僕はその日が近づくと、どうしても思い出すことがある。 今から五年前の出来事。 過ぎ去った十一歳の胸に、刻んだ痛みを。 ―――今年もまた、思い出している。 「・・・それでね、明日の夕方にはこっちに着くんだって。母さんも早く帰って来られるみたいだから、明日は学校が終わったらそのまま家に帰るよ」 碧の瞳を細めて声を上げるアスランに、僕は格闘していた問題集から顔を上げた。 「・・・小父さん、プラントから来るの?」 「うん、休みが取れたって昨日連絡があったんだ」 お父さんに逢えるのが嬉しいのだろう、アスランの笑みがいつも以上にキラキラしている。可愛いというよりは、とても綺麗なそれに、僕の心臓がドキンと跳ねた。 同じ男同士でも、アスランは僕にとって他の友人たちとは、はっきりと何かが違う。 特にこんな笑みを向けられた時に、その何かを実感する。残念なことに、今の僕にはアスランが特別なんだということしか、判らないのだけれど。 「でもさ、ホント、良く休みが取れたよねって、母さんと話してたんだ。いつも会議が入ったとか、こっちに来る時間が取れないとかでさ。父さんの言うことって、アテにならないんだもん」 テーブルに頬杖をつくアスランは、少しだけ不満げだ。そんなアスランに、僕は意地の悪い笑みを向けた。 「アスランてさ、意外と淋しがり屋さんだもんね」 「なっ・・・なんだよ、それ!」 「あはは、ムキにならなくてもいいじゃん。僕はちゃーんと知ってるもんね」 「五月蝿いなぁ。ほら、さっさと宿題、終わらせちゃおうよ」 そう言って、止まっていた手を再び動かすアスランを、僕は見つめた。 ―――父さんが来るかもしれないんだ。 ほんのりと上気した頬でアスランが僕に告げたのは一週間前のこと。 アスランの誕生日に合わせて休みを取るらしいと。 いつもはプラントにいる彼のお父さんが、月に来ることはほとんどない。 親子とは言っても、一年のうちで逢えるのは片手で足りるほど。 仕事の関係で、仕方なしに離れている家族。アスランのお母さんも農業研究者として、忙しい毎日だ。 だからアスランは、お父さんとお母さんと共に過ごせる時間を、求めているように思う。 決してそんなことは、顔に出さないとしても。 アスランの誕生日は明後日だ。 去年、一昨年と僕がアスランの家にお呼ばれされて、小母さんの作った料理を食べながら一晩を過ごしていた。 でも今年は。 ちょっとだけ淋しい気持ちになるけれど、それは僕の我侭な部分。 僕は目の前の大好きな親友に、小さく呟く。 「・・・良かったね。今年の誕生日は小父さんも一緒で」 「キラ・・・」 上目遣いに僕を見る彼は、この二年間のお決まり事と化していたイベントに、気付いたようだ。 困ったように瞳を揺らして、声を漏らす。 「ごめん。今年はキラと一緒じゃないよね。ごめんね」 「なーに謝ってんのさ。その代わり、週末は僕の家に泊まりに来てくれる?僕がアスランを独り占めして、少し遅い誕生日をお祝いするから」 「・・・独り占めってさぁ。変な言い方」 「変じゃないよぉ!僕はアスランと一緒に居たいんだから!」 力いっぱい言い切る僕に、アスランの頬がボッと赤くなる。 慌てて僕から視線を逸らす姿が可笑しい。 学校の友達は、大人っぽくて落ち着いているのがアスランだ、というイメージを持っている。 確かにそれも彼。 だけど、本当はもっと違う面がある。 彼の人見知りの激しさは、僕の良く知るところ。 腹の底から信頼し合っていないと、自分自身を曝け出すことはしない。 例えば、僕のように。 嬉しいことに、今の学校でアスラン・ザラの信頼を一身に受けているのは、この僕だけ。 否、アスランには残念なことかもしれない。 僕以外にも、もっともっと親友と呼べる関係を築くことが、未だに人付き合いの苦手さを自覚する彼には大切なこと。 けれど。 四歳の時から兄弟のように育った。 当然のように僕の傍に、アスランがいる。 形の良い唇が、僕の名前を呼ぶ。 碧の澄んだ瞳が、柔らかい光を僕に向けてくれる。 僕だけに、自分の全てを曝け出してくれている。 優越感が芽生え始めたのは、何時からだろう。 その優越感が、彼は特別なのだと意識させられるもので。 友人たちは口をそろえて、僕がアスランにべったりだと言う。 何処へ行くのも、何をするのも一緒。 僕のアスランへの依存度の高さを、彼らは笑う。 ―――依存度か。 でも、それは少し違う。 アスランは、僕を拒むことをしない。 お兄さんぶって、しょうがないなぁと肩を窄めるだけ。どこか安心したように息を吐き、一緒にやろうかと笑う。 依存度が高いのは。 実はアスランなのだ。 僕が彼ではない誰かと親しく話をする時。彼ではない誰かと、何かを約束した時。 彼は一瞬、泣き出しそうに眉根を寄せる。 酷く傷ついたような、切なさを含めた色で僕を見る。 そのことに、彼は気付いていない。無意識の彼の変化。 もちろん、アスランにも友達はいる。 ただ、僕のように一緒にいるのが当たり前という友達がいない。 小さいようで大きな差が、ここにある。 僕は何も言わないアスランに代わって、体全部で彼を求める。 そうすることで、クラス中に僕のアスランべったりさを印象付けている。 だから、本当は。 アスランに僕以外の大切な親友が現れるのが怖い。 特別な意識と特別な独占欲は、大きくなるばかりだ。 「・・・ねぇ、アスラン。小母さん、今日も帰りが遅いの?」 アスランの白く細い手が、問題集の上を滑らかに移動するのをぼんやりと視界に入れながら、僕は尋ねた。 「ううん、今日は早いよ。六時には戻るって言ってた」 「ウソ?もうすぐ六時じゃん」 「そうだよね。だから、そろそろ帰らなくちゃって思ってたところ」 あっさりというアスランの腕に、僕は大げさに縋りついた。 「え〜!!ちょっと待ってよぉ。僕を見捨てるワケ?」 「見捨てるって、何を?」 「宿題に決まってるじゃないか!」 叫ぶ僕にアスランはきょとんとする。暫くしてから、首を傾げにっこりと笑った。 「ふふっ。頑張ってね、キラ」 「・・・そんな応援はいらないってば」 テーブルに突っ伏し、それでも僕はアスランの腕を離しはしない。 (もう少し、一緒に居てよ) そう思っていても口に出したりはしないけれど。 アスランには、僕が何を考えているのかが判ったようだ。 小さく息を吐いてから、いつものように、しょうがないなぁと呟いて。 「じゃあ、あと三十分ね。その間にキラが苦手なところ、片付けようか」 僕の耳に届く、君の優しい囁き。僕の甘えを受け入れているようで、君は僕を求めているんだ。 もし僕が、君の腕を掴まなかったらどうしてた? 六時なら帰らないとだね、と返事をしたらどうする? 僕はこう見えて、計画的な行動派なんだ、なんて言ったら君はどんな顔をするのだろう。 それとも僕を嫌うかな。 決して言わない、僕だけの秘密だけどね。 「へへっ。アスランってやっぱ優しいんだ」 「優しいと思うなら、僕のために頑張ってください、キラくん」 「は〜い」 アスランの先生口調に逆らわず、僕が素直に問題集へと取り掛かろうとした時。 バタンと勢い良く部屋のドアが開いた。 「アスランくん、大変よ。お母さんが怪我をして、病院に運ばれたそうなの」 母さんの焦りを含んだ痛みが、僕の部屋に木魂した。 僕たちは母さんの運転する車で、アスランのお母さんがいる市民病院へと急いだ。 アスランは、蒼白な頬で僕の手をきつく握り締める。 まるで、不安の波に押し潰されないように、きつくきつく。 僕はアスランの肩に腕を回す。そっと抱き寄せると、彼の震えが伝わって来た。 小母さんの怪我の状態が判らない。 判らないから、余計に不安なのだろう。怖いのだろう。 今の僕には、アスランの恐怖心を消せるだけの力はない。 大丈夫だよ、と繰り返すことしか出来ないもどかしさ。 こんなに近くにいるのに、何も出来ないなんて。 ―――胸ガ、痛いヨ。 病院に着くまでの時間が、やけに長く感じられた。 市民病院に着いた僕たちを待っていたのは。 とても不思議な光景だった。 受付ロビーの長椅子に。 数人の大人に囲まれて。 アスランの小母さんが、座っていた。 怪我は?と疑いたくなるほど、元気だ。 僕たちはあっけに取られた。 隣に立つアスランは、放心しているのか、声も出ない。 最初に動いたのは、母さんだ。 「レノア、怪我はどうしたの?」 「あら、あなたこそ、どうしたのよ?」 レノア小母さんの、あっけらかんとした表情に、母さんが呆れるというよりは怒り出す。 「どうしたのじゃないわよ。あなたが怪我をしたっていう連絡が入ったから、急いでここへ来たの。怪我っていうだけで、状態が判らなくて凄く心配したわ」 「あら、嫌ねぇ。軽い捻挫なのよ。私が治療を受けている時に連絡を頼んだけど、大切な部分が抜けたのね。ごめんなさい。心配を掛けてしまったわね」 「捻挫ね・・・。もう、謝るのは私じゃなくてアスランくんにだわ」 母さんとレノア小母さんの視線が、アスランを捉える。 アスランは。 僕の隣で。 動き出すこともせず。 ただ、立っていた。 「アスラン・・・」 小母さんのアスランを呼ぶ声。 長椅子から立ち上がり、アスランに近づいて来る。少しだけ左足を庇いながら。 ゆっくりと、近づいてくる。 「ごめんなさいね、アスラン。心配を掛けてしまったわね。ごめんね」 アスランの前に立ち、その白い頬を労わるように撫でる。 小母さんの温もりを感じて安心したのか、アスランの瞳から一瞬にして大粒の涙が零れた。 「・・・母さん・・・母さん・・・!」 うわーっと大声で泣き叫ぶアスランを、小母さんが抱き締める。 母親にしがみ付く白い手。 僕は、アスランの涙を全く知らないわけではないけれど。 こんな風に泣く彼を、知らない。 極度の緊張感を、手放した君の涙。 小さな小さな子供のように、声を上げて泣く姿に、僕の眼の奥までもが熱くなる。 君の涙が、胸に痛いよ。 君の叫びが、胸に重いよ。 だから、もう泣かないで。 小母さんの怪我が、たいしたことなくて、良かったじゃないか。 君は、あまり泣かないから。 こういう風に泣く君を知らないから。 僕が―――辛いよ。 嬉し涙とは違うから。 辛いよ。 レノア小母さんと一緒に居た人たちは、小母さんの仕事仲間だった。 研究所へ戻る彼らと病院のロビーで別れてから、母さんが小母さんに怪我のことを訊いた。 「それにしても、どうして捻挫なんてしたの?」 「あぁ、これね。ジャガイモと茄子の入ったダンボールを抱えて階段を降りていたらね・・・。踏み外したのよねぇ、階段・・・」 「・・・・・」 ケタケタと笑う小母さんに、母さんはポカンとしている。暫くして、あなたらしいわね、と溜息を吐いたけど、僕にはどこが小母さんらしいのか判らなかった。 アスランは、というと。 泣いて赤く腫らした眼で僕を見た。 なんだか、複雑な気持ちのようだ。 でも。 良かったね。本当に良かった。 小母さんの怪我が、酷いものじゃなくて。 僕が小さく笑うと、アスランも頬を緩める。 僕はね、アスラン。 君の涙に弱いよ。 君が、どんな風に泣くのか知らないから、弱いよ。 だからね。 君が哀しむことのないように、僕は強くなる。 君が僕を求めていると、気付くように。 君が僕の特別な存在なのだと、気付かせるように。 強く、強く。 ―――強くなるよ。 エターナルの格納庫で、僕がフリーダムのコックピットから身を乗り出すと、整備士の一人から声を掛けられた。 「あぁ、キラくん。フリーダムの調整は終わった?」 「あ・・・はい」 「そう・・・。じゃあ、悪いんだけど」 整備士が僕を手招きする。僕は半重力空間に、体を躍らせた。 「アスランくんをさ・・・起こしてくれるかな?」 「・・・アスランですか?」 「そうそう。なぁんか、気持ち良さそうに、ジャスティスのコックピットで眠っててね」 整備士が口の端を上げる。頼んだよ、と言い残して彼は格納庫の床へと、すとんと降りた。 アスランがジャスティスのコックピットで? 彼らしくないと言えばらしくない。僕は半信半疑の気持ちで、ジャスティスのハッチへ体を向けた。 静かにそこへ足を着く。 僕は身を屈めて、コックピットを覗き込んだ。 アスランは。 コックピットのシートに深く体を預けて、眠っていた。 珍しい、と僕は思う。 彼の膝の上にはキーボード。 僕と同じで、機体の微調整を行っていたようだ。作業の途中で眠ってしまうなんて、彼らしくない。 それだけ、疲労が溜まっているのだろうかと心配になる。 僕はキーボードを、あるべき場所へ戻すと、アスランの肩を小さく揺すった。 「アスラン、起きて。こんな所で寝たら駄目だよ」 「・・・う・・・ん・・・」 アスランの閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開く。とろんとした碧の瞳に、僕が映った。 「・・・キラ・・・」 微かに甘い声音が心地良い。僕は狭いコックピットから、彼の体を無理矢理に近い形で、引っ張り出した。 「な・・・なに?・・・キラ?」 まだ完全に覚醒しきれていないアスランは、実に扱いやすい。所謂お姫様だっこ状態でも、暴れたりしないで、僕の腕に大人しく納まっている。 「寝るなら、ちゃんとベッドでね」 僕は格納庫から飛び出した。 「・・・キラ?」 腕の中で身じろぐアスランに、片目を瞑って見せて、とりあえず僕の部屋へと移動する。 白いシーツの上へと彼の体を横たえると、小さく欠伸を返してきた。 「眠い?」 「・・・ごめん。何時寝ちゃったんだろう・・・」 「気にすることないよ。きっと、疲れてるんだ」 ベッドサイドへ腰を下ろす僕は、眠さのためか少し潤いを帯びたアスランの双眸と出逢う。 彼は、はんなりと笑った。 「・・・夢を見たんだ」 「ゆめ?」 「うん。俺―――僕の誕生日の夢。母さんが怪我した時の・・・」 月の思い出が、アスランの口から紡ぎ出される。僕は、息を呑んだ。 「アスラン・・・。それって・・・」 「覚えてる?母さんが捻挫した、ジャガイモと茄子事件」 僕はじんわりと、胸が熱くなるのを感じた。 覚えてる、覚えているよ。 だって、それは―――。 「不思議だね。僕はフリーダムの調整をしながら、アスランが夢に見たことを、思い出していたんだ」 「キラも・・・?」 「そうだよ。まるで、僕たちの心が、シンクロしたみたいだね」 僕と、アスラン。 三年の空白と戦争。 そして、今。 離れていた時間を埋めるかのように、僕と彼の心が、ぴったりと正しくくっついた気がした。 「そっかぁ。キラも覚えていたんだ。なんか、嬉しいな」 「忘れるわけないよ。アスランのことなら、何でも知ってるし覚えてる。小母さんの怪我は、ちょっとした事件だったよね」 「うん。ジャガイモと茄子事件。でも・・・その母さんは、もう居ない・・・」 アスランの語尾が、哀しげに消える。 僕はまた、あの時のアスランの涙が蘇ってきた。 もう、泣かせたくない。 そう誓った、幼い日の想いは。 今も僕の胸に、ちゃんとある。 「ねぇ、アスラン。今年の君の誕生日は、一緒に居たいね」 「誕生日?僕の?」 「そう、誕生日。小母さんの分も、僕がアスランの生まれた日を祝うんだ。ケーキは何がいい?やっぱ苺のショートケーキだよね」 「そんなの・・・。戦争が終わらなかったら、意味無いよ」 諦めの言葉を口にするアスランの細い体を挟むように、僕は両手をベッドへと着き、互いの息が掛かる位置へと顔を近づける。 「キラ・・・?」 「戦争は終わるよ。諦めたら駄目だ」 「・・・でも、母さんが居ない・・・」 「うん、居ないよね。奪い奪われた、たくさんの命の一つ。とても大切な一つだよ。だからね、僕が小母さんの分以上に、アスランの傍に居る。絶対に離れないから。これから先の誕生日は、僕と一緒に居るって約束だよ」 「キラ・・・僕は・・・」 きつく眉根を寄せるアスランは、重たそうな瞼をしっかりと開いて、僕を見上げた。 「約束。忘れないで。僕は、君のために生きるよ」 アスランの頬を、透明な雫が流れる。ゆっくりと、躊躇いがちに僕の背中へ、手が伸びる。 ぎゅっと服を掴んだ、それが合図。 僕は。 彼の唇を奪う。 熱く、深く、奪う。 僕だけを、見るように。 僕だけを、求めるように。 少なくとも今は、無意識にではなく、僕を必要としてくれる手を嬉しく思う。 僕だけの君だから。 僕は、約束を違えたりしないよ。 ゆうるりと、眠りの森へ戻ったアスランに、僕は愛しさを込めた眼差しを送る。 小母さんの夢を見たこともあるのだろう。 アスランの脆さが浮き出してしまったようだ。 縋りついて泣いた母の胸。 もう戻らない、穏やかな日々。 懐かしさと、暖かさの桃源郷。 彼が特別だと思い始めた遠い日。 何がどう特別なのかは、幼すぎて判らなかったけれど。 今は判る。 好き、という感情よりも強い衝動があった。 大好きだけでは物足りない、強い衝動が。 愛を語るのは難しく、それほど大人でもない。 好き、大好き、凄く好き。 誰にも渡したくない、僕だけの大切な人。 それが、アスラン。 月の綺麗な思い出と、再びの再会。 傷ついて、傷つけても。 失ってしまった命より、求める人がいるのは、生きようとする力になる。 終わらない戦いではなくて、終わらせるために。 その先にある、僕たちの未来を。 君と一緒に。 歩きたいんだ。 僕だけに輝く、藍色の宝石の。 君と―――。 |