世界を支配し、人類の頂点に立とうとしていたイノベイターを倒してから四年。再びの四年だ。 その月日の流れに、ティエリアは青く澄んだ広さを見上げる。 ―――あなたがいなくなって、もう八年になるのですね 緑豊かな小さな町に住み始めて、二年が過ぎようとしている。ソレスタルビーイングのガンダムマイスターとして二度目の戦いの終焉を迎えた時、生きているのが不思議なほど、体は大きな傷を負っていた。 イノベイターの手中にあるヴェーダの奪還。ティエリア自身がそれを行い、戦いに終わりを告げる金を鳴らしたと言ってもいい。ただし、ヴェーダを奪還する際に対決した相手から負わされた傷は、予想以上に大きかった。ティエリアを撃った相手――リボンズ・アルマーク――が、彼の死を疑いもしなかったほどに。 けれど。 ティエリアは生きていた。生きていたのだ。体の痛みさえ感じない、底なしの暗闇に引っ張られながらも、必死でヴェーダとのリンクを復活させた。そこまでの記憶はしっかりあるが、後は曖昧であり闇の中だ。気が付いたら、ベッドの上だった。 二度目の戦いの終わり。四年前と比べて、世界がどの方向に歩み出すのかは分からない。が、アロウズ部隊が消えたことを知った時、すきなくとも統一国家という名の巨大な集合体は、新しい政府を作り始めたのだろうと思った。 そう―――ソレスタルビーイングの戦いは、終わった。終わったのだ。 ただ、実感が伴わなかったのは、暫くベッドの住人と化していたからなのかもしれない。体の傷が癒えるまで、時間を要した。同時に漠然とした恐怖に、体が侵食された。否、漠然ではない。本当は分かっていて、眼を逸らした事実だ。ベッドの上から見つめる、白い天井。それほど広くはない病室の中で、時計の針が刻む音が怖かった。 怖くて怖くて怖くて怖くて・・・。 宇宙にあるソレスタルビーイングの拠点は、アロウズの襲撃を受けて散ってしまったラグランジュ3のものだけではない。規模は小さいながらも、ラグランジュ3にあったものと同様の人工物は、ティエリアの体の傷を癒すだけの設備がある。最後の最後まで、イノベイターとの激戦を繰り広げた刹那たちも無傷には遠く、治療用カプセルに入ったのは言うまでもない。 ティエリアは。 一年間、カプセルの中で眠っていた。銃による大量出血と内臓損傷。その状態でヴェーダとリンク。リンクというより体も心もヴェーダと一体化、云わば融合したのだ。ティエリアは頭のどこかで思っている。 自分はヴェーダと繋がるのとほぼ同時くらいで、本当は死んだのではないのかと。 けれど、今、こうして生きている。声を発し、音を聴き、色のある世界を見ている。カプセルでの一年間を経ての、生だ。 ティエリアの体の特殊さを知っているのは、ソレスタルビーイングであっても実に限られている。 が―――。ティエリアは、彼のことを考える。同じ屋根の下で暮らす男は、ティエリア・アーデの特殊さに気付いていたのだろうと。 生体端末。 母親の胎内を知らず、羊水に似た液体の中で生み出された存在。 ヴェーダがあり、ティエリア・アーデのことを知る者がいれば、それは実現するのではないか。 再生―――である。 傷つき、機能は停止したとしても、肉体はあるのだ。不可能ではないのかもしれない。それとももう一度、ティエリア・アーデを創り出したのだろうか。 二度目の終わりから地上に下りて、体調を崩すことが多くなったように感じる。元々宇宙生まれで、宇宙空間しか知らないのだ。地上の気候に体が悲鳴を訴えたこともあるが、今ほど多くはなかった。 だから、考えてしまう。この体は、再度造られたものではないのかと。 だから、恐怖が沸き起こる。変わらない姿。外見年齢なら十六歳くらいの少年のまま、既に十年の月日が流れている。ヒトではないのだと痛感する。ヒトではないから、考えなくてもいいことを考えてしまう。悪循環だ。 繰り返される毎日の中に浸ってしまえば、その恐怖が頭の隅で小さくなっている。忘れているわけではない。急激に強く、そのことに体が縛られる時がある。例えば、今のように―――。 一緒に暮らしている男の代わりに、一昨日からライル・ディランディがこの家の暫しの滞在人となっている。男は一年に二度、懐かしい故郷の様子を見に行く。それは隣国の皇女に会うためでもある。約二週間、この家を留守にする男の代わりに、ライルが一人になってしまうティエリアの保護者的な立場で、ここの短い住人となる。 ティエリアが淋しくないように体調面も含めて、かつてのニール・ディランディのように兄貴ぶりを発揮する。男が故郷へ帰る時は、ライルが来る。彼らの決め事のようだ。一人になるティエリアを心配してのことだと分かるし嬉しく思うが、心苦しく感じるのも事実だ。 一人でも大丈夫。一人でも大丈夫。たった二週間ではないか。そんなに心配することはないのだ。手を伸ばさなくても大切な人たちがいる現実は、とても嬉しいけれど、もう少し先の未来には―――。 ティエリアは未来から逃げるように、ぎゅっと瞳を閉じる。夏の夜の暑さを和らげるために、開け放した窓からふうわりと風が入り込む。緑の香りを運んで来たそれに、閉じていた瞼を開く。静寂。 二人ではちょうど良い広さの家でも、一人では当然のように広すぎるのだろうか。 二人ではちょうど良い室内を包む音も、一人ではその音すら聞こえないのだろうか。 ティエリアにとって、未来は怖いことばかりだ。一人でも大丈夫だなんて嘘だ。たった二週間でも、一人にはなりたくはない。一人にはなりたくないのに、この先に待つ未来は、それを許しはしないのだ。 ソファの上で、膝を抱えて丸くなる。一年に二度会うライルは、確実に年齢を重ねているのだと分かる。ライルはもうすぐ三十四歳になる。共に戦っていた時は、これほど深い繋がりを持つことになるとは思わなかった。特に男とライルの関係は、ティエリアには分からない深さがある。そうでなければ、短いとはいえ男が旅に出ている間に、ライルをここに呼びはしないだろうし、彼もそれに応えはしないだろう。それだけの月日が、年齢を重ねた分の時間が、流れたということだ。 しかしティエリアは。 流れた月日も深くなった繋がりも実感を伴っているのに、変わることのない姿でここにいる。外見ならば十六歳くらいの少年の姿のままずっと・・・。 抱えた膝に、顔を埋める。今日はやけに未来の恐怖に縛られる。何故だろうと考えるまでもなく、理由は分かっている。 今朝早くにアレルヤから「子供が産まれた」と連絡が入った。アレルヤとマリーの子供。男の子だという。彼らから、子供を授かった、と言われた時は純粋に嬉しかった。彼らは幸せなのだと思えて、嬉しかった。それなにの。 両親の幸せを受け継いで、この世に産まれて来た小さな命が、突然恐怖の対象となった。その小さな命も、いつかはティエリアを置き去りにして、大人になる。子供は、大人になる。未来へ未来へと刻まれる時の中で、自分だけが流れに逆らう異端者だ。 何のために、誰のために生きているのだろう。二度目の戦いで、異端者たちは戦火の中に消えていった。彼らは倒すべき敵だった。 ならば自分は。 彼らと同じ自分も、消えるべきだったのだ。ヴェーダを取り戻せるのは、自分だけだった。ヴェーダと直接リンクが出来る自分だからこそ、あの場所に行った。 そう、ティエリア・アーデはヴェーダと一体化したのだ。きっとティエリア・アーデの役目は、そこで終わっている。役目を終えれば後は消えるのが、ヒトではない者の定めだ。造られた存在とは、そういうものだ。 でも、今、こうして生きている自分がいる。 一年間、治療用カプセルで眠っていたと教えてくれたのは、目覚めてから常に傍にいる男からだ。一緒に生きようと言ってくれたのは男で、その手を取ったのはティエリアだ。 男の逞しくも優しい腕に包まれて眠るのは、嫌いではなくて。男が与えてくれる愛情も温もりも、嫌いではなくて。 嫌いではないものが、増えることも怖い。一度体に染み込んだ愛しさは、簡単に手放すことも忘れることも出来はしない。もし生きていなければ、こんな怖さも辛さも知ることはなかったのかもしれないと思う。知らないままヴェーダの一部になったのだろうと。 それでも。 男と一緒に生きたいと思う。差し伸べてくれた手が、嬉しかった。生きよう、と言ってくれたこと自体が、ティエリアの宝物だ。 ふいに熱くなった眼の奥をやり過ごすため、膝に顔を埋めたまま大きく息を吐く。ざわめきが大きくなる心を、無理矢理押さえ込む。せっかくライルが来てくれているのに、涙など見せたくはない。 「どうした?寝ちまったか?」 頭上からの声に、ティエリアはゆっくりと顔を上げる。風呂から出たライルが、乾ききっていない髪のまま、ティエリアの横に腰を下ろした。 「なんだ、まだ寝てはいなかったのか。もし寝てたら、お前を人間抱き枕化して、同じベッドで朝までコースだったのになぁ」 にまりと笑うライルから、ティエリアは眼を逸らす。微かに滲んだ視界に気付かれないよう、不機嫌な声で応える。 「・・・まだ眠くない」 「そうか?まぁ暑いけど、ソファで寝るなよ。窓も開けてあるし、風邪引くぞ」 昼間の暑さは夜になっても残ってはいるが、この街は緑も多く山も近い。外から流れてくる風は心地良いが、さすがに窓は閉めてもいい時間だ。ティエリアはソファから足を下ろし、窓へと歩む。夏の匂いを肺にいっぱい吸い込んでから、観音開きのガラスを閉めた。 「・・・僕は、こんなに暑い夏でも、窓を開けたままとか関係なく、体調を崩すことが多くなった・・・」 夜空に浮かぶ星の輝きを眼で追いながら、ティエリアはぽつりと零す。 「何故だろう・・・。確かに以前も熱を出すことはあったけれど、これほど多くはなかったのに・・・」 「そうか?俺だって夏風邪くらい引くことはあるぞ」 「でも・・・!」 勢い良く、ティエリアはライルへと向き直る。絡まる視線。しかし直ぐに、ティエリアは眼を伏せてしまった。 「・・・でも、季節の変わり目や肌寒い日が続くと、直ぐに体調に出てしまう。カプセルで一年も眠っていたのに、体は前より弱くなったみたいだ・・・」 俯くティエリアの語尾が、小さくなる。ライルは溜息を吐くと、ソファから立ち上がり、顔を上げない少年の肩を抱き寄せる。出会った頃と変わらない、細い肩だ。 「急にどうした?風邪なんぞ、人間誰しも引くぞ」 ライルの腕の中で大人しくしているティエリアだが、何も応えてくれそうにはないし、顔を上げてもくれない。どうしたものかと暫し考えてから、濃い紫の髪をあやすように撫でた。 「人間なら誰だって体質があるから、風邪を引きやすい奴なんて、沢山いるぞ。季節の変わり目は、特に温度差があるからな。体調崩すのは当たり前だ」 「でも僕は―――」 「・・・では次に、アザディスタン王国で開催されている、平和会議についてです」 ティエリアが全てを言い終える前に、電源が入れられたままのブラウン管から聴こえて来た声が重なった。 アザディスタン王国。その国の名に、ティエリアの体が反応する。ライルの腕からするりと抜け出し、床に敷かれているラグの上にペタリと座る。 長い黒髪を後ろで一つに束ねた美しい女性が、柔らかく微笑んでいる。アザディスタン王国、マリナ・イスマイール。 ティエリアもライルも、彼女と出会ったのは、あの戦いの中でのことだ。二人にはほんの少しの交わりしかない彼女だが、今ここにいない男にとっては違う。男――刹那・F・セイエイ――にとっては、とても大切な人だ。中東諸国代表の一面も持つ彼女は、経済大国の首脳たちと並んでも、決して弱腰ではなく、己の意志を曲げることはしない。美しく強い女性だ。四角い画面の中央には、記者に囲まれた彼女が映る。 「・・・このお姫さんは戦後復興の象徴だよな。初めて会った時は、なんとなく頼りない感じがあったけど、強くなったよなぁ。顔つきが違う」 若くして国の当主となった女性だ。その道が決して平坦ではなかったと、ライルもティエリアも知っている。もちろん全てを知っているわけではないが、故国を想う彼女の心を知っている。 「刹那が出かけて三日・・・。まだマリナ・イスマイールには会ってはいないだろうか・・・」 「そうだな。まだ三日だからな。あっち側に合わせて刹那は行くんだろ。こういう大きな会議の後に会うんじゃねぇの?半年振りだし、いろいろ話もあるだろうし、やっぱ姫さんは嬉しいだろうし・・・。刹那も彼女のことは気になるんだろうよ」 刹那とまりなの関係の始発点を、ライルは知らない。多くを語らない青年だが、二人の出会いが偶然だったというのは聞いた記憶がある。偶然であっても何でも、小さなきっかけは刹那とマリナの道に接点を与えたのだ。 ソレスタルビーイングとして二度目の戦いを終えた刹那は、故郷を見つめる旅と同時に、マリナに会いに行く。多忙な彼女を気遣い、短いながらも直接会い話しをする。きっと、彼女も刹那の前では皇女ではなく、一人の女性の顔になるのだと容易に想像が出来る。男と女。刹那の法がマリナより年下だが、恋人になってもおかしくはない二人だ。 けれど、彼らにそういう甘さはない。同士なのだ。 小さな子供の小さな手に、銃があってはならない。弾圧は紛争を繰り返す国であってはならない。命の尊さと、人を助ける優しさ。口にするのは簡単だが、とても難しいそれを望む同士。 刹那とマリナが纏う関係は、これからも変わらないのだろう。 ニュースキャスターが、新たなニュースを伝え始めた。黒髪の姫君はブラウン管から消えているが、ティエリアは座り込んだラグの上から動かない。 ライルは首を傾げる。 今日は、ティエリアの様子がどことなくおかしい。それほどおじゃべりをするわけではないが、今日は随分と口数が少ない。何か悩み事があるのだろうか。 この街に住み始めてから、ティエリアは高校へ通っている。今は新しい学年になる前の、夏期休暇中だ。刹那はティエリアの休みとマリナに合わせて故郷へ帰り、ライルは自分の夏期休暇申請を刹那と合わせている。 四年前に幕を下ろした戦い。四年前は、戦いの当事者だった。 ガンダムマイスターとして、多くの血を流していた四年前には考えてもいなかった、今という日常。ライルたちは、民間人の一人だ。命を預け合った仲間たちだけが、お互いの過去を知る。 ソレスタルビーイングは、その組織自体がなくなってしまったわけではない。四年前と変わらず、組織としてひっそりと機能し続けている。 が、ライルたちはソレスタルビーイングから離れた。己の手が握り締めるものは、モビルスーツの操縦桿でも銃でもなく、愛する人の手でありたい。 刹那は―――ティエリアと生きたいのだと言っていた。ティエリア・アーデと、これkら先の人生を共に歩みたいのだと。 多くのものは望まない。小さな世界で、幸せだと感じるものを積み重ねたい。 刹那が抱いた願いは、ティエリアがカプセルで眠っている時から、何度となくライルに語られた。そして必ず、すまない、とライルに謝るのだ。 何故謝るのかなど訊かなくても分かる。刹那はライルから恋人を奪ったのだ。否、奪うというよりも、戦いを終わらせるために選ばなければならない現実だった。だとしても、ライルに出来るはずのない選択を刹那が背負うことで、彼女の命は散った。 気にするな、とは言えないし言わない。 ライルから、愛すべき命が奪われたのは事実だ。 けれど。 あの時の、どうしようもない激情は、戦いの中に置いて来た。刹那が背負い続けている引き金の重みを理解こそすれ、恨みも哀しみも戦場だった宇宙空間に置いて来た。 何故なら―――。 刹那・F・セイエイの慟哭を、初めて聞いたからだろう。 忙しなく画面が変わるニュースを、見ているのかいないのか、ぴくりとも動かない少年の背中を見つめる。 ―――助けてくれ・・・!! ―――ティエリアが・・・早く・・・!! あまり表情を変えることのない男の泣き叫ぶ声を、ライルは忘れはしない。 真っ赤に染まったパイロットスーツ。弱い弱い鼓動。真っ白な頬と、閉ざされた瞳。ヴェーダ奪還の場で何が起きていたのか。消えようとしている灯火が、その何かを物語っていた。 ―――生きるんだ、ティエリア! 男は少年に叫んでいた。己が負った傷を気にすることもなく、少年をこの世界に留めさせるため、必死に叫んでいた。 あれから四年。助かる可能性を神に祈るしかなかったほどの少年は、今ライルの眼の前にいる。カプセルの中で一年。リハビリに一年。生きるんだ、といった男の想いが少年を目覚めさせた、と言ってもいいのかもしれない。 ライルは、彼ら二人が二人だけに分かる幸せを手に入れられるのなら、それでいいと思っている。銃を持つ日々ではなく、ごく普通のありふれた生活を望んだ彼らが笑ってくれるのなら、ライルも笑える。 そう、笑えるのだ。それなのに、今日はどうしたと言うのか。相手の気持ちが分からない。何を言えばいいのか、分からない。溜息が漏れる。テレビからの音しか聞こえない中で、先に声を発したのはティエリアだ。 「・・・ライルは・・・」 「ん・・・?何だ?」 「・・・ライルは・・・結婚しないのか・・・?」 少し頭を下げながら言うティエリアに、ライルは一瞬ぽかんとする。唐突な質問は、話しの先が見えない。 「結婚・・・?俺の結婚?いきなり何だ?」 「・・・アレルヤとマリー・パーファシーは結婚した」 「アレルヤとマリーねぇ。あいつらが結婚したのは、二年も前だろ。何だよ、急に」 「結婚・・・しないのか?」 重ねて同じことを問われ、ライルはまいったなと思いながら、胸の内を正直に伝える。 「俺は結婚しないよ。あいつが・・・アニューがいるからな。あいつも俺のこと、向こうで待っててくれる」 アニュー・リターナー。音にすると痛みを伴う響きに、ティエリアがゆっくりと首を動かしライルを見た。 「アニュー・リターナー・・・」 「そうさ、アニューだ。もうこの世界にはいないけど、俺が愛しているのはアニューだよ。だから他の誰かを愛することはない」 「そう・・・」 再び俯くティエリアの紅い双眸が揺れたことに、ライルは気付く。なきそうな色がそこにある。ライルはティエリアと同様にラグに座ると、少年を両手で抱き締めた。 「本当にさっきからどうしたんだ?言いたいことがあるなら遠慮するなよ。ちゃんと聞くぞ」 ライルの腕にすっぽりと納まる体は、四年前と比べると、やはり細い。本人が言う体調を崩しやすくなった原因は、体力が落ちたことも関係があるのだろう。一年間、カプセルで眠っていたことを考えれば、体力面で無理はするなということだ。 が、体調を崩したとしても、それを気にすることはないのだ。刹那にもっと甘えればいい。刹那はティエリアの全てを包み込んでいるのだから。 大人しくライルに体を預けているティエリアの髪にキスをする。肩に顔を埋めてくる少年に、そっと囁いた。 「抱え込んでることは、全部吐き出せ。それとも俺じゃあ、頼りにならないか?」 「違う・・・。そんなこと思ってない」 「だったら、言っちまえ。今日のお前は元気がなかったからな。俺は心配だ」 揺れた瞳を見てしまえば、何もないはずはない。ティエリアを抱き締める腕に少し力を入れてみれば、ぽつりと声が聞こえた。 「・・・アレルヤの・・・」 「ん?アレルヤがどうした?」 「・・・アレルヤの子供が産まれたことを聞いたら、怖くなった」 ティエリアの小さな呟きに、ライルは眉根を寄せる。怖い、とはどういうことだろう。今朝、アレルヤから子供が産まれたと連絡があった。電話を受けたのはライルで、その報せをティエリアに伝えたら、良かったと喜んでいたというのに。 新しい命を喜びこそすれ、怖いなど―――。 ライルはティエリアの言葉の先を促す。 「どうして怖いと思うんだ?子供のことを聞いて、お前も喜んでいたじゃないか」 優しく問う。きっと、怖いと思う理由が、さきほどからの首を傾げたくなるティエリアの言に、繋がっているはずだ。 ティエリアの白い手が、ライルのシャツをきつく握り締める。胸に秘めたものを吐き出すための、勇気を掴むように。 「アレルヤとマリー・パーファシーに子供が産まれたことは、凄く嬉しい。でも・・・二人の子供は、遠くない未来に僕を置いて大人になる。その現実が怖い。ライルも刹那も、僕を置いて行く。僕は・・・一人だ・・・」 「ティエリア・・・」 「僕はそういう存在なんだと、ずっとこのままだと分かっている。ちゃんと理解しているんだ。でも、アレルヤの子供が産まれたことを聞いたら、自分のことを分かっていても怖くて怖くて嫌なんだ」 ライルの肩に額を押し付ける、ティエリアの肩が震えている。 ―――ああ、そうだ。この子供はアニューと同じなんだ イノベイターと呼ばれる者たちがいる。ソレスタルビーイングの創始者、イオリア・シュヘンベルグの計画に含まれていた彼らは、かつて八人いた。ライルが愛した人も、彼らの一人だ。 そして。 ティエリアは、彼らの中の唯一の生存者だ。 イオリア・シュヘンベルグの計画のために造られた存在。人ではあっても、人ではない者たち。彼らは老いを知らず、ティエリアならば少年の姿のまま、未来を行き続ける。その未来が何時まで続くのか、何時終わるのか、知る者はいない。ティエリア自身、分からないのだろう。正に永遠を生きる命だ。ライルには想像も出来ない命の長さである。 「僕はどうしたらいい?僕は・・・僕はあの時・・・ヴェーダとリンクした時に死ぬべきだったんだ。イノベイターの僕は、戦いと共に消えなくてはならなかったんだ。人間じゃない僕に、生きる場所なんかない・・・」 ティエリアの心が、ライルに向かって開かれる。これはティエリアの悲鳴だ。永遠を生きる、人ならざる者の悲鳴だ。 ライルの愛した人も、もし生きていたならば、ティエリアのように未来を怖がったのだろうか。そうだとしても、生きる場所がないだなんて、哀しいことを言わないで欲しい。 「ティエリア」 この子供がアニューと同じ存在だと知ったのは、深く深く傷ついてカプセルに横たわる姿を見ていた時だ。カプセルに入ったからといって、必ず目覚めるとは限らない。そんな不安を誰もが持っていた。 力なく眠る彼を見ているのは辛い。目覚めろ、目覚めてくれと声にならない声を、カプセル越しに送り続けていたライルに、刹那が言ったのだ。 ―――ティエリアは、アニュー・リターナーと同じだ 人ならざる彼ら。人工的に造られた命。それでも、そんなことは関係ないのだ。共に戦った仲間としての時間を、無かったことには出来はしない。 これからの未来を一緒に生きたいと望む刹那は、だからライルに謝っていた。ライルに対して、アニューに対して、すまないと繰り返し謝っていた。 ライルも刹那も。 人とは少し違う彼らを愛したが、それが何だというのだ。失いたくはない、世界で一番愛しい人。 アニュー・リターナーはもういないが、ティエリアは生きている。これも運命の一つ。生きてくれた命を大切に想うのは、刹那だけでもライルだけでもない。 「ティエリア・・・。お前の生きる場所は、ちゃんとあるじゃないか。それを否定するってことは、刹那だけじゃなくて俺らも否定するってことだぞ」 「・・・刹那は、マリナ・イスマイールと生きた方が幸せなんだ。彼女は・・・きっと刹那と生きたいと思っている」 「だからさ。お姫さんのことじゃなくて、お前はどう思ってんの?刹那と生きるのは嫌か?刹那と生きたくはないのか?」 尋ねるライルにティエリアが、違う、と首を横に振る。 「違う・・・!僕だって刹那と生きたい。あなたとだって、アレルヤだって・・・一緒がいい」 「うん、素直に言えるじゃねぇか。それでいいんだよ」 「・・・でも、やっぱり駄目なんだ」 「駄目じゃねぇよ。未来が怖いなら、もっと刹那にしがみ付け。刹那はお前を選んだんだ。怖がることなんかねぇんだよ。それにな、怖いなら怖いってちゃっと刹那に言わなけりゃ、お前が辛いだけだぞ」 ライルはティエリアの両肩に手を置くと、少しだけ彼の体を自分から離す。俯く顔を覗き込んで、脆い脆い子供の心を護るように言葉を紡ぐ。 「俺たちは、お前が生きていて嬉しい。お前を助けることが出来て嬉しい。だから未来を怖がらないでくれ。時間はたっぷりあるんだ。お前が怖がる未来は、きっと変わる。大丈夫だよ。お前のことは、俺たちが全力で護る」 たった一人の、永遠に誓い命を持つ者。未来を怖がる彼を、どれだけ抱き締めても、ライルたちは置いて行く側の人間だ。泣かせてしまうであろう未来を変えることは難しい。だからこそ愛しく護り、どんな形であれ心を強く持てる何かを残したい。 ―――ああ、刹那なら ライルは思う。 何も言わないあの男は、この少年の不安さえ本当は知っているのではないのかと。 そしてあの男は、本当にこの少年を護り切るのではないのかと。 震える背を撫でながら、ライルは今は中東の空の下にいる男を思った。 カーテン越しの朝日に、ティエリアは重たい瞼を上げる。夏の日差しは朝から強い。 自分の心の中で膨らんでいた不安を、ライルに吐き出してから二日。ライルの様子に変わったところはないが、ティエリアは少しの居心地の悪さを感じていた。 助かった命だというのに、助けてもらった命だというのに。 それを「いらない」と、受け取られてしまうような言い方をしてしまった。 なのにライルは、ティエリアを責めることはせず、抱き締めてくれた。力強い腕に縋り、怖い怖いと泣くのは、自分のことしか考えていない証拠のように思える。実際そうなのだ。ライルは自分の気持ちを、刹那に伝えろと言う。けれど、一方的な不安だ。 刹那が何を思い何を考えているのか、分かっているようで分かっていないから、己の処理しきれない感情が処理しきれないまま膨らんで行く。 でも、ちゃんと話しをしなくてはならないことだ。置いて行く者と、置いて行かれる者。立ちはだかる巨大な壁を乗り越える自信は、ティエリアにはない。 のろのろとベッドから起き上がる。寝不足気味の重い頭を引き摺りながら、部屋のドアを開けると―――。 ひらり、と宙に舞う白が眼に入ってきた。 「・・・紙?何だろ・・・」 床に落ちた小さな白い紙を、ティエリアは手に取る。そこには短い文字が、書かれていた。 ―――俺からのプレゼントだ。黙って受け取れ ライル 「プレゼント・・・?」 やや右肩上がりの文字に首を傾げる。まだ眠さが充分に残る頭では、何がプレゼントなのかとか、何故紙に書いてるのかとか、考えることが面倒だ。 ティエリアは階下へと下りる。刹那と二人暮しには広いメゾネットタイプのマンションは、時折高くなる人口密度にちょうどいい。リビング兼ダイニングとなっている、この家で一番広い部屋へと入る。ドアを開けると、肉の焼ける良い匂いがした。カウンター式となっているキッチンは、刹那が出かけている今はライルが主となっている。 寝起きのパジャマ姿ではあるが、ライルも気にしなければティエリアも気にしていない。カウンター越しに、おはよう、と言おうとした唇は、小さく開かれたまま固まってしまった。代わりに紅い瞳が大きくなる。ドクンと鼓動が鳴った。 「せ・・・つな・・・」 ティエリアの唇が、微かに音を漏らす。 キッチンにはライルではなく、中東に居るはずの刹那が、いつもと変わらぬ顔でそこにいた。寝起きの働かない頭をフル稼働させても、現状認識は難しい。 何故?どうしてここに居る?前回もその前も、きっちり二週間の旅だった。戻るなんていう連絡は、受けていない。ライル・・・ライルはどこに? そこまで考えて、ティエリアはライルの文字が書かれたメモを見る。 ―――プレゼント? 刹那がプレゼントだとでも言うのか。でも意味が分からない。 呆然と立つティエリアの視線と刹那の視線が、ようやく重なる。紅の瞳と、茶色がかった紅の瞳は、互いだけを暫し視界に入れて。 無言のままキッチンから出た刹那は、驚きを隠せずに立ち尽くしているティエリアをきつく抱き締めた。 「・・・せつな・・・?」 戸惑いの声が、刹那の名を呼ぶ。ティエリアが訊きたいだろうことは刹那にも分かっているが、あえて自分からは言わない。 「お帰り、とは言ってくれないのか?」 少し笑みを含めてそう言えば、更に戸惑いが返って来る。 「え・・・お・・・お帰り?」 「ああ、ただいま」 「刹那・・・?」 「何だ?」 「ライルは・・・?」 「アレルヤの子供を見てくると出かけた。また戻って来る」 「そう・・・なんだ・・・」 「ティエリア」 「な・・・なに?」 「ティエリア」 「刹那?」 「ティエリア」 刹那はその存在を確かめるように、何度もティエリアの名を口にする。だらりと下げられていたティエリアの両手が、ゆっくりと刹那の背に回った。 六日ぶりの温もりを離したくなくて、刹那は細い体の肩に顔を埋める。 ―――帰って来い。とにかく帰って来い。 ライルからの電話だった。詳しいことは何も言わなかったが、あまりの真剣な響きに、どうしたと尋ねるよりも分かったと頷いていた。 ライルに帰って来い、と言わせるだけの理由など、考えるまでもない。それだけの事実があったことの方が大事だ。 まだ夜も明け切れぬ前に帰宅した刹那を、ライルは迎えてくれた。そこでの短いやり取りとライルの、泣かすなよ、と言う困ったような、それでいて哀しみを伴った響きは、刹那の胸に痛みを意識させた。 共に生きる。 護るように抱き締めた少年の苦しみも怖さも、分かっているつもりではいたのだけれど、結局はつもりでしかなったのだと。だからといって、手放すことなど出来はしないのだ。 共に生きる。 その誓いに嘘も偽りもありはしない。少年のままの彼と、どこまでだって一緒だ。 「ティエリア」 大切な人の大切な名前を、もう一度呼んだ。 「俺にお前の未来をくれないか。俺にお前自身をくれないか」 「刹那・・・?」 「俺は・・・俺は多分、お前と近い場所にいる」 「刹那・・・?何を言って・・・」 「俺とお前で、世界を見続けよう。見続けて見続けて、もう充分だと思ったら、俺たちの物語を終わりにすればいい」 いつの間にか追い越していた身長。肩から顔を上げれば、綺麗な紅は下にある。 「・・・ライルはおしゃべりだ。刹那をここに戻すなんて」 「あいつが悪いわけじゃない。俺が決めて戻ったんだ」 「でも・・・」 見上げてくる双眸は、今にも零れそうな透明な液体で覆われている。ああ、泣かせるために戻ったわけではないのに、やはり泣かせてしまうのだ。 刹那はティエリアの白い額に唇を寄せる。 「食事にしよう。冷めてしまう」 「刹那」 「どうした?」 「さっきの・・・さっきの、僕と近い場所にいるって・・・」 上目遣いに見つめてくるティエリアは、そこにある意味をどう解釈すればいいのか悩んでいるようだ。当然だろう。はっきりと伝えたわけではないが、自分の体のことは自分が良く分かる。多分ではなく確実だということも。 けれど、何れ分かることだ。刹那は眼を細め、笑みだけを返した。抱き締めていた腕を緩め、ティエリアからそっと離れる。 「刹那?」 「ライルは戻ってくるから安心しろ。土産を買ってくるから期待して待っていろ、と張り切って出て行った」 濃い紫の髪をくしゃくしゃっと撫でれば、それ以上は何も訊いてこない。言いたいこと訊きたいことは、沢山すぎるほどあるだろう。それは刹那も同じだ。 けれど、今はまだこのぬるま湯のような日常に浸かっていたい。せめて、ティエリアが高校を卒業するまでは。 その後に、沢山話しをして沢山悩むことも沢山泣くこともあるかもしれないけれど、またそこから始めればいい。 答えも未来も、一つではないのだから。 そのために、共に生きるのだ。 二人がこの街から姿を消したのは、それから一年後、また別の話しである。 |