らしい、私としての生き方で……もしかしたら幸せとは言えないかもしれないけど……。
 いや、幸せになれるかどうかは私とラグ次第。ラグは普通の男。そして私も普通の女。迷うことも間違うこともある。自分を見失うこともある。
 普通の男……か。
 ……ヒイロ、きっと君も普通の男なのよね。きっとそう。特別ではないんだろう。
 特別であるために彼は懸命に生きている。生まれ持ってのものもあるかもしれないけど、それを維持したり……磨いたりすることは、やっぱり何もしなくてもできることじゃない。
 しっかりと踏ん張って、そうあろうとする意志がなければできない。
 ……だけどそれは難しい。とてもとても難しいことで。歳をとればとるほど……色んな事を知れば知るほど難しくて。
 だからヒイロも、迷うことも間違うこともあるかもしれない。自分を見失うこともあるかもしれない。
 だからヒイロ。
 私は願う。
 師匠として願う……。
 いや、師匠として言いつけます。

 ……ヒイロ。
 私の教えたことを忘れないで。
 手紙に書いたことを忘れないで……。



『ヒイロへ。

 これから何かがあなたを傷つけたとしても、決して自分を見失わないで欲しい。
 自分が信じられなくなったら私を信じなさい。
 あなたは間違っていません。そのままでいなさい。
 私はあなたの師匠です。私の言葉を信じなさい。自分を信じなさい。』



 ……もしかしたらこの手紙なんて必要なかったのかもしれない。ヒイロならば、一人でしっかりと立ち直れるのかもしれない。
 ……でも、師匠としては願っていたい。私のおかげで彼は強くなれたのだと……そう思いたいのが師匠としての欲だから。

 ……ちなみに、手紙の内容はこれだけでない。追伸でこう書いて、金貨の入った袋を残しておいた。



『今までの月謝をお返しします。初めて会ったときの君が訊いたこと。
「一晩一緒に寝たら月謝無料って本当ですか?」
 あれは本当だから。夢へと進む旅の路銀の足しにしてください。


 頑張りなさい、私の可愛い弟子。ヒイロ・ブレイブ。

                 
リレット・グレース。』
















 想いが強ければ強いほど、それに対する迷いも、焦りも、不安も大きい。
 二日間もの間、前に進ませるのを躊躇わせたユリアと言う女性は、どれほどこの青年に想われていたか想像もつかない。
 きっとこの青年の師匠ならこう言うだろう。
「その女は世界一の幸せ者だ。これ以上ヒイロを不幸にするようなら、たたっ斬る」 
 この師匠の弟子である彼は、どんなことがあったとしても立ち直ることができるだろう。
 青年は師匠の言葉に支えられ、今も、そしてこれからも想いを寄せ続けるであろう、女性の元へと向かう。
 もう一度会い、確かめるのだ。
 この瞳にユリアを映し、この耳でユリアの言葉を聞くそのために。
 両足でしっかりと踏ん張り、シャンと背筋を伸ばし、彼は前に向かって歩き出す。もう後ろを振り返ることはない。

 彼の剣は障気の溶け込んだ雨でさえその美しさを奪うことはできない。絡みつくようにぬかるんだ土にも、その歩みを止めることはできない。

 彼が持つは水晶の剣。透き通ったその刃は心を映し出す。
 強い意志、純粋さ、強さ。彼の心のありのままを映すその剣は美しい。
 そしてその剣は、彼の師匠の想いをしっかりと宿している。技、教え、そして温もり、それらが注ぎ込まれたその剣は、しっかりと彼を支えている。
 青年の心。師匠の弟子を想う気持ち。それらがこの剣に秘められているもの。
 そんな彼の剣。

 その剣が進む道。

 真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、前へ、前へ……。
 この剣は、その道を真っ直ぐな想いをのせて進み続ける。

END

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