ごめんなさい。わたくしは、まだあなたの胸で泣きたくないのです。 「あの・・・ちょっといいかな?」 躊躇いがちな声がラクスの後ろで上がる。振り返ると、金の髪の少女が、どこか気まずそうに立っていた。 「・・・カガリさんでしたわね。お話ですの?場所を移しましょうか」 「あぁ・・・すまない」 真新しい戦艦エターナルのブリッジ。ラクスは指定席である椅子から立ち上がると、カガリを促しブリッジを後にした。 エターナルの通路に、二人分の靴音が響く。艦内の一室、多目的ルームに入ると、ラクスは備え付けの椅子に座った。カガリは彼女とテーブルを挟んだ場所の壁に背を預ける。 ブリッジを出てから、二人の間に会話はない。静かな沈黙だけが流れていた。 ラクスはカガリに呼ばれた意味を、なんとなくではあるが、判っていた。女の勘、というものだろう。 ラクスは少女の言葉を待っていた。 「・・・泣かないんだな、アスランの前では」 小さな呟きに、ラクスはカガリを見上げる。彼女の金の髪が、その表情を隠していた。 「あんたにとって、アスランて何だ?婚約者とか、そういうの関係なしで。あんたはキラの前で泣いた。それをあいつは辛そうに見て、目を逸らした。私は何も言えなくて・・・。でも、 あいつが凄く泣きそうな顔してたんだ。こういうことを、私が言うのは出しゃばり過ぎだと判っているけど、でも・・・」 決して大きくはないが、感情の迸った声音。 テーブルを挟んで立つ少女が、何を言いたいのかが伝わって来て、ラクスは瞼を閉じた。 数時間前の出来事。 彼女が縋りついた少年と、それを見ていた少年。 泣くつもりはなかった。けれど、自然と涙が溢れた。 彼の前で、泣きたかったわけではないのだ。 ただ、あの人には、自分の涙を見せたくはなかった。 あの人の前では、泣きたくなかった。 ラクスの胸の内は、ラクスにしか判らないこと。 カガリの責めにも似た言葉には、黙って甘んじる。 彼女から見れば、歯がゆさがあったのだろう。だから、声を掛けてきた。 「・・・あんた、キラのこと、好きなんだな」 「どうして、そう思いますの?」 ぽつりと漏れた少年の名に、ラクスは尋ね返した。 「だって、好きなヤツだらか、涙を見せるんだろう」 カガリの両手が、きつく握り締められる。ラクスを責めているわけではないのだろうが、彼女の中で納得の出来ないことがあるようだ。 否定はしない。 が、それが正解ではない。 応える代わりに、ラクスは別の解答を言った。 「わたくしは、アスランの前で、泣きたくはないのです」 「えっ・・・?」 「アスランが嫌いだから泣かない、ではなくて、その逆です。わたくしは、彼の前では強い女でいたいのです。道標とでも言うのでしょうね。彼が 迷ったときには、いつでも助けられるよう、強くありたいのです」 強い女で、というのはラクスの正直な気持ちだ。エターナルに乗ると決めたときから、どんなことが起きても、それを受け止めるだけの力を持ちたいと。 ふいに零れた涙は、戻らない時間を一時でも忘れるため。 アスランではない少年の胸を借りたのは、彼に自分の辛さを押し付けたくはなかったから。 勝手すぎる哀しみの矛先だと、ラクスにも判っている。 独りよがりの行動だとも。 それでも、彼の胸に顔を埋められなかったのは。 ―――彼が、泣けなくなってしまうから。 そんなのは、単なる言い訳だと、誰かが言うかもしれない。 たとえそうだとしても、ラクスの気持ちは変わらない。 二人の少女の瞳が、ゆっくりと出逢う。 険しい色を湛えたカガリが、そこにいた。 「好きな奴なら、自分の全てを見せるものじゃないのか。こういう時代だから、誰だって強くありたいと思うさ。でも、それだけじゃないだろ!」 「えぇ、あなたのおっしゃる通りだと思います。自分の弱さも甘えたい気持ちもあります。だけど、わたくしは少なくとも今は、それを望んではいません。誰かの胸で泣く女を、馬鹿だとお思いになりますか?」 自分自身を曝け出すラクスに、けれどカガリは肯定することは出来ないようだ。 それでいい、とラクスは思う。 人と人との想いの形は、それぞれ違うもの。 理解して欲しい、とは思っていない。 ただ、純粋に直向に、相手を想う気持ちに偽りはないのだから。 「カガリさんは、アスランのことが好きなのですね」 「えっ・・・それは・・・」 ほんのりと頬を染め、視線を逸らす姿に、ラクスは微笑む。同じ女として、目の前の少女から感じるものは、ベクトルの向きを共にするもの。 (でも、ごめんなさい。わたくしは、我がままなのです) ゆずれないものがある。どうしてもこれだけは、と強く願うもの。 好き、という感情。 単なる好意ではなく、彼を意識する想い。 ラクスの求める位置は。 婚約者という肩書きではなく、一人の女として欲するもの。 それを言ってしまいたい衝動を、押さえ込むため、きつく唇を噛む。 二人の少女の微かな息遣い。ぷつりと切れてしまった会話の続きを、ラクスは探せないでいた。 何かを言ったところで、お互いすれ違いぎみの成り立たない法則を、披露するだけ。僅かに広がる緊張感は、ラクスの後ろめたさの現れかもしれない。 「・・・あいつの所に、行ってやれよ」 「えっ・・・?」 俯いたまま、カガリがぽつりと言う。 「なんかさ、顔色も良くなかったし、あいつも疲れたって言ってたから、この艦の医務室へ押し込んで来た」 「・・・医務室ですか?」 ラクスは自分の知らない事実に眉根を寄せる。しかしそれは、知らなくて当然のことなのだ。この無人となっているコロニー、メンデルに降り立ってから、ラクスは彼とまともに言葉を交わしていない。 あのまま彼の胸に飛び込んだら、何を叫んでしまうか判らなくて怖かった。 でも―――。 カガリは胸の前で腕を組み、無言でラクスを医務室へ促している。彼女なりの譲歩なのだろう。ラクスは目を細めた。 「・・・ありがとう」 椅子から立ち上がり、カガリへ頭を下げる。 彼と面と向かって話をするきっかけを、カガリは与えてくれた。 話さなければ、相手に伝わらないものがある。 彼を傷つけたいわけではないから。 今度こそ、彼の瞳を見ることに躊躇うことなく。 ラクスはかぶりを振ると、カガリへ背を向けた。 目的の扉の前で、一つ深呼吸をする。自動で横に滑るそれを目で追ってから、ラクスは医務室の中へ入った。 「失礼します」 医務長の姿はなく、微かに薬品の匂いが漂っているだけだ。 右側に簡易ベッドが三つ並んでいる。それぞれが白いカーテンで仕切られるようになっているが、一番奥のベッドは完全に閉ざされていた。 彼、だろうか。 ラクスはベッドに静かに近づいて、カーテンをそっと開けた。 白いシーツに紺色の髪が、さらりと広がっている。ベッドに座ったまま上体を倒したのだろう。 靴は脱いでいるが、中途半端に宙に浮く足。左肩を下にして、シーツに顔を埋める姿は、随分と幼い。 ラクスは彼の柔らかな髪を、優しく梳いた。 「・・・ごめんなさいね、アスラン」 右腕のギブスが痛々しい。ラクスは労わるように、彼の右手を自分の両手で包む。 「・・・う・・・ん・・・」 アスランが身じろぎをする。起こしてしまっただろうかと、ラクスは少しだけアスランから離れた。 彼の閉ざされていた瞼が、重たそうに開かれる。数回瞬きを繰り返してから、とろんとした瞳が、ラクスのそれとぶつかった。 「・・・ラ・・クス」 「ごめんなさい、起こしてしまいましたね」 腕の力でゆっくりと起き上がるアスランを支えるように、ラクスの手が彼の肩へ添えられる。 「あ・・・俺・・・」 「お疲れなのでしょう。アスランがここにいることを、カガリさんが教えてくれましたの」 アスランの右隣に腰を下ろす。お互いの服が、触れるか触れないかの微妙な位置。 「もう少し、お休みになりますか?」 「・・・いえ・・・大丈夫です」 小さく首を横に振り、アスランは笑みを浮かべる。ラクスを安心させるための笑みは、今の彼女にとって胸がチクリと痛むものへと変わる。 話したいことは沢山あるのに、音を伴って現れないもどかしさ。 ―――ラクスとアスラン。 周りの大人が勝手に決めた婚約者。 しかしラクスは、そんな形に拘りたくはなかった。初めて逢った日から今日まで、お互いを知ることから始めた物語は、とても楽しいもので。 人付き合いが決して器用ではない彼が、その分の想いとして贈ってくれた球体のロボット。 一体目のロボットを手にしたときは、その愛らしさに笑った。二体目を手にしたときは「また作ってみました」と言った、彼の照れた顔に笑った。 そして。 三体目、四体目と続く丸いロボットは、彼のぎこちなくても確かにラクスへ向けられた特別な感情なのだと知った。 日々は、そうやって穏やかに、未来へ進むものだと信じていた。 なのに―――。 狂った歯車は、アスランを大きな波の中へ呑み込んで行く。 彼と、彼の父親と。 プラントで、どんなやり取りがあったのか、アスランの口から直接聞いた訳ではないが。 疲労の色の濃い表情は、彼が背負ってしまった現実の重さそのものだ。 もっとちゃんと、彼の傍にいればよかった。後悔したところで、遅いだろうか。 ラクスはギブスで固定されたアスランの右手に、優しく手を置いた。 「先日とは逆の腕を怪我してしまいましたね。痛みます?」 「いえ・・・。それほど痛くはありません」 哀しげにアスランは薄く笑う。 「なんだか、頭の中がごちゃごちゃです。父上は、銃を撃つほど俺が憎かったのでしょうか」 不安定な心を吐露するアスランに、そんなことはないと言ったところで気休めだ。ラクスはアスランがキッと顔を上げられるよう、歩むべき道を示す。 「戦いを終わらせたいと願う人は、沢山います。ただ、どういう形で終わらせたいのか、そこを問題視することは大切です。誰かが誰かを認めない世界は、 哀しい未来になってしまいます。アスランはどうしたいですか?」 「・・・俺は、父上に銃を向けたくない・・・!でも父上の考えが正しいとは思えない。一方を排除する戦争なんて・・・。それじゃあ、母が・・・母さんが死んだ意味がなくなってしまいそうで・・・」 アスランの声が震えている。ラクスは彼の髪に手を絡めると、自分の胸にその体を引き寄せた。 「大丈夫です。アスランのお母様や、今まで奪われてしまった尊い命の上に築く世界は、わたくしたちが創るものです。一方の意見だけが、尊重されるものではありません。アスランはここに いるでしょう。わたくしたちと共にいる。わたくしを信じて下さい。皆が銃を捨てる日が来ますわ」 アスランへ語る少女は、一人のカリスマ性を秘めた指導者であり、ラクス・クラインという恋をする女でもある。 アスランの腕が、彼女の背に回された。 「俺は、あなたの何を見ていたんだろう。何も判ってなかったですね」 「ふふ・・・。そんなことはありませんわ。女は時と場所によって、顔が変わるのです」 「・・・お父さんのこと。俺に話してくれなかったのは、やっぱり・・・」 口を噤んでしまったアスランに、ラクスはしっかりとした口調で言う。 「違いますよ。わたくしはアスランのお父様を、憎いと思っていません。父のことを含めて、わたくしは戦場の真ん中にいるのです。これはわたくしの役目ですから」 小さな子供を諭すように、アスランへ言葉を渡す。 「・・・俺は、ラクスに甘えているのかな?」 「今までは甘えるも何もありませんでしたわ。これくらいが、ちょうどいいと思いません?」 「・・・俺・・・ラクスの傍にいてもいいかな?」 「そんな、当たり前のことを、お聞きにならないで下さい。可笑しいですわ」 「そっかぁ・・・。俺・・・ラクスを好きになって・・・よ・・・かった・・」 アスランの腕が、ストンとシーツへ落ちる。眠りの世界へ戻ってしまった少年に、ラクスは笑みを深めた。 「わたくしの方こそ、あなたを好きになって良かった。この戦争が終わったら、あなたの胸で泣かせて下さいね。そして、わたくしたちの未来の話をしましょう」 ゆずれないものがある。どうしてもゆずれないものが。 ラクスにとって、それが彼女に体を預けて眠る少年であり。 憎しみの連鎖を繰り返す、望まない戦争へピリオドを打つための、本当の強さでもある。 ―――大丈夫。 愚か過ぎる血の流し合いも、そう遠くはない未来に終わりを告げる。 連合もプラントも。 人の生きる世界を奪う権利は、なのだから。 ―――大丈夫。 哀しい涙より、嬉しい涙を。 あなたと共に。 願いは、きっと。 形になる。 |