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名前を変えて生きる姿は、女も馬もどこか不幸なイメージがつきまとう。
それでも、名前を変えていれば過去の栄光のことを知られずにすむからいい方で、
「昔の名前」のままで、出走するたび負けるのは、もっとみじめである。
   
                  −−−寺山修司『山河ありき』

奥穂高岳
2002年9月14〜16日



オールフィクションエッセイ「山頂で逢おう」(1)


   

今まさに天空に挿入せんとばかりに、猛々しく勃起しているのが槍ヶ岳だとするなら、
穂高という山の風貌は、女性の双丘を思わせる丸みがある。
特に涸沢と言う穏やかな場所から穂高連峰を見渡すと、
まるで母の胸に抱かれているような不思議な安息感を感じる。



   

山は人の比喩ならば、山登りは人生の比喩だろう。
一体今までいくつの山と出会い、別れててきただろうか。
一体いくつの山道を登り、下ってきただろうか。
いつまでも登り続けていられる人生などないし、その逆もしかりだ。





山はときに人を暖かく抱き入れ、ときに冷たく突き放す。
今日の穂高は少々荒れ気味だった。



   

濡れそぼり、落ち込む私を慰めるかのように、
微かに日が差し、雲の切れ間から山頂が姿を見せてくれた。
私は苦笑する。





さよならだけが人生ならば、今日の別れに乾杯しよう。
さらば穂高よ、また来る日まで。





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