現在の心境・田舎への回帰心・現実との葛藤などを、私の偏見をフルに発揮して綴ります。

美味しくて栄養たっぷりな野菜を自分で作りたい

<プロローグ>
2003年4月7日、納屋の階段を踏み外して左足首を骨折し、2ヵ月半に及ぶ入院生活。
とても痛い思いをしたが、私にとってはむしろ、これからの人生を見つめなおす良い機会になった・・・と思いたい。

病衣を着て入院していると、窓から見える“社場”で普通の服を着て歩いている人がつくづく羨ましく、健康のありがたさが身に滲みてわかる。入院したことのない健康な人でも、一度は入院してこの体験を味わうべきだ。
整形外科専門病院でも、患者はお年寄りが多く、今の日本の高齢化社会を目の当たりにする。それから、お世辞にも美味いといえない病院食。ところが、この毎日朝昼夕、決まった時間の病院食に、現代の食生活への警鐘が込められている、と思った。

<昔ながらの野菜って?>
病院での退屈な(この季節に山菜採りに行けない・キノコの植菌が出来ない・燻製作りが出来ない・刺身が食べられない、山アスパラが食べられない・インターネット出来ない・・・のナイナイずくしの)日々のなかで、私はとある雑誌を手にした。隔月刊の「自遊人」という雑誌だった。その5月号の連載記事「ささやかな幸せ計画・・第六弾---昔ながらの味がする野菜」という記事に目が止まり、なんとなく読んでいくうちに、私の中に眠っていた幼い頃の田舎の原風景と、今直面している病院生活とが、不思議な力で結びついたような気がした。

骨折だから内臓やら血圧やらが悪いわけではないけど、病院には違いない。この病院では、比較的動ける人たちが一つの階にまとめられ、食事はその階にある食堂に皆集まってする。そのとき目にするのが、名前の付いた札。その札には、「高血」とか「糖尿」とか「卵」とか「朝パン」とかその人それぞれの健康や嗜好が記号的に書き記されている。配膳の時、なんとなく他人のそれが目に入る。それは、いわゆるプライバシーの一種だと私は感じた。中には、それを見て「○○さんは高血圧なんかね」「この人はよく野菜を残す人だなあ」などと平気で言う、およそプライバシーという観念がない人もいる。
私は好き嫌いが殆ど全くない(らっきょ以外)ので、記号が記されてないけれど、栄養バランスやカロリーを充分に考えて献立・調理されているその食事が、我が家の毎日の食事とだいぶ違うなあ、と感じていたのだった。
今の私の家は、畑というものが一つもないので野菜はもっぱらスーパーで買う。時々ご近所からお裾分けをいただいたり、実家の母から食べきれないほどのいろんな野菜をもらったりするが、基本的にはスーパーで買うしか調達するすべがない。そのせいか、「もともと野菜不足だなあ、繊維質が足りないなあ・・」、と漠然と思ってはいた。

前述の「昔ながらの味がする野菜」という記事の内容はというと、
◆最近、味のしない野菜が多いと思いませんか?◆
 高度成長期以前は野菜といえば“有機”が当たり前でした。
 でも野菜をより早く多く安くキレイに育てるため、農薬や化学肥料に頼ってしまった結果・・・
 野菜はいつの間にか本来の味と栄養を失ってしまいました。
というものです。その筆分は、
 「昔ながらの農業を切り捨てる日本の野菜政策のゆがみ」---何故美味しい野菜は消えてしまったのでしょう---
 「“有機野菜”にこそ、真に健康な、本物の味がある」
---“有機”ってホントに身体にいいんですか?---
 「一番安心できるのは、生産者の顔が見える野菜だ」
---知ってますか?野菜の表示---
といった、現代の農政や生産者・消費者意識に対する痛烈な批判でした。

その中から私が特に印象に残った言葉をいくつかあげます。
●時代に翻弄された農家と消費者●---農業ジャーナリスト:大野和興
経済成長に伴って東京が巨大になる過程と、野菜産地が食べる場から遠ざかる過程は一致する。巨大な消費人口に滞りなく、安い賃金でも買える野菜を供給すること、それがここ40年ほどの日本の野菜政策だった。
山形県南部の人口3万4000人ほどの田園都市での野菜流通調査で、町場の消費世帯が買っている野菜のうち、地元産のものが占める割合は10%以下だった。
地球を半周するほどの遠くから時間をかけて運ばれて、美味しさが抜け養分もない、ただの“草”になってしまった野菜を、ほとんどの人が(ためらいもなく)食べている。
必須ミネラルなくして生命は維持できない---作家・栄養学ジャーナリスト丸元淑生
百種類以上あるミネラルのなかで、われわれが生きていくためにどうしても食事で摂らなければならないものを「必須ミネラル」といっている。
有機農業を栄養学の側から言うと、作物が大地から吸い上げた30近い必須ミネラルを全部大地に戻す農業である。農業の現場では“土づくり”と呼ばれている。
牛乳はカルシウム源のように言われるけれども、それは牛の食べている草が大地から吸い上げてきたものである。
「有機」表示にも“ニセ”が出回る落とし穴が・・・---國學院大學経済学部教授:久保田裕子
都市化が進んだ現代では“表示”がどうしても必要です。でも、本来なら“誰が作ったのか”また、“誰が食べるのか”お互いに顔が見える関係というのが一番望ましい。
天候に左右される自然の中で栽培される新鮮な野菜を食べるためには、消費者・生産者ともに、“旬”の時期以外の野菜を欲しがらないこと・作らないこと。この原則を守れば、十分に有機農業は成り立つはずです。

NEXT 
菜園TOPへ  コラムTOPへ