―――私たちは全ての戦争行為に対して、武力による介入を開始します。

モニターに映し出される初老の男。

―――私たちはソレスタルビーイング。この世界から戦争を根絶させるために創設された私設武装組織です。

二百年前に生きた男が、世界に向けて宣言する。
過去が現在と交差した瞬間。





「刹那・F・セイエイ!君はガンダムマイスターに相応しくない!」
ティエリアの怒りを充分すぎるほど含んだ声に、ロックオンは最近良く聞く科白だなぁと思った。マイスターに相応しくない、と言われた本人は、それがどうしたという表情をしているから、ティエリアの怒りなど右から左だ。
両手を握り締めて刹那をきつく睨んでいたティエリアは、くるりと踵を返し食堂から出て行く。残されたのは、彼以外のマイスターだ。ロックオンとアレルヤが、同時に溜息を零す。
「はぁ。まったくさぁー。俺にはあいつの怒りの矛先が良く分からねぇよ」
「僕たちには許容範囲のことでも、ティエリアにはそうじゃないってことなんだろうね」
「狭い許容範囲なことで。つーか、刹那。お前も何か言ってやれば良かったんだ」
ロックオンはティエリアの怒りの原因となってしまった少年に、言葉を向ける。テーブルを挟んでロックオンの斜め前に座る刹那は、黙々と食事を続けている。
ティエリアの怒りの原因―――それは、刹那のトレミーへの帰艦が一日遅れたことである。
ロックオンと刹那が地上でのミッションを終え、そのまま二人は休暇に入った。休暇といっても長いものではないが、刹那は経済特区東京にある彼のセーフティハウスへ戻った。ソレスタルビーイングが世界に存在を明らかにするより前に、彼には地上での活動拠点として東京にある集合住宅の一室が与えられている。
紛争への武力介入。
イオリア・シュヘンベルグが二百年の時を経て世界に宣言をしたあの日から、ソレスタルビーイングは後戻りの出来ない道を進んでいる。ソレスタルビーイングの名と、ガンダムという機体の印象を知らしめたファーストミッション。誰もが本当に武力介入など行うのか、と疑問に思っていたであろう最中でのセカンドミッション。ソレスタルビーイングの本気を、世界に見せ付けたのである。
ミッションは順調に進んでいる。ロックオンと刹那は、地上でのミッションが多い。逆にアレルヤとティエリアは、宇宙が中心だ。
休暇を終えたロックオンと刹那は、人革連にある軌道エレベーターで宇宙に戻るため、そこで待ち合わせをすることになっていた。エレベーター内を走行するリニアとレインのチケットは、お互いが既に持っている。軌道エレベーターへ向かうため、ロックオンが宿泊していたホテルをチェックアウトしてすぐに、その連絡は来た。
―――刹那は一日遅れてトレミーに戻る
その遅れる理由というのが、なんとも微笑ましいものではあるのだが、ティエリアには許せることではないようだ。
刹那はセーフティハウスの隣人から、夕食に招待されたという。いつの間にやら親しい関係を築き上げていたというより、多少隣人の強引さがあったようだ。断りきれなかった、と伝えてきた刹那に、スメラギは「お隣さんと喧嘩するよりよっぽどいいじゃない」と了承したのだ。
トレミーに戻るのが一日遅れても、特に支障はない。ミッションがあれば話しは別だし、刹那自身で断るはずだ。だから、これは刹那が「誘われた食事に行ってもいいだろうか」とスメラギに許可をもらうために連絡を入れたとも言える。
リニアトレインのチケット変更のこともある。トレミーに戻るのも一日遅れる。それでもいいだろうか、という控え目なお伺いはとても可愛らしいもので、スメラギには却下する理由はなかった。「いいわよ」の一言で済んでしまったことなのだ。
しかし―――。
それを許せない子供がいる。
刹那の帰艦が遅れる理由を知った子供は「そんなくだらないことで遅れるなど、マイスターの自覚がない」と言い切ったのだ。真面目なのか融通が利かないのか。きっと、そのどちらでもあるのだろうが、隣人との食事をくだらないと言ってしまうティエリアの心が、ロックオンには淋しく感じる。
隣人との付き合いが上手く行っているのなら、それでいいではないか。目くじらを立てる理由など、どこにもありはしない。
なのに、ティエリアは「くだらない、自覚がない」と怒るのだ。
スメラギが許しても、刹那に自分の怒りをぶつけなければ気が済まなかったのだろう。理解出来ないとばかりに、きつく握り締められた両手。予定通りの行動から、ほんの少し寄り道をしたことが、許せることではないと言う。
「ホント、お前さ、あいつに言いたいことないの?」
相変わらず食事を続ける刹那に、ロックオンは再度問いを投げる。
「・・・別に。あいつが怒っているのはあいつの勝手で、俺は関係ない」
ロックオンを見ることもなく言う刹那からは、何かしらの感情が読み取れるわけでもなく。本当に関係のないことと思っているようだ。
「まぁねぇ。お前がそう言うなら、俺が口を出すことじゃねぇけどさ」
「ティエリアは真面目すぎるから。ミッションじゃなくても予定通りに物事が進まないと、苛立ちが全面に出るよね。だから、許せないってことになっちゃう気持ちも分からなくはないけど、もう少し気持ちに余裕があってもいいと思うんだ。今回の刹那のことを許せないって言い切ってしまうと、それだけ自分を雁字搦めにしているのと同じじゃないのかな」
苦笑を含めながらも、アレルヤはティエリアを心配する色を滲ませる。
雁字搦め。
確かにそうだろう。ティエリアは、何よりもソレスタルビーイングの計画を第一とする。彼に私事はない。もちろん誰もがミッションに私情を挟むことをよしとすることはないが、 それでも自分の奥深くに持っているどうすることも出来ない感情は、常にある。
が、ティエリアからはそういった、ちらりちらりと見え隠れしてもおかしくはないはずの私情を、見つけることは出来ない。本当に計画第一主義だ。だから、ミッションとは何ら関係のない、ささやかな自分たちの日常であったとしても、予想外のことは許せないと言ってしまうのだろう。
真面目なのだ。ティエリアが良しとする基準と少しでも差が生じると、何故だと憤る。アレルヤの言うとおりだ。
「・・・お前、ティエリアのこと良く分かってんのな」
「そんなに良く分かってはいないよ。僕はティエリアとミッションを組むことが多いから、真面目っていうのか、迷いのなさが伝わってくるけどね。セイロン島でのミッションの時、僕とティエリアは宇宙からそこへ向かったでしょう。ガンダム単独での大気圏突入だったから、僕は少し不安もあったし怖さもあった。心臓がドキドキ五月蝿かったよ。でも、ティエリアは大気圏だろうが何だろうが関係ないって感じで、どんどん進んで行ったんだよね。度胸の良さなんだろうけど、思わずちょっと待ってって言いそうになったよ」
「なるほどねぇ。あいつらしいっていえばあいつらしい、度胸の良さだよ」
ロックオンにはその様子が汗顔に想像出来る。ガンダムは大気圏突入も単独で行える設計になっているが、やはり一瞬ではあっても足踏みしたくなるのは、ロックオンも同じだ。けれど、ティエリアにはその足踏みがない。迷いも躊躇いもない、透き通った紅い瞳で、巨体のヴァーチェを操る。
「・・・まぁ度胸があるのはいいんだろうが、俺はあいつの頭がもう少し柔らかくなることを期待するよ」
「それは僕も同感」
出会った時から一ミリも変わることのない、少年と自分たちとの距離。ロックオンはそれをどうにか縮めたくて、けれどどうにもならないまま、ソレスタルビーイングの世界に対する挑戦は幕を上げた。
ロックオンのデュナメスとティエリアのヴァーチェは、接近戦より後方から相手を狙うことに特化している同じタイプの機体だ。なので、ロックオンとティエリアの二人で、ミッションを行うことは今までにない。もしかしたらこれからはそういう場面があるのかもしれないが、現時点では一度もなかった。
そして、ロックオンは地上で、ティエリアは宇宙でのミッションが多く組まれる。ミッションで地上に下りれば、トレミーに戻るのは二週間後、三週間後ということも少なくない。ロックオンがティエリアと一緒にいること自体が、多くはないのだ。
ファーストミッションが開始されるまで、特別な理由がないかぎり、二週間以上お互いの顔を見ない日はなかった。あの頃と今では状況が百八十度違うと分かっていても、離れている時間が長いと、いつの間にかティエリアのことを考えている自分がいる。
またアクセスルームに篭ってはいないだろうか、アレルヤと上手くやっているだろうか。
離れていれば離れているほど、ティエリアのことを考えてしまう。なんだか彼に恋をしている気分のようだと思いながら、放っておけない存在が己の中で強くなる。
きっとそれは、ロックオンがティエリアを知り始めたからだ。ティエリアの、見えている部分ではない場所へ、触れ始めているから―――。
「・・・でも、砦は頑丈だ」
「ロックオン?」
「あぁ、悪い。なんでもねぇよ」
意識するより先に、声を漏らしていた。首を傾げるヤレルヤを受け流してはみたものの、自分自身に笑ってしまう。
(俺ってやっぱり一途なんだなぁ)
モレノからもそう言われたことがある。あの時は特に耳に残ることもなかったというのに、今頃になってそれを実感している。でも自分の気持ちをしっかり持っていないと、きっとティエリアとは向き合えない。だから、これでちょうどいいのだ。
少しだけ落としていた視線を上げると、刹那の褐色した眼と出会った。しかし、ほんの一瞬のことで、刹那は何事もなかったようにすっと椅子から立ち上がる。
「刹那、もう行くのかい?まだゆっくりしていればいいのに」
トレイに載せられていた食事は、綺麗に片付けられている。地上から戻ったとはいっても、まだ三時間ほどしか過ぎていないのだ。体を気遣うアレルヤには応えず、ここには居ない彼のことを刹那の唇が紡いだ。
「―――俺は、あいつがあいつなら、それでいい」
前を向いたまま、特別な色があるわけではない呟き。アレルヤは不思議そうに刹那を見上げているが、ロックオンにはその短い言葉に含まれていることが分かった。
「刹那」
もう少し話しがしたくて呼んだ名前に、刹那の瞳がちらりとロックオンを捉えるが、それだけだった。トレイを手に持つと、小柄な彼は年長組を残し食堂を後にした。
「刹那もティエリアのことを気にしているのかな」
「まぁ、気にしているっちゃあ、気にしているんだろうな」
口数の少ない少年は"あの"ティエリアを知っている。あの、どこかに引っ張られているかのような、虚ろな紅い眼を知っているのだ。
気がかりではあったのだろう。無口な分、そういうことをあまり表には出さないが、優しい少年だ。
ロックオンは、やはり刹那と話しがしたくなった。



自分に向けられる紅い眼差しは、いつだって嫌悪感がある。ヴェーダが選んだマイスターではあっても、彼は自分のことを認めようとはしない。それが年齢的なものであったり、時折ミッションプランよりも己の感情を優先してしまう、戦場では切り捨てなければならないものだったりと、理由はいろいろあるようだ。
しかし、自分はここにいる。捨てられない心があるから、ヴェーダに選ばれたのだと思う。
何より、その心があるから自分――刹那・F・セイエイ――という人間なのだ。
だから、彼――ティエリア・アーデ――に何を言われようが、揺るがない己がいる。
ティエリアは、ヴェーダが描く白線しか見えていない。否、その白線しか知らないのかもしれない。知らないから、少しの予定外のことが起こると苛立つのだ。今回のように。
そうでなくても、何かしらに怒る姿はティエリアの日常である。彼の紅い瞳の色が、更に濃さを増す。
刹那は、濃さを増した紅い色が、嫌いではない。そこに自分なりの何かを想うわけではないのだけれど。
きっと、あの虚ろさを知っているからなのだろうなと思う。ティエリアがティエリアではないような、どこか昏さを伴ったあの眼を覚えている。
休暇中に起きたテロを境にして、それは現れた。本人に自覚があるとは思えず、結局原因も不明なまま、今に至っている。
もう、あの何も映していない昏い眼が、現れることはないのだろうか。
ミッションが順調に進んでいることを考えれば、問題視することもない些細なこと、と片付けてしまってもいいのかもしれない。
が―――。
本人が自覚せず、無意識の波に包まれた事実は、いつか何かが起きる前触れではないのか。
休暇中のテロ。眼の前に広がる、人々の赤い命。
忘れたくても忘れられない現実は、ティエリアに深く深く刻まれたはずだ。ソレスタルビーイングの計画の塊である少年を、大きく揺るがす要因になる予感がする。
考え過ぎだと刹那自身も思う。仲間よりも計画重視のティエリアが、テロを目撃したからといって、何かしらの変化に繋がるはずもない。なのに、雲のようなつかみ所のない不安が、刹那の体の一部を侵食している。
ソレスタルビーイングの戦いは始まったばかりだというのに、仲間の一人に対して、これほど意識を向けることになるとは、予想すらしていなかった。きっと、こういう気持ちは、自分には似つかわしくない。それでも、切り離しなくないと思う。
食堂を出てから自室へと向かっていた足は、左側の通路から姿を見せた少年を前にして止まる。相手の動きも止まった。ティエリアである。
刹那を視界に捉えた途端、苛立ちを隠そうともせず睨む。彼の怒りは継続中のようだ。お互い何かを言うこともなく、相手だけを見る。
止まっていた体を先に動かしたのはティエリアだ。ぷいと顔を背けると、刹那の横を通り過ぎようとする。いつもなら、無言で相手を見送るだけだが、今日は違った。
「ティエリア・アーデ」
彼の名前を呼ぶのと、その腕を掴んだのは、ほぼ同時だ。刹那の、まだ成長途中の手でも細いと感じる腕の主は、突然のことにぎょっと両目を見開く。形の良い唇が、怒りを発した。
「は・・・放せ!」
ティエリアが、掴まれている腕を上下に振るが、刹那は更に力を込める。
「なんなんだ、一体!何がしたいんだ!」
振り解けないと思ったのか、ティエリアの腕がだらりと下がる。身長差のせいで見上げる紅い眼が、鋭さを増す。まるで、刹那を敵と認識したとでもいうように。
刹那はティエリアからの強い視線を受け止めて、口を開いた。
「今回の、俺の帰艦が遅れたことは、お前にとってそんなに許せないことなのか」
「当たり前だ!貴様の帰艦が遅れた理由など、理由と呼ぶべきことではない!マイスターとしての自覚があるなら、予定通りにトレミーに戻ったはずだ。違うのか」
刹那とて、ティエリアの怒りの原因が、理解出来ないわけではない。彼のことを多少なりとも知っているから、帰艦が遅れることを怒るだろうことは、予想内ではあったのだ。
隣人に誘われた食事で、帰艦が一日遅れる。
ティエリアには理解の出来ない理由。スメラギが了承しても、次のミッションまで充分すぎるほどの時間があったとしても、ティエリアには関係ない。予定通りの行動が全てであり、それ以外には認められないのだ。ヴェーダ絶対主義の、本領発揮である。
刹那自身、後ろめたさが全くないわけではないから、ティエリアが怒ることは理解している。刹那の帰艦が遅れれば、トレミーに戻るまでに発生するこまごまとしたことも変更になる。自分たちではどうすることも出来ない理由で、トレミーへの帰艦が遅れるのとは話しが別なだけに、刹那も申し訳ないという気持ちは持っている。
だから、ティエリアのいう予定通りの行動とは違うことをしてしまったことに関しての怒りは、当然なのだとも思う。けれど、理解の出来る怒りはそこまでだ。あとはティエリア個人の言い分が強いから、刹那は我関せずの範囲である。
なのに。
細いと実感する腕を掴んだのは、ミッションで組むことの少ないティエリアを、もっと間近で見たいと思ったから。多分、刹那自身がティエリアを良く見て安心をしたかった。
その安心は、一体何を指して安心とするのか明確には言えないし、逆に明確ではなくても不安を覚えているから求めるもので。
安心も不安も、ティエリアに対して抱くもの。ただそれが、あまりにも漠然としているから、こうして近くでティエリアが刹那の知る彼なのかを確認したいのだ。
刹那を射る紅い色。彼と出会ってから変わることのない、真っ直ぐさだ。真っ直ぐすぎて、余所見をすることを知らない。ロックオンではないが、柔軟性を必要とする場面も多々あることは分かる。それでも、刹那は純粋なまでの真っ直ぐさが嫌いではない。
ヴェーダ絶対主義であろうが、ティエリアほどソレスタルビーイングの計画を、素直に、ある意味当然とでもいうように受け入れている者は、いないのではないだろうか。
争いと争いの間に楔を打ち込むのは、未来を変えるためのソレスタルビーイングの役目だ。その役目を、ティエリアは淀みなく進もうとしている。躊躇いなどなく、まるでそんなことは知らないと、切り捨てることさえなく。
だから、ティエリアはいつだって正論と呼ぶものをぶつけてくる。聞いている者からすれば、少々どころではなく腹立たしさを覚えるほどに。
今回の刹那のことも、良い例だ。しかし、刹那はそれほど気にはしていない。逆に安心している自分がいる。
これは、刹那の知るティエリア・アーデだ。刹那が知らなかった、あの虚ろさのないティエリア・アーデだ。少なくとも、刹那の知らない部分はない。怒っていても機嫌が悪くても、良く知る姿が眼の前にある。
刹那は、安心する。
ティエリアがティエリアであるのなら、刹那は安心することが出来る。
それでも―――。
ティエリアがティエリアでなくなってしまう、つかみ所のない不安が消えるわけではないのだけれど。
何故こんなにも不安だと思うのか、刹那にも分からない。分からないから、少しでも安心を見つけたいのだ。 刹那が掴んでいたティエリアの腕をそっと放せば、彼は掴まれていた腕を背中に隠した。小さな子供のような仕種が、身長ばかりがひょろりと高いティエリアを幼く見せる。
「お前の言うことは正しい。今回は俺の我侭なのは分かっているが、俺はマイスターの自覚を忘れたわけでも、ソレスタルビーイングの理念を忘れたわけでもない」
「・・・だから、許せとでもいうのか」
「そうじゃないが、怒っているのはお前一人だ」
「・・・・・!」
ティエリアの頬が赤くなる。刹那のことを怒っているのは、事実ティエリアだけだ。そのことを彼は納得出来ていないのに、問題を起こした本人に指摘されれば、余計に面白くもないし腹も立つだろう。地雷を踏んでしまったと思ったところで、もう遅い。怒りに肩を震わせるティエリアが、今度は何を言うのかと彼の唇を見ていたら、第三者の声が割り込んできた。
「あれ?お前ら何してんだ」
二人同時に声の主へ顔を向ければ、ロックオンがこちらに近づいて来た。ティエリアはロックオンが現れたことによって、怒りを爆発させる瞬間を逃してしまったようだ。ロックオンから刹那へと視軸を戻し、悔しげに唇をきつく結んでから、半重力の空間へ体を浮かせた。
「ティエリア?」
眼を合わせることもなく、自分の肩と擦れ違う少年の名をロックオンは呼ぶが、完全無視だ。ピンク色のカーディガンに包まれた背中は、話しかけてくるなと誰もを拒絶している。一体何があったのだ、と思わずにはいられない。
「おいおい、何があったんだ?」
見えなくなったカーディガンから刹那へ眼を移す。この子供の表情は、相変わらず大きな波はなくそこにある。
「・・・今回の、俺のことを話していた」
「あー、なるほどねぇ。お姫様は、まだまだお怒り中ってことか」
「俺のことで怒っているのはお前だけだと言った。地雷だった」
「・・・あー、なるほどねぇー」
ロックオンの頬が緩む。二人は食堂での続きを、この通路で行っていたようだ。加えて、ティエリアにとっては怒りの相手である刹那から、怒っているのはお前だけと言われたというのであれば、これはますますご機嫌斜めが止まりそうにない。
「まぁ、あいつの場合、地雷ばっかりだからな。でも、これ以上怒らせるなよ」
「あいつは―――」
刹那の褐色の双眸は、ロックオンを映す代わりに、姿の見えなくなった少年の影を追うように、通路の先を見つめている。
「あいつは、俺の知るあいつだ。怒っていても機嫌が悪くても、俺の知るあいつなら、俺は安心する」
「刹那・・・」
ロックオンの耳に届くそれは、刹那が食堂で零した言葉の続きにも聞こえるものだ。

―――あいつがあいつなら、それでいい

刹那もティエリアに対して、不安要素を抱いているのだと分かる。彼に現れた虚ろさを知るもの同士、互いが持つ不安を確かめるのは、決して無駄にはならないはずだ。
「なぁ、刹那」
「なんだ」
「お前の言う安心は、あいつが――ティエリアがティエリアじゃなくなるような姿を見ているから、求めたくなる安心か?」
自分一人が知る事実ではないことが、ロックオンに心強さをくれる。口数の少ない刹那だからこそ、こちらから気持ちをぶつけたい。
ほんの少しの沈黙が、二人の間に流れる。
ロックオンからの問いを刹那が消化しているような、僅かだけれども必要な時間とでもいうのか。ロックオンは応えを待った。
「俺もあんたほどじゃないにしても、あいつを気にかけている。あの、あいつらしくない姿を見れば、誰だってそうじゃないのか」
「・・・そう、だな」
「あんたが、あいつのことを気にしているのは知っている。あんたは何も言ってはくれないが、あんた自身の問題ならそれでいいと思ってはいる。でも、俺は言ったはずだ。俺たちはあいつに何が出来ると――。あんたがあいつを一人で背負い込もうとしているのなら、俺は俺のやり方で、あいつを見ていく」
子供だ子供だと思っていた少年から、急に男を垣間見た瞬間。頭を殴られた気分だ。
ティエリアのことを気にかけ、心配しているのは、ロックオン一人ではないのだ。ロックオンは思い出す。そう、確かに刹那は言ったではないか。

―――あいつに何が出来る

あの時は、刹那の言葉がこれほど重く真剣さを帯びているとは、想像もしていなかった。ティエリアがティエリアではなくなってしまうような場面に立ち会ってしまったから、どう対応すればいいのか分からない、という意味合いだと受け止めたのだ。
きっと、受け止め方としては間違ってはいない。けれど、もっと深く、ロックオンのように関わりを持ちたい意思も入っていた。ロックオンが気付かなかっただけで、刹那は刹那のスタイルで、ティエリアに近づこうとしている。
何が「虚ろさを知る者同士」だ。刹那はそれを含めて、先へ進んでいるというのに。
「そうか、そうだよな。ティエリアのことをちゃんと見ているのは、俺だけだと思ってたよ。まったく、俺は周りを見てないよな」
モレノとスメラギから教えてもらったことは、誰にでも話せることではないし、それこそロックオン自身の問題だが、刹那の素直さはもっと育って欲しいと思う。
「俺はさ、あいつのことが気になって気になって仕方ないんだよ。でもさ、俺の勝手な気持ちを、周りに押し付けたくはないんでね。お前には言い訳に聞こえるだろうけど、そういうことだ。けどな、お前が一人で背負い込むなって言うなら、俺はお前の肩を借りるぞ」
「ああ、貸せるのなら貸してやる。でも俺は、あいつのことは、あんたの役目だとも思っている」
「刹那」
「だから、ちゃんと掴まえていろ。俺は俺の見える範囲で、あいつを知るだけだ。きっと俺とあんたでは、着地点が違う。俺は俺のやり方であいつを知る。だから――」
「あぁ、俺は俺のやり方で、あいつをもっと知るよ。分かってる。ありがとうな」
刹那の口元が微かに綻ぶ。着地点とは面白い言い方だ。けれど、的を得ている。ロックオンと刹那では、関わろうとしているティエリアヘ向ける形に違いがある。
それでも、きっかけは何でもいいのだ。仲間という理由だけではない想いが、確実に存在し動き出している。
いつか、ティエリアの心ごと掴まえたい。
いつか、その日を願って。
ロックオンも笑った。