僕の手は冷たい。 とても、とても―――冷たい。 母さん。 あなたの手は。 とても暖かかった。 母さん、母さん。 ―――母さん。 とてつもなく重い瞼を、僕はゆっくりと開いた。 ぼんやりとする頭。なんだか、体が熱い。 視界がやけに白くて、数回瞬きをした。 ここは―――どこだろう。 「あっ・・・気が付いたみたいですよ」 突然ニコルの声が聞こえてきた。 「・・・馬鹿が起きたか」 続いてイザークの声。なんか、とても不機嫌そうだ。 少しずつはっきりと周りの様子が眼に入ってきて、僕は今、ベッドの上に居ることを知った。 けれど、自分のベッドではない。じゃあ、どこだろう。 「・・・ここは・・・?」 随分と間抜な問い掛けだろうか、とも思ったが、どうにもこの状態に至るまでのことがはっきりしなくて、僕はそう呟いていた。 「医務室ですよ。訓練中に倒れたこと、覚えてます?」 心配そうな表情をしたニコルが、僕を見下ろす。 「・・・倒れた?僕が?」 なんだか、とても不思議な言葉を聴いた気がした。 はっきりとしない頭で、訓練のことを思い出してみる。 人型を使っての射撃訓練。いかに相手の急所を狙うか、というもので。 そうだ。 僕は朝から気分が確かに良くなかった。でも、それほど気にもしていなかったのだけれど。 訓練が始まって、銃の重みを感じながら、人型へ銃口を向ける。人型だと判っていても、後ろめたさがあって。 響き渡る銃声の中に、自分のものも含まれているのだと思ったら・・・。 凄く気持ち悪くなった。 そこまでは、覚えている。 覚えているけれど、それからの記憶が曖昧だ。 無いのだろうか。 「・・・なんか、気持ち悪くなったのは覚えているんだけど」 「そうですよ。気持ち悪いって言いながら倒れたんです」 ニコルの口調が、いつもより強い。怒っているのだとわかる、それだ。 「・・・ごめん。迷惑かけた」 まさか倒れるとは思っていなかった。それほど体調が悪いと、意識していなかったのも事実ではあったりするが。 でもやっぱり、こういう自分は情けないと思う。 「迷惑とかじゃなくて、アスランはもっと自分を大切にするべきです。無理しすぎだって、医務長もおっしゃっていました」 「・・・ごめん」 僕は謝りの言葉以外のことを、発することが出来なかった。軍人なのに、自覚が足りないみたいだ。 「謝って欲しいわけじゃないんです。誰だって体調の悪い時はあるんですから。でも、無理は絶対にしないで下さいね。僕、医務長を呼んで来ます」 小さな笑みを浮かべ、ニコルはそのまま医務室から姿を消した。 言われて初めて気付く。そういえば、ここには医務長が居ない。 僕の疑問がイザークに伝わったわけではないのだろうが、彼が教えてくれた。 「医務長はクルーゼ隊長のところだ。俺たちの健康管理について、説教してるぞ」 腕を組み、窓を背にして立っているイザークは、怒っているのか呆れているのか、不機嫌には変わりない色を浮かべていた。 「あんな不健康そうな顔をして、お前は何をしている。ニコルの言うように、単なる無理は馬鹿以下のやることだ」 イザークにバカと言われると、本当に馬鹿のように思えてくる。僕は、なんとなくムッとした。 だるさに包まれている体に力を入れて、上半身を起こすとイザークを睨んだ。 「僕の体のことは僕が一番良く判る。自分では、無理をしているなんて思ってなかったんだ」 「それが、この結果だろうが」 「・・・・・」 やっぱり何も言い返せない。僕は俯くしかなかった。 「・・・最近、眠れていないようだな」 イザークのトーンの落ちた声に、僕は心臓が大きく波打つのを感じた。 どうして、そのことを知っているのだろう。 「ラスティが言っていた。眠れていないようだと・・・」 彼にしては珍しく、柔らかい響きが僕の胸に入り込んでくる。確認をするかのような彼に、僕は何も言わず、目の前に広がる白い布を見るだけだった。 (そうかぁ、ラスティが話したんだ・・・) ラスティは気付いていたんだ。 同室なのだから、気付かれて当たり前かもしれないが。 眠れない、ではない。 眠らないんだ。 布団をかぶり、何度も何度も寝返りを打ちながら、僕は夜を明かす。 浅い眠りに吸い込まれることはあっても、深いものにはならない。 そんな日が、二週間ほど続いている。 こんな僕を、ラスティはどう思ったのだろう。 僕に何か言うこともなく、けれどイザークに伝えていた。 イザーク以外では、誰の耳に入っているのか考えてみたところで、答えは判っている。 きっと、彼止まりだ。 ラスティは知っている。 僕が、自分自身でも信じられないほど、イザークに弱いということを。 否、弱いのとは少し違う。 彼に頼る面が、いろいろな意味で大きいのだ。 ふいに、誰かに支えて欲しいと思う時。 独りになりたくない時。 僕は彼の隣に、ぴたりとくっつく。 気が合うわけでも、特に親しいわけでもないけれど。 僕の行動を、イザークは許してくれている。 不思議と落ち着く、彼の隣。言葉を掛け合うことなんて、ほとんどない。 でも今のように、時折、僕を気遣ってくれる。 彼なりの優しさは、僕の心がどこかへ行ってしまわないように、ちゃんと手を伸ばしてくれる。 だから、僕は彼に甘えているのだろうなと思う。 誰かに甘えたいと思うのは、僕の中で大きくなるばかりで。 なんだか、泣きたくなった。 「俺は、そんなに器用じゃないからな。お前が何も言わないと、判らないことの方が多い」 イザークの小さな溜息が、僕に届く。 僕は。 僕は―――。 鼻の奥が痛い。 涙が流れ出すのを、止められそうになかった。 「・・・夜なんて、来なければいいんだ。そうすれば、眠らなくて済む」 視界がぼやける。 僕の瞳から、透明な雫が一つ落ちた。 「アスラン・・・?」 僕の様子がおかしいと思ったのか、イザークが僕の両肩を掴んだ。自然と向き合う形になる。 でも僕は俯いたままで、声を漏らした。 「夢を見るんだ。母さんの夢。おかしいんだ。毎日のように、母さんの夢を見るなんて・・・」 「・・・母親の夢を見るから、眠らなかったのか?」 頷いてみると、とても子供っぽい甘えだということが判る。それでも僕には、耐えられないもので。 たとえ夢だろうと、僕は母さんを・・・。 「僕は夢の中で、母さんを殺すんだ。僕の手には銃があって、離したくても離れなくて。いつもいつも、僕は母さんを・・・」 「アスラン!!」 僕の悪夢を遮るように、イザークが叫んだ。驚いて顔を上げると、彼の厳しさを湛えた眼差しとぶつかった。 「イザーク・・・」 「馬鹿かお前は。お前が殺しているのは、母親じゃない。自分の心だ」 「・・・僕の・・・ココロ・・・?」 意味が判らず、僕は首を傾げる。 「そうだ。銃を持つことへの躊躇いが、母親の夢を生む。お前が銃を向けているのは、母親じゃなくて自分自身なんだ。違うか?」 イザークに断言されても、僕にはそれが正しいのか判らなかった。 「・・・よく判らない。でも、僕が殺してるのは母さんだ!」 言い募る僕の頬を、イザークの両手がふわりと包んだ。すぐそばに、お互いの顔がある。 僕は、息を呑んだ。 「お前は、本当にナチュラルを撃てるか、疑問を抱いている。そして、銃を持つ今の自分を、母親が許してくれるかどうか、答えを求めているんだ」 イザークが冷静に、僕の心理を分析する。僕は、母さんに許して欲しいのだろうか。 戦場へ出ることを、兵士となったことを。 僕が人を殺める、ということを。 「判らない・・・判らないよ、イザーク!」 「迷うな。俺の言ったことは正しい。俺が断言しているんだ。間違いじゃない。それに俺は・・・」 伊達にお前を見てはいない、と。 眼を細め、イザークが口の端を上げる。 「えっ・・・?」 僕は自分の耳を疑った。 僕を見てる・・・? イザークが? 「イザーク・・・」 彼を呼ぶ、僕の声が震えた。止まることを知らない涙で、イザークの顔がよく見えない。 「自分で自分を追い詰めるな。お前は独りじゃないだろ」 静かな口調の中にも、僕の背中を押す強さがあった。 夢に翻弄された自分。 母さんの、あの優しい笑顔を、赤く染めた自分。 これは僕の、弱く迷う臆病な渦。 戸惑いを大きくすることしかしなかった僕を、イザークは見ていた。 もしかしたら彼は、僕以上に僕のことを知っているのかもしれない。 「僕はイザークに甘えてる。甘えてるばかりだ」 「そういう自覚があるなら、無理はするな。甘えたい時に甘えればいい。俺が受け止めてやる」 イザークの暖かい手が、僕を支えてくれている。 頬を伝わる涙に、彼の手が触れた。 「イザークの手は暖かいな。母さんと同じだ」 「お前の手も、暖かいだろ」 「そんなことは・・・ないよ」 僕の手の冷たさは、僕がよく知っている。 だって、僕の手は、母さんを殺せるのだから。 そんな、いつまでも同じ所で立ち止まっている僕を叱咤するように、イザークの視線が微かに鋭くなった。 「アスラン、いいか、よく聞けよ。俺たちの手は、人の命を奪うためにあるんじゃない。生きるためにあるんだ。お前の手は暖かい。母親と同じ手だ」 「本当に・・・そう思うか?」 「当たり前だろうが。俺の言うことが、信じられないか?」 「そうじゃないけど・・・。母さんは銃を持った僕を、許してくれると思う?」 僕の夢の中で、血に染まった体を。 銃を向けた僕を。 許してくれるだろうか。 「あぁ、安心しろ。子供を許さない親はいないさ。自分の信じる道を歩むことを、きっと願っている」 イザークの囁きに、僕は少なからず救われた気がした。 慰めでも何でも。 彼がそう言ってくれるなら、僕は母さんの夢から、抜け出せるように思える。 母さん。 僕は銃を持つことを選びました。 僕は戦場へ行くんです。 母さんと同じ、暖かな手が、僕を支えてくれている。 力強く、僕の背中を押してくれるから。 こんな僕でも、ここに居られます。 「ごめんなさい、母さん・・・」 小さく呟いて。 僕はまどろみの中に、落ちていった。 優しい温もりを、傍で感じながら。 |