神様 神様。 僕の最後のお願いです。 どうか、僕を皆に逢わせて下さい。 神様 神様。 僕の願いを。 どうか―――。 カーペンタリアのザフト軍基地。 海辺にあるその基地内にある建物の一室で、一人の少年がうつろな瞳を赤い夕焼けに向けていた。 プラントでは決して見ることのない赤い赤い色。空と海に染み込むそれは、体内を流れる色と同じで、彼の碧の双眸が微かに揺れた。 部屋の扉が開く小さな機械音に続き、イザークとディアッカが広くはない空間へ足を踏み入れる。 ベッドの上で大きなクッションに背を預け、生命を生み出した静かな母なる海を見つめる少年の名を呼ぶ。 「・・・アスラン、食事だ。今度こそ食べてもらうぞ」 食事を載せたトレイをサイドテーブルに置きながら、イザークはいつもと同じ声音を漏らす。いつもと何ら変わることがないと本人が思っているかどうかは別として、それでもまったく違う響きがあることにディアッカは気付いている。 窓側のパイプ椅子へ腰を下ろしたディアッカは、白い頬のアスランを見上げた。 しっかりしろよな、と言えるほど残念なことにディアッカは大人ではない。どうしようもない痛みを彼らは抱えている。 自分たちも、名も知らない誰かに対して、同じことを繰り返してきた。 その事実から逃れようとは思わない。 綺麗事を言うつもりも、言い訳もしたくはない。 自分が信じたレールの上を、ひたすら走ってきた。 なのに―――。 心の奥深くにぽっかりと空いてしまった大きすぎる穴に、足を捕らえられている。 進むべき道を、躊躇いが蝕んでいる。 ディアッカは知らない。 この暗くて深い空洞を埋める術を知らない。 相変わらず立ちっぱなしのイザークは何も言わないまま、アスランを視界に入れていた。 彼が何を考え何を想っているのか、ディアッカには正確なところは判らない。ただ、アスランのことを人一倍気にかけている。アスランしか眼に入っていないのではないかと、疑いたくなるほどに。 苦しいのだろうなと思う。 泣きたいのだろうとも。 しかしイザークがアスランの前で、そういう顔をすることはない。この少年の前では、彼は道標であり続けているようだ。 手を差し伸べるとか、労わるとか。 慰めの言葉よりもアスランにとって、もっと強い何かでありたいのだろう。 「彼」はもういないのだ、なんて言ったところで無意味だ。 悲劇を背負う役者には、自分たちは似つかわしくない。 けれど。 今は、今だけは。 涙を流してもいいだろうか、と叫びたくなる。 感傷に浸るのは心の弱さだ、と誰かが言う。 それでも泣けるだけマシだとディアッカは思っている。 沈黙の微粒子が纏わりついて、どのくらいの時間が過ぎたのか。さして長くはなかったが、ふいにアスランのグリーンアイズが大きく見開かれた。何かに驚いているようだ。 「イザーク・・・アスランが・・・」 椅子から立ち上がり、ディアッカは困惑した表情でイザークを見る。イザークもアスランの様子に気付いたのか、彼の肩へ手を伸ばそうとした時。 イザークのそれがアスランに届くより早く。 「アスラン!」 感情に流されたイザークの声は、素足のままベッドを抜け出した少年を止めることは出来なかった。まるで見えない力に引っ張られるように、走り出したアスランを二人は追いかける。 彼を捕まえることはもちろん可能だが、何故かそれをしてはいけないような空気があった。 階段を下り長い廊下を三人は走る。 擦れ違う大人たちの不思議そうな視線を無視して走る。 寝間着姿のアスランを追うディアッカたちは、さぞや滑稽に見えただろうが、そんなことはどうでも良かった。 建物を飛び出し、滑走路を越えた先。 海と空の境界線。 赤い夕焼けの中に。 「彼」は―――いた。 柔らかな笑みを浮かべ、小さく首を傾げている。 『待っていました』 声ではない。頭の中に直接響いてくる優しい音だ。 「ニ・・・コル」 アスランが彼の名を紡ぐ。 ゆっくりとゆっくりと彼に近づいて、もう一度名前を呼んだ。 「ニコル・・・!」 『嫌だな、アスラン。そんなに泣いたら駄目ですよ』 困った人だなと苦笑するその姿は、見慣れすぎた光景すぎて。 アスランは崩れるように膝をついた。 「アスラン!」 慌ててイザークがアスランを抱えるように細い肩へ両手を回す。後ろから抱き込んで、波の上に立つ彼を瞳に映した。 少年は何も言わず小さく頷き、そして言った。 『僕はもう一度、みんなに逢いたかった。どうしても逢いたかった』 彼の形の良い唇が動く。 臙脂の制服に身を包んだ小柄な体は、背後の眩しすぎる光と同じで。 今にも溶けて消えてしまいそうだ。 これが本当の最後なのだと。 もう、逢えないのだと。 彼自身が教えている。 ディアッカは少年を見つめることしか出来ない自分が悔しかった。 眼の前に彼はいる。夢ではなく現実として、ちゃんといる。 腕を伸ばせば、その温もりを確かに伝えてくれるだろうに。 何か、何かを言わなければ。 名前でも何でもいい。 なのに声が出てこない。焦れば焦るほど、体が硬くなっていく。 『僕はみんなが大好きです。アスランもイザークもディアッカも。僕の大切な友達です』 眼を細め、伝えられて良かったと小さく結ぶ。あどけない笑みは、別れを告げる言葉のようで。 ディアッカの胸がキリリと痛んだ。 「そんなことは判っている。みんな知ってる。俺たちは仲間なんだ」 アスランの震えた想いを、彼はどう受け止めたのだろう。微かに眉根を寄せ、けれど笑みが消えることはなかった。 「ニコル、俺たちはみんな同じ気持ちなんだ。そんなことをわざわざ言いに来たのか?」 憎まれ口を叩くイザークは、彼らしい表現の仕方で少年に応えていた。 淋しさも哀しみも。 知らん振りなんて出来はしない。 強がりはいらないのだ。 『僕はちゃんとあなたたちの傍にいる。だから迷わないで下さい。プラントのためにも、僕たち自身のためにも』 少しずつ少しずつ、少年の姿が透明になっていく。 「ニコル!」 アスランの切ないほどの叫びに、ディアッカの心が悲鳴を上げた。 嫌だ嫌だ嫌だ―――。 こんなのは絶対に嫌だ。 「ニコル!!」 ありったけの想いを込めて、ディアッカは一人きりになってしまった少年に心を向けた。 「俺はお前を臆病者だって言ったけど、そんなことはない!お前の強さは俺たちが知ってる、俺もお前が大好きなんだぞ。ちゃんと覚えとけよ!」 ふんわりと嬉しそうに顔を綻ばす彼が、とても幼くて。 幼すぎて、ディアッカの瞳から涙が溢れた。 「逝くなよ、勝手に一人で逝くなよ。お前、ここにいるんだろ。俺たちの傍にいるんだろ。なら逝くんじゃねえよ!ニコル!」 ディアッカの迸った感情と同時に、少年は真っ赤な太陽の中へ溶けて―――消えた。 「バカヤロー!」 ディアッカは吼えた。少年を連れ去ってしまった光へ吼えた。 止まることを知らない涙をどうにかしたくて、ディアッカは空を仰ぐ。 失ってしまった鼓動は、どこへ行くのだろう。ちゃんと自分たちの傍にいるのだろうか。 「あのバカ・・・。俺たちのことよりテメーのことを考えろよ」 軍人として出逢って軍人として別れててしまったけれど。それだけではない想いは確かにある。 彼という一人の人間をディアッカは想う。 これ以上、誰も失いたくはない。こんなのは絶対に嫌だ。 今まで仕方ないと蓋をしていた表面上穏やかな波が、ディアッカの中で荒れ狂っている。 どうしてこんなに辛いのか、胸が焼けるように痛いのか。それは彼だからだ。 ディアッカにとって近すぎる彼だからだ。 これほどまでに恐怖を感じたことはない。死ぬ覚悟なんて滑稽だ。そんなもの軽々しく言う奴がおかしい。誰だって生きるために戦っているのだ。 小さく聴こえた大丈夫だよというアスランの声に、ディアッカは彼へと視線を移す。 イザークのアスランを支える腕を優しく振り解いて、彼は一人で立ち上がった。そうすることで迷いを振り切ろうとしているようにディアッカには見えた。 「・・・心配かけてすまなかった。俺は・・・ちゃんと戦える」 薄く笑う彼は感傷を引き摺ったまま、戦場へ戻ろうとしている。戦争に民間人も兵士も関係ない。みんなが犠牲者だ。 だからといって、終幕の見えないこの戦いに背を向けたくはない。少なくとも自分たちは当事者なのだから。 銃を持つ者の痛みは、銃を持つ者にしか判らない。 一人で抱え込むものじゃない。 共に持つ、共有するものだ。 ディアッカは知らず知らずのうちに、アスランを睨んでいた。飛び出しそうな牙を止めることは無理すぎて。 彼は大声を上げていた。 「バカかお前は。どこがどう大丈夫なんだよ。お前のそんな嘘っぱちな笑いなんて俺は大嫌いだ!」 「ディアッカ!」 イザークの諌めるような声音にもディアッカは動じなかった。 「お前、少しは周りを見ろよ。苦しいのも哀しいのも自分一人だと思ってんのか?そんなことないんだよ。俺もイザークも同じなんだ。なのにイザークはお前に必死で、俺はお前らに必死で・・・。ワケが判んねぇよ。俺、あいつがいないなんて、認めないからな。絶対に認めないからな」 涙で前が良く見えないなんて、ディアッカの記憶にはない。 吐き出した熱いうねりは無意味なのだろうか。温かな赤い血潮を流す少年に、ディアッカの痛みは伝わったのだろうか。 俯いたせいで、ぽたりぽたりと溢れた雫が冷たい大地を濡らす。寄せては還す波の音だけが、三人を包んでいた。 「ディアッカ・・・」 意外なほど近くでアスランの声が耳に届く。ディアッカは視線の先に彼の素足を見つけた。 「アス・・・ラン・・・」 名前を呼び終えるより早く、アスランの腕がディアッカの背中に回された。胸に顔を埋める少年をディアッカはただ見下ろす。 「ごめん、ディアッカ。俺は自分のことで精一杯で、お前たちの気持ちを置き去りにしてた。みんな同じなのにな」 ディアッカよりも一回り小柄なアスランの体。彼の温もりを直に感じて、ディアッカは少年を抱き締める。 しっかりと、その存在を確かめるように、抱き締める腕に力を込めた。 「・・・認めたくないことは認めなくていいんだ。それくらいあいつだって許してくれる。許してもらわないと・・・」 俺も困る、と。 イザークの本音ともとれる科白。 腕に抱く少年の肩越しに、ディアッカはイザークの当然だろう、と語る瞳と出逢った。 ―――あぁ、そうか。 みんな同じなのだ。 ディアッカは少しだけ気持ちに余裕が戻って来たように感じた。 「忘れもしないし認めもしない。それでいい。あいつは俺たちと共にいる。簡単な結論だ」 辿り着くまでに多少の時間は費やしたがな、とイザークはさり気なく嫌味も忘れない。そんな彼にディアッカは、顔をクシャクシャにして笑って見せた。 否定ではなくて。 共に在る。 ずっとずっとこれからも共に、すぐ傍に。 だからディアッカは笑った。 「・・・ディアッカ」 小さく身を捩りアスランが上目遣いにディアッカを見る。するりと腕を解き、彼の温もりがディアッカから一歩だけ離れた。 「戦えるよな、俺たち」 自分自身へ言い聞かせる意味もあるのか、アスランの発音は明瞭だ。そこにはベッドの上で何を映しているのか判らないグリーンアイズはない。 ほんの少し前までの自分たちとは違う微粒子が新しく生まれていた。お互いの限界がすぐ近くにあった空気が一掃されている。 胸の傷があったとしてもだ。 全ては「彼」の奇跡。 神ではなく「彼」の奇跡。 「・・・あぁ、戦うさ。プラントのためにも俺たちのためにもな」 ディアッカが大きく首を縦に振った、その時。 「うわぁ!」 突然の突風。海から齎されたそれは、三人の髪を弄び星の輝きが届き始めた空へと舞い上がる。 彼らは風の行き先へ視線を上げた。 潮の匂いに混じり。 確かに「彼」が通り抜けた。 「・・・あいつだ」 そう呟いたのはイザーク。口の端を上げて眼を細める。 「うん・・・。ニコルだ。ニコルの風だ」 嬉しそうに空を見上げアスランが言う。涙とサヨナラした綺麗な笑みが、そこにあった。 ぽっかりと出来てしまった胸の空洞に、じんわりと何かが流れ込む。 それは「彼」の笑った顔であり、怒った顔でもあり。 「彼」自身でもある。 この戦いにピリオドが打たれたら「彼」と共に祝うのだ。 「そうさ、俺たちがお前のこと忘れるもんかよ。忘れないくらい、これからも一緒じゃん」 失って初めて判るのではない。最初から判っていた。 甘ったれた意識ではなく、互いを必要とする強い繋がり。 言葉にしない分、誤解を招いたりもするけれど。 ちゃんと胸の奥に大切に持っている。 「あいつらしいよな。俺たちの傍にいるって証拠を突きつけるなんてさ」 「そうだな。ニコルらしいよ」 穏やかに微笑むアスランを満足そうに見るイザークに、ディアッカは再び立つ戦場へ想いを馳せる。 まだ、腹の底から笑うことは出来ないかもしれないが。 自分たちは共に進むべき道を歩んで行ける。 一人じゃない強さを噛み締めて。 涙がないのなら、それでいい。 今まで以上に過酷な現実が待っていたとしても。 絶対に負けたりはしない。 悔し涙は、もう流さない。 大丈夫、大丈夫、大丈夫。 ―――共に在る。 これからの未来もずっと一緒に。 そうだろう、ニコル。 見上げた空の先。 風が笑った。 |