工藤 道隆
「工藤道隆」
つい先日までは、コートを着込む生徒がいるほど寒かった体育館も、随分と温かくなった。 全校生徒が集まっている今は、寒いと感じている人はおそらくいないだろう。 そこに響き渡る校長先生のありがたいお話は、少し見回しただけでも、聞いている人が数えるほどしかいないことが窺える。 そう言う自分も聞いていない一人なのだけれど……。 窓に視線を向けると桜の木が風に煽られて揺れていた。 ひらひらと舞うピンク色の花びらを見ていると、卒業証書を手にした時よりも、今日で卒業するんだと言う気持ちがこみ上げてくる。 高校生活も今日で終わり。 意図的に人と関わらないように過ごしてきたけれど、それでも色んな人と出会って、話をしたと思う。 もしかしたら、意図的に避けていたからこそ、一つ一つ出会いに強い意識を持ったのかもしれない。 「校歌斉唱!一同起立」 いつの間にか随分と時間が過ぎてしまっていたらしい。ガタガタという椅子の引きずる騒がしい音が一斉に鳴り出し、それに続くように奏でられるピアノの音にあわせて全校生徒が歌い出す。 中には感極まって泣いている生徒もいた。 僕も感慨深いものを感じはするけれど、涙が出る気配はまったく無い。 それが、三年間貼り付けていた無感情の仮面のせいかもしれないと思うと、少しだけ胸が苦しくなった。 卒業式が終わると最後のホームルーム。もうその時は先生も生徒も感情が高ぶっていて、普段では考えられないほどざわついたまま話が進む。僕はその輪の中には入らずに、窓の外をジッと眺めていた。 やがて最後のけじめとばかり引き締めた表情をした先生が促し、クラス委員の号令が教室に響き渡る。 号令が済むとともに、卒業アルバムへ互いに寄せ書きを始めたクラスメイトたち。それを尻目に、僕は教室を抜け出した。 ここはいつも同じようで、いつも違う場所。 最初は変わらない景色だと思っていたけれど、よく目をこらして見てみれば、毎日表情が違う。 代わり映えのしない毎日を送っているような気がしても、ここにいると同じ時間は訪れないんだと思い知る。 第二校舎屋上。その出入り口の上であるここは、名前も知らない先輩に譲り受けた特等席。この学校の中で、おそらく最も静かで、最も空に近い場所。 昼休みの間、自分はいつもここで本を読んでいた。 もともと本を読むのは好きだったんだけど、高校に入ってからは読書の時間を逃げ場所にしてしまっていた。 よくある別世界への逃避ってやつだろう。 一人でいる現実はやっぱりつまらなくて、本の中の世界に身を置く時間が必然的に増えていった。 様々な世界、様々な人間が織り成す物語は、空想世界でしかないのかもしれないけれど、色々な知識がすんなりと入ってきて、自分を豊かにしてくれる気がした。 だから、あの時間が無駄だったとは思わない。けれど、今では少し寂しい気もする。百聞は一見にしかずという言葉もあるとおり、百の学園物語を読むよりも、学校で級友と過ごす一日の体験の方が、価値があったのかもしれない。 それにしても、今日はいい天気で良かった。 青い空にまばらに広がる白い雲がとても綺麗で、ときおり吹き抜ける風も心地よかった。 スケッチブックを取り出して、果てしなく広がる空を見据える。 今日この日、この空だけは絶対に描き残しておきたかった。 無限に広がる空は、どこを描けばいいのか迷うけれど、どこを描いても絵になるような気がして、スケッチというよりは、空を見て得たインスピレーションを形にしていく感じで筆をすすめた。 ……思えば、スケッチも本と同じ。ただ単純に絵を描くことが好きだからやっていたのに、その意味は変わっていた。 人との関わりを極力避けると決めた僕は、きっと他の人よりも感動できる出来事に出会える確率が低い。 ただでさえ少ない思い出なのに、人間は忘れてしまうものだから、どんどん消えていってしまう。でもそれは寂しくて。 だから、一つ一つの思い出を、大切にしっかりと心に刻みつけておきたかった。 その想いが、このスケッチブックに絵を描かせたんだと思う。 そんなこのスケッチブックには、抜き取った絵が二枚だけ存在する。 一つは大山君の家で描かせてもらった花火の絵。彼は……本当に翌年も花火に誘ってくれた。直接誘ってくれたわけではなく、神尾さんを誘うことで自分を招いてくれた。 自分は姿勢を変えなかったし、大山君も神尾さんほど積極性が無かったから、学校で面と向かって会話することは無かったけれど、二年目の花火大会の日にあの絵をずっと持っていてくれていることをそっと教えてくれた。 もう一枚は、このスケッチブックの最初のページの絵で、唯一の人物画。 喜多川亜紀。 僕の初恋の人だ。 自分の病気を知り、亜紀といるのが辛くなった時に描いた絵。 ……好きな相手にまで自分と同じものを背負わせてしまう可能性がある。そう考えたらもう何も考えられなくて、でもそのまま何もなく距離を置くのは辛くて描いた絵。 本人には描きあがらなかったと告げてしまったけれど、本当は描きあがっていた。 ある程度枠を描いてしまえば、後は目を閉じれば明確に思い出すことができたから。 ……今、その絵は亜紀の手元にある。 この絵が描きあがってから、一度だけ亜紀に会ったときに、描き上がっていないと嘘をついてしまった。それがいつまでも心にひっかかっていて……。それ以前に、何も告げずに離れていってしまったことが心残りで。 高校を卒業する前に、自分のケジメとして亜紀に渡すと決めた。 渡すときに色々と話をした。あの時のお互いの気持ちや、自分のこと。そして亜紀のこと。 亜紀は今もあの先輩と交際を続けているらしい。のろけ話もしっかりと聞かされた。 ……会って本当に良かったと思う。 「あのまま会わないままでいる方が良かったかな?」 その時思わず言ってしまった言葉。亜紀はそれに対してこう言ってくれた。 「会えて色々話せて良かった」 ……亜紀とは、いろいろあってすれ違ってしまったけれど、かけがえの無い友人になれたと思う。 思いを馳せているうちに仕上がりつつある晴天の空の絵は、晴れ晴れとした自分の気持ちを再現しているような気がして少し照れくさい。 この絵は、高校生活の様々な思い出の詰まったこのスケッチブックの最後の絵にするつもりだ。 最後まで手を抜かず、一筆一筆に想いを籠めて最後の仕上げにとりかかる。 ……できた。 仕上がりをしげしげと眺めてから、大きく深呼吸をしてスケッチブックを閉じる。 言い知れぬ達成感とともになんだか身体の力が抜けた。脱力感に身を任せて寝転がると、あまりにも心地よい日差しに眠気を覚えてしまう。 しかし、その眠気はすぐに吹き飛ばされてしまった。 背中に伝わる振動は紛れも無く扉の開閉によるもの。 「やっぱりここにいたね」 迷いも無くはしごを昇り、僕を見つけて声をかけてくる。 彼女は僕がこの場所にいることを知っていながら、誰にも告げずにいてくれた人だ。 「どうしたんですか。沢木さん」 自分が声をかけるとにっこりと微笑む。その笑顔は、『響高の大和撫子』と呼ばれるに相応しいものだった。 「へへへ、迷惑だったかな?」 しかしその口調はフランクで、話しやすい雰囲気があった。物腰が穏やかで、口調もゆったりとしていた少し前とは随分変わっている。 「……そんなことはないですよ」 「よかった。少しだけ話そうよ。ね?」 沢木さんは自分の返事を待たずに、すでに隣に腰を下ろしている。 「本当はもう一回話をしたいってずっと思ってたんだけど、なんだか踏ん切りがつかなくて今日になっちゃった」 沢木さんと話すのは、学園祭の前にこの場所で一度話して以来。それほど時間が経っていないのに、随分昔のようなことに思えてしまう。 「あれからね。少しずつ学校の自分が好きになれた。 ……私変われたよ」 あの時屋上に駆け込んできた沢木さんの表情とは別物の明るい表情。 「さすがに被ってた猫をいきなりペローンとは剥がせないし、剥がしきれてもいないけどさ。まぁおっかなびっくり少しずつ。今では随分過ごしやすいよ。受けも思ったよりずっとよくて心配して損したーとか思ってたりする今日この頃」 まくしたてるように話す沢木さんの言葉に、自然に出てきた笑顔で頷く。 「だからさ。そろそろ工藤君の力になれるかなーとか思ったんだけど、なんかちょっと遅かったみたいだね。 ……工藤君、変わったよ」 「そうですか?」 沢木さんの言葉にドキリとする。少なくとも、沢木さんとの接し方を変えているつもりはないのに。 「うん。前会った時は、『世界の終わり』みたいな顔してたよ。でも、今はそんなこと無い」 世界の終わり。 「ぷっ……」 その言葉に思わず吹きだしてしまう。沢木さんは、自分の反応に驚いているみたいだ。 そうかもしれない。高校生活における僕は、人前で吹き出すなんてなかなかしない。 でも、あまりにも的を得ていて笑ってしまった。 なるほど。世界の終わりか。 「すみません。あまりにも言い得て妙で」 自分は世界を終わらせてしまっていたのだろう。自分の中に閉じこもって、なるべく人との繋がりをさける。 世界における自分の場所を、意図的に無くしてしまっていたんだ。 「あはは、意味が理解できないのが悔しい気がするけど、まぁそれはそのうちにと言うことで」 あのまま生きていくつもりだった。それがいいんだと思っていた。 だけど、色々な人と出会って、色々なことに気がついて。そして、終わっていた世界が再び動き始めた。 「はい、これ私の携帯番号。工藤君が携帯を持ったらすぐに電話すること」 差し伸べられる手をとる勇気すら失っていた自分だったけど。 もう一度、ゆっくりと始めてみよう。 「あ、心配しないでね。馬に蹴られない程度にしか電話しないからさ」 僕が電話番号の書かれた紙を受け取ると、いたずらっぽく微笑む沢木さん。 「じゃあ、またねっ!」 そして、再会の言葉を残して去っていった。 ……自分は幸せ者だと思う。 諦めや妥協なんかじゃなく、心からそう思える。 自分は世界を閉じていたつもりだったけど、結局のところ閉じきることができていなかった。 でもそれで良かったと思う。 ……もともと閉じきれるはずなんてなかったのかもしれないけれど。 人と関わることで、今まで気が付かなかった自分に気付くことができた。 きっと自分一人では色々なことに気がつけなかっただろう。相手の中の自分を知ることで、新たな自分を発見することができたんだ。 それでなんとなくわかったんだ。 きっと……多分、そうして世界は広がっていく。そうすることで可能性はどんどん広がっていく。 自分は子供が作れない。 それは今でも変えようの無い事実だけれど、自分にとっては絶望を覚えてしまうほどの人生の制限だけれど。 世界を広げていけば、そんな制限ともうまく付き合っていける。 だから僕は、人との関わりを断とうとするのはもうやめようと思う。確かに辛い時もあるけれど、それ以上の何かを得られると思うから。 ……それ以上の何かを得られたと思うから。 「あーっ!本当にいたっ!」 さっきとは比べものにならない、けたたましい音と共に扉が開かれた。 「双葉ちゃんから聞いたよっ!昼休みはずっとここにいたんだって!?今の今まで隠してるなんてヒドイじゃないの」 扉を開けた人物は、自分の感情を包み隠さず、怒りをそのまま声で表現して近づいてくる。 僕はそんな彼女の態度になぜだか顔が綻んでしまった。 ……そう、少なくとも。 何の打算も無く。そして何の飾り気も無く、僕と関われなくなるのが嫌だと言ってくれた人の、差し伸べた手を振り払うようなことはしない。 「ほらっ、行こう。工藤道隆っ!」 工藤道隆 完 |