男は少年に出会い、少年は男に出会う。
偶然が運命に変わる物語は、もう幕を上げている。




人は誰もが過去を持っている。ソレスタルビーイングの量子型演算処理システム"ヴェーダ"が選び、その一員となった者たちは、己の過去と向き合いながら、世界を変えようとしている。
ガンダムマイスターもそうだ。まだ十六年しか生きていない刹那の過去は、常に手の中に銃があった。争いと隣り合わせが日常。ロックオンもアレルヤも、簡単な言葉では表せない過去がある。己の中で処理することの出来ない、大きすぎる波を抱き続けているからこそ、眼の前に出されたガンダムマイスターという場所を選んだのだ。
けれど。
ティエリア・アーデは違う。
刹那たちとは全てにおいて違う、と言っても過言ではない。彼には選択をすること自体がなかった。既に決められていた道だ。そのことに疑問を持ったことなど、彼にはない。そのことが役目であり、生きる目的なのだ。
イオリア・シュヘンベルグが掲げる紛争根絶。
ガンダムヴァーチェのマイスターとして、世界から争いをなくすために、ティエリアはいる。ティエリアに過去は関係ない。ただそのためだけに、存在をしているのだから。
ティエリアは、自分が他のメンバーたちと決定的に「違う」ことを、理解していた。その「違い」があるからこその自分だと思っている。
イオリアが描いた未来へ近づけるための計画。ヴェーダがはじき出す、ソレスタルビーイングが取るべき行動。
ヴェーダの電子回路の中で導き出される答えが、ティエリアの全てだ。ティエリアにとって「仲間」はいない。他のメンバーは、同じ場所に居る者たち、という認識でしかない。たった四人のガンダムマイスター同士であっても、マイスターに相応しくないとティエリアが判断すれば、躊躇わずに銃を向ける。マイスターに相応しくない者がいれば、それるたるビーイングが求める未来に届かない。それは許されることではないのだ。
ソレスタルビーイングの計画遂行が絶対であり、何より大事なこと。
ティエリアの辞書に、失敗はない。
常に冷静であること。何があろうと、迷わずにソレスタルビーイングの理念のために戦うこと。
ティエリアには当たり前のことだ。彼の「立場」が、必要以上にそうさせることもある。周囲との違いは、その立場も含まれる。
ティエリア・アーデは、違い過ぎるのだ。
そして、本当のティエリアを知る者は少ない。が、このトレミーには、少ない中の二人がいる。一人は自分の子供のように、一人は年の離れた弟のように、彼をそっと護っている。護るといっても、直接何かをすることはない。なにげない会話の中や、彼自身を良く見ることで、周囲が気付かない小さな変化を感じ取る。何もなければそれでいい、というわけではないけれど、特殊さを持つ彼のことを二人は危惧感を持って接している。更にもう一人、護る側に加わろうとしている者がいることなど、ティエリアが知る由もない。
ティエリアが心を向けているのは、ヴェーダだ。ソレスタルビーイングの頭脳を、子が親を求めるように、身を委ねている。そこに他人が入り込む余地などないほどに。
人と交わりを持たないのも、仲間にさえ冷ややかなのも、ティエリアにはヴェーダが絶対の存在だからだ。機械だろうが関係ない。ヴェーダはティエリアの父であり母なのだ。
けれど―――。
奇跡と運命の輪は出会い、一つに繋がった。
ゆっくりと、ゆっくりと。
変わるべきだと言うように。
未来が、広がる。



「シミュレーションも問題ないわね。ミッションは機体の関係上、刹那とロックオン、アレルヤとティエリアが組むことが多くなるけれど、全部が全部そうなるとは限らないわ。臨機応変で対応するから、フォーメーションは頭に叩き込んでね」
トレミーのブリーフィングルームには、スメラギとマイスターの四人が集まっている。ソレスタルビーイングが、その名を世界に宣言する日が近い。正式に決まってはいないが、やるべきことは全てやりつくしている。あとは、どこにその日を定めるかだ。
「いよいよソレスタルビーイング始動ってところだな。さすがに緊張してくる」
ロックオンが苦笑交じりに言う。だが、表情は少しばかりの硬さがあった。
「そうね、誰だって緊張するし当然のことだわ。特にファーストミッションは大事よ。私達ソレスタルビーイングが、何をやろうとしているのか、全世界に伝えることが目的ですものね」
「そのファーストミッションの内容は、もう決まっているんですか?」
アレルヤがスメラギを見ながら問う。
ファーストミッション。言葉だけが先行しているその内容を知る者は、スメラギとヴェーダだけだ。
「えぇ、ほぼ決まっているわ。でもまだ内緒。イオリア・シュヘンベルグから託された、未来のためのソレスタルビーイングよ。世界が強く印象を持つように、ファーストミッションは派手にやるから、楽しみにしてちょうだい」
にっこりと笑うスメラギは、さすが戦術予報士と呼ぶべきか。それだけの自信があっての笑みだと分かるから、アレルヤたちは安心して背中を預けられる。
「・・・ファーストミッション。世界は僕たちを見て、どう変わるでしょうか」
少し目線を落とすアレルヤは、誰に問うわけでもない科白を零す。
終わらない争いは、互いを理解し合わない人々の心から生まれる。世界を変える、変えたい、と口にするのは簡単なことではあるし、実際にそれを声にすることも多い。が、答えを出すのは世界だ。何がどう変わるのか、始まってみなければ分からない。
「変わる、変わらないを決めるのは、私達じゃないわ。でもね、それを決めさせるのが私達であり、ガンダムよ」
ガンダム。ソレスタルビーイングのモビルスーツ。
西暦二千三百年の人々が、初めて眼にする機動兵器。人類が繰り返す争いの前に、それ廃りビーイングの名とガンダムが齎す何かは、確実にある。願いも希望も捨てきれるものではないから、ソレスタルビーイングの彼らがいるのだ。
「世界にとって予想外のことをするのが俺たちだ。変わってもらわなけりゃ困るさ」
年長者の落ち着きを見せるロックオンに、アレルヤは小さく笑う。
「そうですね・・・。やっぱり僕も緊張してるなぁ。なんだか不安の方が大きくなりそうで・・・。これじゃあ駄目ですね」
「それでいいのよ。誰だって不安だわ。だから不安や怖さを、自分で抱えては駄目。小さなことでもいいから、こうやって話をすることが大事。私達は仲間よ。支え合うから仲間なのよ」
戦術予報士は、時としてクルーたちの良き姉となる。ソレスタルビーイングの実働部隊プトレマイオスのクルー自体が少ないからこそ、精神面でも支えたいと思うのだろう。スメラギの優しい瞳に、アレルヤの肩の力が抜ける。
ソレスタルビーイングの名を、世界の人々が知るのは近い未来だ。その指揮を任されているスメラギ、そして実働隊のマイスター四人。意識せずとも緊張の波に襲われるのは当然なのだが―――。
マイスターの年少組みは、そうでもないようだ。実に淡々としている。いつもと何ら変わりはない。ブリーフィングルームに集まっているとはいえ、ミーティングが終わってしまえば彼らの唇は硬く閉ざされる。いつもと変わらない表情の少なさは、緊張感とは無縁にも見える。度胸が良いのか、平常心でいられる心の強さか。いずれにせよ、子供ゆえの恐れのなさではあるのだ。
強い子供だと、スメラギは思う。強くならなければならない現実の中で、生きてきたのだと分かる。まだ十代。幼さの方が目立つ子供だ。
が、刹那とティエリアは子供ではあっても、学校へ通い友人達と遊ぶ学生ではない。ソレスタルビーイングのガンダムマイスターだ。本来なら教科書を持っているであろう手は、モビルスーツの操縦桿を握り、教師を見つめているであろう眼は、世界へと向けられている。
選ばれし、二人の子供。
強い強いと思っていても、弱さとは背中合わせだ。スメラギは特にティエリアへの危惧感がある。知識ばかりが豊富で、現実を知らないのがティエリアだ。現実には、知識という平べったい中にはない、人の心が伴う。眼に見えることも、手で触れることも出来ない人の心。
ここに居る者たちは、その心に消えることのない傷を負っている。深い傷か、戦いへの土台となっているのだ。けれど、ティエリアにはその土台となる傷がない。
ティエリアの場合―――ヴェーダが土台なのだ。
他の誰とも違い、他の誰とも共有できる過去を持たない少年。触れても、温かみのないコンピューターに寄り添う少年。傷を、痛みを知らない少年。
イオリア・シュヘンベルグの理念通りに、ヴェーダの計画通りに、動くことが使命の少年。
そこにティエリア個人の考えや想いが含まれているわけではないことを、スメラギは知っている。知っているから、遣り切れない苦さがある。
何が起こるか分からない、何が起きても不思議はない戦場で、ティエリアはきっと傷を覚え、痛みを覚えることだろう。ティエリアにとって初めて感じる心となるかもしれない。そして、それが彼にどんな影響を与えるか、スメラギには分からないから怖くもある。だからといって、悪い方にばかり考えを巡らせても、気持ちが重くなるだけだ。
誰かが傷ついたら、支え合うのが仲間。アレルヤにも、そう話したばかりだというのに。
もしかしたら―――。
もしかしたら、自分はティエリアが傷つき痛みを覚えたときに、支えきれないのではないかと思っている?
そんなことはない。
そんなことは、思ってなどいない。
なのに、何故だろう。
ティエリアへの危惧は拭いきれない。
手に持つ小型のパソコンへ視線を落としているティエリアは、出会った頃のまま、仲間であっても人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。スメラギが抱く危惧など、どこにも見当たらない。 が―――。
スメラギは見えない怖さを振り払うため、きつく瞳を閉じる。
(大丈夫・・・。私はあの子を護ってみせるわ。私だけじゃない、モレノさんもいる。何よりロックオンが、あの子と向き合ってくれるのよ。怖いことなんてないわ)
スメラギは大きく息を吸い込んでから、閉じていた瞼を上げる。一人の子供を心配する色を隠してから、彼女の唇が動いた。
「・・・ミーティングは以上で終わりよ。あとは、その日を待つだけ」
四人のマイスターが、一斉にスメラギを見る。
「現時点で、ガンダムより高い性能を有するモビルスーツは、どの国にもないわ。それに、私たちには、太陽炉がある。でも、いくら性能が高くても太陽炉があっても、あなたたちは四人しかいない。ガンダムマイスターだから言うんじゃないわ。あなたたちが、とても大切なの。ここまで来たんですもの、最後の最後まで貪欲に生き抜きましょう」
生と死の狭間の戦いが始まる。相手にするものが大きいだけに、より死に近い場所にいるのは事実だ。だからこそ、足掻き続けてみせる。ソレスタルビーイングは、世界に抵抗する者たちの集まりなのだ。
スメラギの科白に、ロックオンの口の端が上がる。
「・・・貪欲に、か。俺たちがどこまで出来るか分からないが、簡単に諦めたりはしないさ」
「是非、そうしてちょうだい。私はあなたたちが大切だもの」
死を選ぶ覚悟より、逃げる勇気を持て。
言葉にはしなくても、スメラギの気持ちを受け取ってくれたであろうか。ロックオンとアレルヤには、伝わっているはず。その証拠に、少しだけ表情が困ったように柔らかい。刹那は、相変わらずの無表情。しかし、彼は簡単に世界を諦めない強さを秘めている。
問題は、ティエリアだ。眉根を寄せる姿に、苦笑したくなる。スメラギが直接語らなかった本音を、理解するのは難しいかもしれない。眉間の皺は、ティエリアが何かを言いたいのに、上手く声に出せない素直さの表れだと思えば可愛いものだ。
「それじゃあ、少し長くなったけど、これで終わりにします」
ミーティングとはいっても、短い時間での確認事項作業だ。ここにイアンが加われば、機体調整のことで話しが多少長くなる。
ソレスタルビーイングが、厚いヴェールを取る直前まで来ているのだ。綿密なミーティングを行う、特別なことは少ない。
扉が開く軽い自動音に続き、少年組の二人が用は済んだとばかりに、部屋の外へ消える。ピンと伸ばされた細い二つの背中に、苦笑したのはロックオンだ。
「あいつら、ホントいつもと変わんねぇよなぁ。世界に喧嘩を売るっていうのに、緊張なんざ関係ないって感じだ」
「実際そうでしょうね。やるべきことをやる。子供の純粋さが強いのよ。だから、あの子たちが不安や怖さを表に出すとは言えないわ。きっと、誰よりも強くあろうとするわね」
「・・・そうだろうな。まぁ、刹那はアレで意外と素直だから、必要なことはちゃんと話してくれると思うんだが、ティエリアは分からねぇな。あいつの場合、何かあってもヴェーダに相談だろうよ」
「それは否定出来ない事実ね。あの子は、ヴェーダ大好きだもの」
困ったものだと肩をすくめるスメラギは、けれど慈しみを秘めた眼をしている。
アレルヤは思う。ロックオンが、あのテロからティエリアを随分と気にかけていることを知っているが、スメラギも同様のようだ。それほどまでに、気にかける―――心配なのだろうか。
あの休暇中に起きたテロのときは、確かに虚ろさを漂わせてアレルヤも心配した。が、休暇を切り上げて宇宙に戻るときには、いつもの見慣れたティエリアがそこにいた。
アレルヤの知るティエリアは、誰よりもガンダムマイスターだということだ。その細い腕でガンダムを動かし、その美しい面を変えることなく、当たり前のようにコクピットに鎮座する。ティエリアには、躊躇いも迷いも不安もないように見える。
ティエリア・アーデ―――ガンダムマイスターに、最初に選ばれた者。正確な年齢は何故か機密扱いだが、おそらく刹那と同年であろう。アレルヤより年下の、まだ子供だ。
しかし子供だからといって、護られる立場に甘んじてはいない。自ら進んで世界を変えるべく、ここに居る。そうでなければ、ガンダムマイスターに選ばれてはいない。
刹那もティエリアも、精神面の強さがあると思っている。どこの国も保有していない、機動性と性能の高さを持つモビルスーツに乗るのだ。その意味も覚悟も必要とされるだけに、まだ子供の領域の二人だが、芯の強さがあるのだと思う。背伸びをしている部分もあるだろうが、それを覆ってしまうほどの真っ直ぐな想いを持っている。
「スメラギさんもロックオンも、ティエリアのことが随分心配なんですね」
二人に感じることを素直に述べると、四つの瞳がアレルヤを見た。
「あら、拗ねちゃったの、アレルヤ?」
「ち・・・違いますよ。僕から見たティエリアって、完璧主義者っていうか、イオリア・シュヘンベルグの理念のためなら仲間であろうと容赦しない行動に出そうだし、実際僕はティエリアに怒られることが多いし・・・。だから、ファーストミッションも、いつものように冷静なんじゃないかなって」
アレルヤの言葉に耳を傾けていたスメラギとロックオンは、互いの眼を合わせる。他のクルーにティエリアのことを尋ねれば、きっとアレルヤとそう変わらないティエリア像が返ってくるだろう。
完璧主義者なだけに、融通が利かない。自分にも厳しい分、人にも厳しい。
それらは確かにティエリア・アーデを形成するものだ。トレミーのクルーならば、その印象は強いし、スメラギもロックオンも同様に思っている。
ただ。
仲間たちが抱くティエリアの形成要素とは違う要素を、二人は知っている。ほんの少しの差だ。けれど、その差が実は大きい。
スメラギは、いずれロックオンが到達するであろう真実を知っていて、ロックオンは真実のことは知らないが、誰もが抱くティエリア像とは違う角度に触れ始めている。だからといって、この差をアレルヤたちに知ってもらいたいとは思っていない。
ティエリアの内面―――精神面のとても柔らかい所へ触れることになるのだ。
ロックオンのように、気にし始めて自ら行動を起こしてくれるのであれば、スメラギは真実を伝えることは出来なくても、オブラートに包んだ物語を話すことは出来る。もしかしたら、スメラギやモレノを介することなく、そこに辿り着くかもしれない。
戦いが始まってしまえば、一歩先は予測不能な闇だ。誰だって、自分のことで精一杯になってしまうだろう。だからこそ、支え合う力を持ちたい。特にティエリアは、人としての土台が出来上がっていない未発達な少年だ。脆さは確実にある。
「そうね。アレルヤの言うとおり、あの子は完璧主義だから、自分が求めているもの、信じているものと少しでも違えば、そんなはずじゃないって怒るのよねぇ。私だって怒られるわ。でもね、完璧主義者だから、戦いにおいても完璧であろうとするのよ。戦場はシミュレーションとは違う。何が起きても、リセットボタンはないのよ。そんなことはない、なんて言えないでしょう」
「何事にも一生懸命過ぎるから、もう少し肩の力を抜きゃあいいのにって、思うわけよ」
スメラギとロックオンから交互に言われ、なるほどなぁとアレルヤも頷く。
「確かにそうですね。ティエリアは真面目の塊だ」
「そうそう。全部に一生懸命で真面目で一直線過ぎるから、何かにぶつかったときに、その反動も大きいんじゃないかって考えてしまうの。もちろんティエリアだけじゃなくて、あなたたちのことも心配。でも心配ばかりしていても、何の解決にもならないでしょう。だからちゃんと見ているわ。あなたたちのこと。安心して」
戦術予報士の声音は、アレルヤとそしてロックオンの胸にも、静かに染み込んだ。



誰も居ない通路で、ロックオンは壁に背を預け立っている。彼の先にあるものは、アクセスルームの扉だけだ。
アクセスルーム―――通称ヴェーダルーム。
ソレスタルビーイングの量子型演算処理システム、ヴェーダと接続するためのこの部屋に入ることが出来るのは、不思議なことにティエリアただ一人だ。何故彼だけが入ることが出来るのか、何故彼しか入ることが出来ないのか。この部屋に入ることが、何故彼にしか許されていないのか。
その理由を確実に知るのであろうスメラギとモレノからは、「ヴェーダ大好きなティエリアのための特別室」という返答になっていない返答をもらったことがある。
だがその返答は、ティエリアにとってのヴェーダの位置をロックオンに教えてくれた。人よりも機械へ心を向ける子供。そして今、ティエリアはアクセスルームに居る。
(この部屋に篭って、一体何してんだろうねぇ・・・)
ミーティングが終わり、アレルヤと共にブリーフィングルームを出たロックオンは、格納庫へ向かった。定期メンテナンスのためイアンに預けていた、デュナメスのサポートAIロボットのハロを、受け取りに行くためだ。
慣れた重みを両手に収めるべく格納庫へ向かっていた足は、通路を横切るティエリアの姿に止まった。ロックオンが居ることに気付いた様子もなく、ロックオンが居る通路とは違うそこを漂っている。紫の髪をふわりと宙に浮かせ進む通路を、ふいに左へ折れた。
あの先は。
見えなくなった少年に、ロックオンは首を傾げる。個人の部屋があるブロックでもなければ、食堂とも離れている。ブリッジとは逆方向だ。だから、あの先は。
ティエリアが向かった場所が分かって、ロックオンは「引きこもりの時間ってことか」と揺れる紫の髪を見送ったのが一時間ほど前のことだ。
「あーあ、本当にこの中で何やってんだ?つーか、俺も何やってんのかねぇ・・・」
温かみのない壁に背を預けて一時間。アクセスルームに入ったティエリアが、外に出てくるのを待って一時間。
どうして自分は、眼の前の扉が開くのを待っているのだろう。待っているとはいえ、アクセスルームから出て来たティエリアに、何を言えばいい?
自分の行動理由が分からないまま、ここに居る。なのに、ここから動きたくなかった。もし理由をつけるとするならば、さきほどのスメラギの科白が大きい。

―――ちゃんと見ているわ。あなたたちのこと

これから幕を開ける戦いへの不安を、完全に取り除くことは難しいが、彼女の言葉は心に響いた。誰かが自分のことを見ていてくれる心強さは、仲間がいるから得られるものだ。
が―――。
ティエリアにしか入ることが出来ないアクセスルームに入っている彼に、どれだけ仲間を想う気持ちがあるのだろう。彼だけしか許されていないこの部屋で、彼だけが抱えているかもしれない何かを、吐き出しているのだろうか。
何より自分は、ティエリア・アーデという子供を、ちゃんと見ていることが出来ているのだろうか。
まだ何も分かっていないのだ。ティエリアの表面の部分しか、まだ分かっていない。
相手のことを知りたいと思うから、一緒に居るときは気軽に話しかけるが、ティエリアからの反応は薄い。必要なことには舌が滑らかに動くが、興味のないことや機嫌が悪いときは唇を動かそうともしない。出会ってからそれらのやり取りに、何らかの変化があるわけではないのだけれど。
変化が起きたのは、ロックオンの心の片隅であり、それが少しずつ大きくなっていることだ。この感情に名前を付けるとしたら、やはり気になるになってしまうのだが、それだけでは言い表せないものが、確実に芽生え始めている。
時折、ぼんやりとしている視線を見つける。休暇中に起きた、あのテロ以降から見るようになったそれは、本当に時折のことだ。時折ではあるが、刹那は既に三度、ロックオンも二度見ている。
だが、他のクルーから同様のことは聞かない。もしかしたら、同じ場面に出会っていても「珍しいことがあるな」と思うだけで、特に疑問を抱くことをしていないのかもしれない。だからといって、自分が気にしすぎているとは思えないのだ。
「・・・やっぱ、あのテロのことが原因ではあるんだろうな。あいつの中で、一体何が起きているんだ?」
ロックオンの独り言は、半重力の通路に落ちる。開く気配のない扉は、ヴェーダを盲目的に信じる子供の心のようだ。他人を寄せ付けない境界線。それを崩すことが出来れば、本当のティエリアに出会えるはず。
閉ざされたままの扉を睨んでいると、メディカルルームの主の声が、ロックオンの耳に入って来た。
「ロックオンか・・・」
「・・・ドクター」
扉とは逆の方向へ首を動かせば、白衣の男が掴んでいたリフトバーから手を離し、ロックオンのすぐ近くに足を下ろす。
「お前さんとここで会うとは、珍しいな」
「ドクター・・・、どうしてここへ?」
「お姫様の様子見だ」
モレノはロックオンの正面の壁の前に立つ。それほど広くはない通路を挟んで、お互いの顔を暫し見る。
「お前さん、ここには良く来るのかい?」
「頻繁に来るってことはないけどね。偶然、あいつがこの部屋に入るのが分かったからさ。もう一時間閉じ篭ってるよ」
「ということは、お前はここに一時間居るってことか」
「暇だな、とか言うなよ。軽くへこむ」
「ははは・・・。そうは言わんが、一途なものだな」
サングラスの奥で笑うモレノに、ロックオンも同じ問いを返した。
「ドクターは、良く来るのか?」
白衣のポケットに両手を入れるモレノは、この場から動く体勢とは遠い。アクセスルームの様子見は本当であろうが、ロックオンと会ったことで暫し足を止めることにしたようだ。
モレノはロックオンのティエリアに対する気持ちを知っている。想いと呼ぶには曖昧だが、他の仲間とは違う方向性を持つ熱だと、ロックオン自身も気付いている。
だからなのだろうか。お互いがあまり会うことのないシステムルームの前という場所で、モレノはロックオンとこの部屋の主について、話をしようとしている。そういう態勢に、モレノが入ってくれたのだとロックオンは思った。
「・・・なぁ、ドクター。訊いてもいいか?」
「私に答えられることなら、何でも」
「じゃあ訊く。前にも訊いたが、改めて訊く。何でこのアクセスルームには、ティエリアしか入れないんだ?ティエリアしか入ることの出来ない部屋があること自体、不自然だろ?」
ティエリア専用の、ヴェータへのアクセスルーム。ヴェーダへアクセスを行うことは、各自の端末から可能だ。ただし、膨大な情報の塊であるヴェーダへのアクセスは出来ても、そこには権限が存在する。アクセスレベルと呼ばれるものだ。
ヴェーダが持つ情報は、レベル1からレベル7までに分けられており、数字が大きければ大きいほど、機密度の高いものだ。例えばマイスターの個人情報は、レベル7になる。ロックオンがヴェーダへアクセスを行っても、引き出せる情報はレベル2までのものだ。どれほどの情報を機密扱いしているのか、ロックオンにはレベル1とレベル2の差が分からない。戦術予報士のスメラギでさえ、レベル3までの権限しかないと聞いている。
ならば。
ならば、ティエリアはどうなのだろう。
ティエリア専用のアクセスルーム。彼は戦術予報士以上の、ヴェーダへのアクセス権限を有している?それとは別に、ティエリアにしか出来ない何かが、この中で行われている?
ロックオンの言いたいことなどお見通しだというように、モレノには余裕がある。しかしモレノは、簡単に答えを提示してはくれない。
「それを知ってどうする?」
「知りたいから訊くんだよ。ティエリアに訊けば、答える義務はないとか言われそうだしな」
「なるほど。確かにティエリアなら言いそうだ。ならば、何故知りたい?別にこの部屋にティエリアだけしか入れなくても、お前さんたちには問題なかろう」
「そりゃあ、問題はないけどさ。でもよ、トレミーの限られた空間に、たった一人のための特別室があるんだぜ。それって、あいつとヴェーダの関係が、凄く重要だって言ってるようなもんだろ。俺たちには、ヴェーダへのアクセス権限はレベル2までしかないが、あいつは違う。違うと思う。仮に俺たちと同じアクセス権限しかないとしても、あいつにはこの部屋がそれだけ特別だってことだ。俺は、その理由が知りたい」
ロックオンは、モレノからの答えを期待してはいない。いくら自分が、ティエリア個人を仲間というだけではない別の感情を抱き始めているとしても、モレノから見れば全てを託すにはほど遠いのだ。だから、ロックオンは自分の本気を見せる。モレノとスメラギだけが知るティエリア・アーデを、自分も受け止められるように。
「だいたい、ティエリアだけしか入れない部屋ってだけで、秘密がてんこ盛りだぞ。この部屋に俺たちが知る必要のない秘密があったとしても、それは二の次だ。俺には、ティエリアがヴェーダにアクセスするためだけに、この部屋に入るんじゃないと思えるんでね。ミス・スメラギのように戦術プランを考えるなら、長時間ヴェーダとアクセスするのも分かるさ。でも、ティエリアは戦術を考えるわけじゃないだろ。なのに、良くここに篭る。単にアクセスするだけじゃない理由があるんだろうなって、思うわけよ」
硬い口調を少し削ぎ落とし、ロックオンは自分の考えを主張する。モレノが認める立場に近づくために。
「まぁ、あの子が特別ということもあるからな。アクセスルームへの入室権限は、ティエリアだけが持つ。お前も言っていたじゃないか。ティエリアとヴェーダの結びつきのことを・・・」
「だから特別だってか?俺は、何でもかんでもティエリアは特別だってだけで、済ませたくないんだよ。じゃあその特別の意味は何だってことにもなるだろ。俺はちゃんとした理由が、知りたいんだよ。でもこれは、俺が見つけることだよな。分かってるさ。訊きたいことへの欲が出た」
僅かに眼を伏せるロックオンに、モレノは口元を緩ませる。

―――何でもかんでも、ティエリアは特別だってだけで、済ませたくないんだよ

なかなか良い反応だなと思う。トレミーのクルーならば、アクセスルームへ何故ティエリアだけしか入ることが出来ないのか、疑問に思っていることだろう。ただ、疑問止まりなのだ。ティエリア・アーデは特別、という認識があるからなのか、誰も表立って疑問を口にはしない。
ティエリアは入室出来るが、自分たちは出来ない。出来なくても問題があるわけではないから、ヴェーダ大好きなティエリア専用にしたのだろう、という単純な式が公認されている。しかし、ロックオンはその単純な式に、納得していないのだ。
ヴェーダは機械だ。入力された情報を元に戦術を組み、ソレスタルビーイングの未来を示す。巨大なコンピューターではあっても人工知能はないから、当然人とのコミュニケーションは取れない。学習機能のある演算装置。人の心や感情に似たものがあるはずではないのだけれど。
モレノとスメラギは、ソレスタルビーイングの中でも、ほんの一握りの人間しか知らない事実を、ヴェーダから与えられた。モレノの場合は、医師ということが大きく関わっている。彼は事前にある程度の情報は与えられていたが、ヴェーダは全てを教えてくれた。スメラギに関していえば、ヴェーダが彼女を選び、その事実を与えている。
ヴェーダからの一方通行。
だがそれは、ヴェーダ、否、イオリア・シュヘンベルグの願いなのかもしれない。
ソレスタルビーイングの、壮大な計画のための更なる計画。そこに含まれているティエリア・アーデ。
二百年前のイオリア・シュヘンベルグが未来へ託した、願いと想い。ヴェーダにもちろん感情はないが、判断をしたのだ。形としては、託すと同じになるのだろう。
モレノとスメラギはヴェーダの判断で、ほんの一握りの人間に選ばれたが、ロックオンは自ら二百年前の男の願いへ近づいた。ソレスタルビーイングが内側に抱える闇の部分へと。
ヴェーダは何も言わないが、ロックオンをマイスターに選んだ時点で、既にこうなることを予測していた可能性がある。モレノには、そう思えて仕方がないのだ。
いつか、ロックオンが知ることになる闇に、伸ばし始めた手を止めないで欲しいと思う。イオリアも、きっとこんな気持ちを抱いていたに違いない。そうでなければ、モレノもスメラギも知ることのなかった闇だ。
「ロックオン、ティエリアは特別なんだよ。今は特別としか言えないがね。そして子供だ。子供は大好きな存在に、甘えたくなるだろう」
「大好きって言っても、ヴェーダは機械だぜ」
「機械であろうが、大好きなことに変わりはない。子供は大好きな存在がより近ければ、それだけ安心するし、落ち着きもする」
「だからここに篭るって?」
「そういうことだ」
そういうことねぇ、とロックオンは納得が出来ないとばかりに肩をすくめる。当然だ。納得が出来る説明になどなっていない。すまないな、とモレノは心の中で呟いてから続けた。
「ティエリアが特別ということは置いておくとして、あの子は本当に子供なんだよ。ヴェーダばかり見ているから余計にな。だから、思ったことを口にする。自分が発した言葉で、相手が傷つくなど考えてもいないし、分かってもいない。あの子はお前たちを怒らせることも、傷つけることも少なくはないはずだ。特にファーストミッション後は、それが顕著に出るだろうな。もしかしたら、それが原因で、お前がティエリアを嫌いになるかもしれない。苦手になるかもしれない。でも出来ることなら、ティエリアから離れず支えてやってくれ。好きになれとは言わんよ。仲間意識で充分だ」
モレノはロックオンに期待をしている。個人的な感情の押し付けを吐き出していると分かっているが、一人の子供へ向けた願いを止めることは出来ない。親から子への愛情に近い。そんなモレノの気持ちをロックオンも理解をしたのか、彼は穏やかな声を発した。
「なぁドクター。俺は仮定の話は好きじゃないんだ。後悔をすることがないとは言い切れないが、俺がティエリアを嫌いになることはないと思うぜ。たとえ何があっても、何を言われてもな。もちろん怒ることはあるさ。人間だからな。お互い感情をぶつけ合って、お互いを曝け出せればいいんだろうけど、それはそれで大喧嘩になりそうだ」
眼を細める男に、モレノは厚い信頼を覚える。神の巡り合わせと言ったら、笑われるだろうか。
「なーんてな。俺はあいつのことがちゃんと見えているのか、自信があるようでないのがホントのところだ。けどな、諦めたりしないさ。俺は諦めが悪いんでね」
「そうだな。私も諦めは悪い方だよ。お互いやっかいな性格だな」
「まったくな。けど、あいつ相手だから、ちょうどいいんだよ」
二人は扉を見つめる。その向こうに居る少年へ届いて欲しい想いを秘めて。
戦いが、始まる。