1、戦後の社会不安(食料、物資の不足、人口増加、インフレ、政局混迷など)の波は農村にも荒く押し寄せ、軍隊帰りの私達仲間は、一時期、自暴自棄の状態もありましたが、青年団を組織し、仕事仲間を募って農閑期の現金収入を目指して重労働するようになりました。幸い、町の人達とは違って、まずいものだが食料は何とか自給できたので、「働くために食う、食うために働く」という意気込みで仕事に立ち向かい、他の地区の若い者に負けるなという意地もありました。
戦後1年ぐらいで復興のきざしが都市はもちろん農村でも見られるようになってきましたが、家を建てる木材は極度に不足していました。私達の村は杉の育ちが良く、その山林の大部分は手入れの行き届いた民有林で、戦前から杉材の生産・販売が農林業収入の中で大きなウエートを占めていました。戦後の財産かといわれたのは山林を各所に持っていて、毎年自分の山の立ち木を売り、沢山持っている水田を、小作農民に貸して小作料が玄米で入ったものでした。
我が家は明治の中ごろ、四代目5代目が腕の良い桶屋職人、大工職人が親子兄弟にいて(実は今でも大工さんが身内に多い)、家計が少し良い方向になり、それでようやく耕地を買って水田8反部(80アール)畑2反部、山林1ヘクタールの、貸し借りなしの全くの自作農として私の世代に受け継がれたものと聞いています。
7人兄弟の長男で、中農家の育ちでは、小学校卒業後の進学は出来ないのが当然であったのです。
木出しに使った一本橇
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2、戦後の混迷の中からようやく明るさが見えてきたその頃、私達の青年団グループでは、戦時中からの引継ぎもありましたが、現金収入としては山からの「木だし」これが第1番でありました。
現在、糸魚川市内に建設業者は数多くあり、大きい会社のほとんどは戦後の頃、製材工場経営から出発しています。製材の原木を近くの農山村地域から買い求めました。実際に山林所有者から立ち木を買い付けるものを「先山」と呼びました。私達はその先山との交渉によって仕事を請け負ったものです。当時、輪が釜沢という集落には、「青年倶楽部」という、大正時代に先輩が苦労して建築した若者の集会場(この建物は私:山アスパラ活二も覚えがある。その後男衆が少なくなってからはほとんど使われなくなって、田んぼの基盤整理で取り壊された)があって、そこが材木出しの請負の協定の場になっていました。
青年団長の方へ「先山」から一応の連絡があって、私共は全員が集まって「今度の山はどこで搬出材は何百何十石」という程度のことで、団長を中心に話しをしているうちに「先山」(私達は、親方とか親父さんと言いました)がやってきて、(要するに今で言えば団体交渉です)話しを煮つめた結果、この一山8万円とか10万円とかで決着をしたものです。それは簡単に決まることもあれば、大きい「山」ともなれば幾晩もかかって何十万で決着ということもありました。
契約が成立すれば、手打ち酒(酒2升、スルメか缶詰いわし程度で簡単に)をやったものです。(当時の10万円は、現在の200万円から300万円くらいと思ってみてください)
3、昭和23年ごろまでは材木を8月・9月に立ち木を切り倒し、枝払い皮むきをし乾燥させ、11月末までに必要な寸法に玉切りして幾場所かに集積してありました。この夏場の仕事を「木切り(きーきり)」と言い、請負ではなく先山に使役される常雇いが主で、私もこの日雇い労働をだいぶ経験しました。団体仕事だという意識は勿論のこと、お互いをかばい合う農民魂、最下層に生きている仲間意識の根性というものがあったのだと思わずにいられません。普通の年であれば、1月11日を過ぎれば降る雪も落ち着き(近年はもう少し遅くまで雪が続く)、山仕事(木だし)が出来るという目安が出来ていて、2月12日から橇乗り(木出し)の仕事を始めたものです。
4、今(平成元年)から約30年〜40年前に、生活のため、賃金稼ぎ(現金収入)のため、個人で橇を造り(僅かな年月に何台も)それを唯一の資本として働きました。しかもそれは、冬季4ヶ月の間に30日か40日の稼働日数があれば上等の方でした。あとの約90日は遊んでばかりいたわけではありません。お正月行事などお祭り的なもので遊んだり騒いだりしたこともよくありましたが、雪が降り積もる季節ですから家庭内での仕事もいろいろとやったものです。先ず家を守る雪降ろし、軒端の雪始末、仕事に出るための道具、すなわち、蓑・傘・幅機・藁靴・縄の整備製作、春から秋にかけての農作業の下準備(機会縄7〜8Kgのもの20個ぐらい、荷縄・背なこち・わらじ20足くらい藁ぞうり20足くらい)、その他まだいろいろなものを作ったものでした。そんな冬の生活ですから、一応降雪が一段落して同じ仲間と一緒に雪の上で活動できる材木出しの橇乗りは、春のいぶきを感じる喜びでもあったものでした。2月12・3日頃、今日は仕事始め、タ方には一杯飲めるんだという気持ちは、私達には明るい光を感じさせるものでした。
12月末か、11貫はじめ頃に消えない雪(根曹)となり3月下旬頃まで、県道は全く除雪されないので、私共健脚の者でも町へ行って来るには月に1〜2回約18Km(往復)の雪道を徒歩しか方法はありませんでした。もちろん、じっと我慢し、堪えて冬を越した一面もあったわけて・す。交適不使にはなるけれども、今から30年前頃まで、雪国の農村に生きる者は、そりを使っての克雪・利雪をやっていたことになります。現在は、豪雪ともなれば大変、道路や家の屋根や軒場の消雪・除雪、除雪機械の整備・運転・燃料、消雪パイプ・地下水の利用など、大きな社会間題になっております。私達の若い頃は、大雪が降れぱ喜んだ状況さえあったのです。笠をつけ、足にはハパキを付け、わら靴を履いてカンジキをかけ、道具はコイ鍬・5スキか角スコを使って、降りしきる雪の中を屋根に登っての雪おろし、おろした雪を軒下から離して窓明りを確保する雪スカシ・雪堀りの仕事は、毎冬のごく当り前のこととして自然を受け入れ、そして自然に立ち向っていったものでした。雪は大体降り止った,今年は7〜8尺も積もった。自分の家の雪の始末はこまめにやったので大丈夫、勇躍して材未出しの仕事に出られる。雪が多いので労働日数が多くなることを喜んだものでした。私達が生活のために実際に使用したそりは、そのときは非常に大事な道具であって、わずかな年月の間にさえ改良が加えられ、そして時代の進歩に伴う機械の発達、社会経済構造の変遷によって農業の兼業化が進み、橇、という道具は週去の遣物(昔の民具)となりました。私が本家の父ちゃんの遺志を継いで、未完成の一本橇を少し軽いものに仕上げて、自分で少し使ってみたいということですが、「今さら、無駄な骨折りはやめろ」と言う声があちこちから聞こえてくる気がします。しかし私にすれば、これからの六十才代を生きてゆく意思力と体カを計るバロメーターとして、一本橇の作成・使用を考えているわけてす。橇を使って仕事をしたことによって、私は「体カ」「根気強さ」さらに「工夫する心」を養成できた一面もあったことを、最後に申しのべて、この稿を終りとします。
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