まだすっかり日の昇りきらない調教の馬場には、
さまざまな人間たちの「希望」が、たて髪を風になびかせながら
ときにキャンターで、ときにはダク足で、
そしてときには全力疾走しながら駆け去っていくのだった。
−−−寺山修司『勇者の故郷』
赤石岳・荒川三山(前岳・中岳・悪沢岳)
2005年9月16日(金)〜9月19日(月)
オールフィクションエッセイ「山頂で逢おう」O
「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤明の映画のタイトルではないが、
とかくこの世は悪徳を好む者ほど栄えて安息の日々をすごし、
美徳を愛する者ほど不幸を味わい、悩みながら生きるようにできているらしい。
山もまた然り。そしてここに「悪」の名を冠した山がある。
その名も悪沢岳。荒川三山の主峰を成す山である。
深田久弥の「日本百名山」によれば、明治の文献にある地元の猟師が語ったという次のような言葉、
「この山より出づる渓流の西股に注ぐもの甚だ険悪なれば、これを悪沢と呼び、この山すなわち悪沢岳と言ふなり」
が山名の由来ということである。
現在でも深淵の山で、首都圏からでは麓の樺沢に入るだけで一日がかりになる。
そして樺山から頂上までは標高差2000メートルという険しい山道が待っている。
だが、そんな容易には人を寄せ付けない山だからこそ、美しい姿が損なわれることなく残っているのだ。
スーパー林道が開通し、容易に人を受け入れられるようなった南ア南部の山は、
多くの登山者で賑わう一方、ゴミの不法投棄や高山植物の盗掘をされるという憂き目に遭っている。
北岳が大腸菌で汚染されていたという数年前のニュースは、皆さんもご存知のことだろう。
悪沢岳は今のところ、そういった悩みとは無縁のようである。
登頂する者に苦難を与え、原初の自然で身を覆い、
己を変えることなく美しくそびえ続ける姿には、「悪の華」といった風格さえ漂う。
そして貞淑な山、善良な山を味わいつくしてしまったすれっからしの山男にとっては、
そんな「悪女」ぶりこそがこの上もなく魅力的で、征服欲をそそられるのである。
「人は誰でも、「悪の愉しみ」への強い欲望を持っている」寺山修司
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