平和の国の高い空に。
緑の鳥が。
―――舞った。





夜の闇を照らす街の灯りの中を、アスランは走っていた。
イザークたちの目を盗み、彼らが身を潜めている場所から抜け出したのが一時間ほど前。
アスランは人気の無い夜の街を、必死に走っていた。
もし。
もしも―――。
彼が幼い日のことを覚えているのなら。
思い出ではなくて、今もそれが有効ならば。
―――待ち合わせは夜中の十二時。
いつも決まってその時間。
もしも。
忘れていないのなら。
それだけを確かめたくて、アスランは走り続けている。
平和の国で「トリィ」が巡り合わせてくれた彼。
三年前のあの日のように。
「トリィ」はアスランの手から彼の手へ。
本当は泣きたかったけれど。
泣いたら、もう戦えないような気がした。
彼と交えなければならない戦争の先に。
幸せは見つかるのだろうか。
平和は―――訪れるのだろうか。
答えは誰も教えてくれない。
だから自分で。
見つけるのだ。





「はぁ・・・はぁ・・・」
荒い息を繰り返し呼吸を整える。
「・・・来ちゃった・・・」
オーブの軍用施設。広い敷地は鉄のフェンスで囲まれている。
昼間、彼と出逢った場所。フェンス越しにのそこに。
彼の姿はない。

「昔、大事な友達に貰った、大事なものなんだ」

彼の声が脳裏を過ぎる。
「バカだよなぁ。ここへ来て何したかったんだろう。もしも、なんてあるはずないのに」
黒く浮かび上がる建物を前にして、アスランは大きく息を吐く。
三年前の自分たちとは違うのだ。甘い希望なんて捨てた方がいい。
「この中に居るって分かってるのに・・・。こんなに近くに居るのに・・・」
アスランは両手を強く握り締める。
月に居た時は、いつも一緒だった。兄弟のように育って、お互いが本当に近くて、相手が何を考えているのかなんてすぐに解った。
だから彼や自分が何かを抱え込んだ時。
決まって夜の散歩に出るのだ。待ち合わせは夜中の十二時。
アスランと彼の家の、ちょうど中間にある公園のブランコ。
何時、とは言わない。
自然と足が公園へ向く。友達と喧嘩したとか、先生に怒られたとか。
ふいにそこへ行きたくなった、とか。
理由はさまざまだけれど。
誰も居ないはずの夜の公園には。
何時だって、彼が居た。
「そろそろ来る頃かなって思ったんだ」と笑いかけてくれた。
なのに―――。
「逢いたいって思ったのは、俺だけなのかな・・・」
淋しくて哀しくて。
アスランの瞳から、透明な雫がポタリと落ちたその時。

「ブランコが無いのは、残念だよね」

「えっ・・・?」
聴きたかった声がアスランの耳に届く。驚いたアスランの視線の先。
ぼんやりとした灯りの中で。
彼は笑っていた。
「・・・キラ・・・?」
信じられない思いでその名を呟くアスランに、キラは一歩一歩近づきながら優しく囁く。
「十二時まであと十分。でもいつも約束の時間より早く公園に着いてたよね。行こう、アスラン。夜の散歩に」
差し出された手に、アスランは自分のそれを重ねる。
幼い日に繰り返した待ち合わせ。もしも、に時間切れは最初から存在しなかった。
二人だけの秘密の時間が。
始まろうとしていた。





繋いだ手から感じるアスランの温もりに、キラの鼓動は加速する一方だ。
突然、キラの元から飛び出したトリィを追い掛けて外へ出た。
トリィは。
機械の鳥型ロボットだけれど。
自らを作り出した主人を、忘れてはいなかったのだろう。
フェンス越しに彼の姿を見つけた時。
息をするのも苦しいほど、胸が痛かった。
自分たちを追ってオーブへ侵入したのだと解る。
お互いが敵なのだと。
手を伸ばすことなく彼を掴まえることが出来るのに。自分たちの前に立ち塞がるフェンスが邪魔をする。
だからキラは叫んでいた。

「昔、大事な友達から貰った、大事なものなんだ」

きっとそれが合図。彼をここに来させるための言葉。
そして。
幼い日と同じように、彼は来た。
夜中の十二時。シンデレラの魔法は消えてしまったが、そこから始まる魔法もある。
街が寝静まる時間帯。二人だけが知っている、二人だけに訪れる魔法の世界。
沢山のことを話した。
夜中にこっそりと家を抜け出して話をするほど、重要なことばかりではないにしてもだ。昨日から今日へと新しい一日を始める時には、嫌なことなど引き摺りたくはない。
たとえ、何らかの答えが見つからなかったとしても。共に悩み考えてくれる、大好きな人と一緒にいる時間は、どうしようもないくらいに嬉しくて。
友達以上の甘い感情を意識し始めたのは、何時だったろうか。
だから余計に。
今の現状が、辛い。
「・・・キラ、何処行くの?」
不思議そうに訊いてくるアスランに、キラははんなりと笑った。
「近くにね、小さいけど砂浜を見つけたんだ」
「砂浜?」
「そうだよ。ほら、あそこの階段から下りよう」
二人は道を横切ると、砂浜へ続く階段を下りた。
「暗いから気をつけて」
「・・・うん」
アスランはキラに導かれ、柔らかな砂の上に足を踏み入れた。
ザーン、ザーン。
耳に優しく響く海の音色。太陽の光に輝く海は、どこまでも蒼く綺麗だと思わせるが、夜は別の顔だ。同じ穏やかさでも、切なさを含んでいるようで。
アスランは暫しの間、波音だけを聴いていた。
「・・・座ろうか」
「うん・・・」
繋いだままだった手をするりと解き、二人は砂の上に腰を下ろす。頭上には、数え切れないほどの星の瞬き。
あの中に、プラントの光もあるのだろうか、と考えながら、キラはすぐ横のアスランの顔を覘き込んだ。
膝を抱え体を丸めて、まっすぐに暗い海を見つめている。彼の胸の内は今のキラには解らない。
あれほど近かったお互いの存在は、やはり遠い。
それを哀しいと思ったところで、どうしようもないこと。今が事実、それだけだ。
だから、せめて。
昔のように、二人だけの魔法を君にあげよう。キラは明るい声で言った。
「本当にアスランが来てくれるなんて、思ってなかったよ」
「・・・俺も、自信がなかった」
首を傾げクスッと笑うアスランだが、その表情はどこか淋しげだ。それをアスランも解っているのか、困ったように少しだけ眼を伏せる。
「アスラン・・・」
「ごめん。せっかく逢えたのに。でもさ、よく出て来られたね」
「そんなの簡単だよ。素直に散歩に行って来ますって言ったんだから」
「本当?」
「ホントホント。アスランこそ大丈夫?」
「俺はこっそりとだから、見つからなければ大丈夫だと思う」
「でも見つかったら、怒られるよね?」
「きっと・・・。規律を乱すなって怒鳴られる」
「えぇー!怒鳴るワケ?アスラン、大丈夫?」
「えっと・・・えっと・・・見つからなければいいんだし、でも見つかった時のために言い訳考えてた方がいいかな?」
やけに真剣なアスランの双眸が、キラに向けられる。二人の視線が交差する。ほんの少しの沈黙。
先に頬を緩めたのはどちらか。
「あははは!アスラン、言い訳って何を言うんだよ」
「そ・・・そんなの解んないよ。キラだって考えてよ!」
小さな浜辺に、二人の笑い声が木魂する。彼らだけの秘密の世界を妨げる者は、誰も居ない。
確かにアスランの場合、見つかれば怒られるで済むはずはなく。しかし、言い訳を用意してここへ来たのではない。自分の意志だ。
勝手な行動だと解っていても、動き出した体は止められない。
見つかったら見つかっただ。怒られようが非難されようが、甘んじる。それだけの意味がアスランにはあるのだ。
「・・・やっと笑ったね、アスラン」
「えっ・・・?」
「だって、泣きそうな顔してた。っていうか、逢った時は泣いてたね」
驚いたようにキラを見るアスランに、彼は優しい眼差しを送る。自分たちは小さな子供ではない。
過去と同じ夜の散歩でも、意味合いが違ってくる。
あの時は、お互いの言葉で充分心が満たされた。
だけど―――。
キラの手がアスランへ伸びる。彼の細い肩を、そっと抱いた。
「キラ・・・」
肩口に額を押し付けるアスランの髪をゆっくり撫でながらキラは言う。
「なんでこんなことになっているのか、何時だって考えて、でも答えは見つからない」
「・・・俺もそうだよ。答えはあると思う?」
「ある・・・だろうけど、一人一人違うのかもしれない。僕の護りたいもの、アスランの護りたいもの。僕は地球軍に居るけど、地球軍の考えが僕の答えじゃない」
「うん・・・解ってる」
腕に抱くアスランの華奢な体を感じて、キラは何もかも忘れてこのまま二人で逃げ出したい衝動に駆られた。
「ねぇ、アスラン。このまま一緒に逃げようって言ったら、逃げてくれる?」
「・・・・・」
「・・・アスラン?」
アスランからの応えはない。そのかわりに、彼は小さく首を横に振った。
「そっか・・・。そうだよね」
「ごめん、ごめんね・・・」
「なんでアスランが謝るんだよ。アスランは悪くない」
「キラだって・・・!」
勢い良く顔を上げたアスランの瞳が揺れている。胸にしがみつく彼の両手。
お互いの立場が違うとか、護るべきものが違うとか。
いろいろと異なるものはあるのだろうが、それは結局のところ付随の部分で。
本当に求めているものは、たった一人。
声に出したら、流されてしまう。逃げ出したくなってしまう。
でも、それを選ぶほど、子供でもなくて。
だから、哀しいのだ。
「いつか、俺はお前の横に立てるかな?」
「疑問形は良くないね。立つんだ、一緒に」
「そうだね、一緒がいいよね」
額と額をくっつけて、小さく笑う。好きだよ、と言わないのは、もう知っているから。
敵と味方であっても。
気持ちには素直でありたい。
コツンと合わせた額を離し、キラは形の良い唇へ吸い込まれるように、己のそれを近づけた。
瞼を閉じるアスランに、掠めるだけの行為。
それでも想いは、伝わっている。
二人はぴたりと寄り添い、砂浜に一つの影を落としていた。





『トリィ トリィ』
ちょんとキラの肩に止まるトリィに眼を細め、彼は昨日アスランと出逢ったフェンスに体を預けた。
「お前のおかげだよ、トリィ」
首を傾げる可愛い仕草は、この鳥を作った少年を思い出させる。
夜明け前にキラの元から再び離れてしまった彼。
次に逢う時は。
命を掛けた戦場になる。
たとえ戻る場所が違っていても、いつかはきっと。
望み願う平和を、この手に掴む日まで。
キラはストライクのパイロットなのだ。