プトレマイオスには、ソレスタルビーイングの歩む道を示す量子型演算処理システム、ベーダへ直接アクセルが行える部屋が存在する。 ―――ターミナルユニット。 その場所はガンダムマイスターの一人、ティエリア・アーデ専用の部屋といっても過言ではない。スメラギ・李・ノリエガは、ターミナルユニットの扉を視界に入れながら、壁に背を預け立っていた。 ティエリアがターミナルユニットに消えて、既に五時間が経過している。 ヴェーダのデータバンクに無いトリニティ兄弟と、その機体。そして、彼らのスローネと呼ばれているガンダムが搭載している擬似太陽炉。自分たちのことを、ガンダムマイスターだというトリニティだが、スメラギは彼らを知らない。彼女が知らないということは、ヴェーダに無い事実が眼の前にあるということを意味する。何より太陽炉の情報は、ヴェーダの中にしかないものだ。その情報にアクセスできる者は、実に限られている。考えたくはないが、最悪を想定するなら、誰かがヴェーダに不正アクセルを行った結果、生まれた擬似太陽炉ということになる。 トリニティの存在は、スメラギたちに不安を与えた。特にティエリアには、それが大きい。 彼の紅い瞳から、いつもの冷静な強い光が見当たらない。何かを否定するように、揺れる双眸がある。彼女は、ティエリアがヴェーダと直接リンクを行える能力の持ち主であることを、知っている。知っているから、心配になる。 ヴェーダを絶対の神だと、信じている少年に齎された現実。 トリニティがガンダムマイスターだというのなら、彼らのことはもちろん、彼らの機体のこともヴェーダの中にあるはずなのだ。 けれど―――。 スメラギは、閉ざされているターミナルユニットの、扉を睨む。ヴェーダと繋がらない、そう零していた少年は、泣き出す一歩手前の表情をしていた。まるで、母親とはぐれた小さな子供のように、不安を隠せてはいなかった。 ティエリアは今、彼の神に向かって呼びかけている。ティエリアが求める答えを、与えてくれるまで、呼び続けている。食事もほとんど摂らず、体を休めることもせずに。 ターミナルユニットの扉は、ティエリアでしか開くことの出来ない特殊さがあるが、もちろん強制的にロックを解除することは可能だ。しかし、無理矢理そこから出しても、ティエリアが欲しているものが得られなければ、また同じことの繰り返しとなってしまう。きっと、欲している答えは見つからない。それでも、彼が自主的にこの部屋から出てこなくては意味がないから、スメラギは扉の前で待つ。 が―――。 既に五時間だ。そうでなくても、彼は何度となくこの部屋で、ヴェーダに呼びかけている。ティエリアの体のことを思えば、もう待ってはいられない。 「・・・ヴェーダに縋りつきたい気持ちも分かるわ。でもね、私たちは人間だもの。人間に・・・私たちに、泣いて喚いて縋りなさい」 聞こえるはずはないと分かっていても、扉の向こう側にいる少年へ、届かない声を出さずにはいられない。 ターミナルユニットのロックは、ディエリアを通さず外側から強制解除が行えるようになっている。スメラギがそれを実行するべき踵を返すと、彼女に向かって来る男が視界に入った。 「・・・ロックオン」 「よう、ご苦労様だな。ミス・スメラギ」 少し困ったような笑みを唇にのせたロックオンが、スメラギの隣で足を止める。その小さな笑みで、彼女にはこの男がここに来た理由が、簡単に分かった。 「あなたもティエリアのことが心配?」 「まぁ、俺だけじゃなくて、刹那もアレルヤも同じだよ」 「ふふ・・・。そうね、同じよね。みんな、あの子を心配してる」 「そうさ、当たり前のことだろ。で、アイツはまだこの中に居るわけね」 ロックオンの青い瞳がすっと細められ、固く閉ざされた扉へ視線を移す。決して見えない扉の内側では、ディエリアがどんな状態でいるのかも分からないから怖い。 「・・・この中で、アイツが倒れている可能性もあるのか?」 「そうね、可能性としては、否定出来ないわ。もしティエリアの体に何か異変が起これば、ヴェーダから緊急回線が繋がるのだけど、もう待てないもの。だからね、扉のロックを強制解除しようと思うの」 「強制解除か・・・。やっぱ、そうなるよな」 ロックオンの呟きに、スメラギは頷く。 「そう、強制解除よ。本当は、ティエリアが自分から出て来てくれるのが、望ましいの。こっちから強制解除したって、あの子はまたここに来る。自分から出て来ても、きっとここに来る。ディエリアが見つけたい答えに、出会うまでね」 「・・・見つけたい答えか・・・。そんなにしてまで、アイツがヴェーダを信じているのは何でだ?確かにヴェーダは、ソレスタルビーイングの根幹だってことは分かるさ。でも、相手は機械だ。機会は何も応えちゃくれない。欲しい言葉も貰えず、抱き締めても貰えず、アイツはこの中で一人ぼっちってことだろ。余計悪いじゃねぇか」 少し眼を伏せるロックオンは、悔しそうでもあり怒っているようでもある。きっとスメラギと同じ気持ちなのだ。ヴェーダではなく、仲間にその手を伸ばせと思っている。だからロックオンは、ここへ来た。今、言葉にしたことを、実行するために。 「・・・余計に悪いって思っているから、あなたはここへ来た。あの子が欲しがっている言葉を与えて、あの子を抱き締めるんでしょう?」 ロックオンの胸中であろうことを口に出せば、かれは一瞬驚きを表に表したが、すぐに苦笑を零す。 「・・・ははは。参ったな。俺、そんなに顔に出てる?」 「顔に出ていなくても分かるわよ。ここへ来たことが、何よりの証拠だわ。お互い我慢の限界かしら」 「あぁ、我慢の限界だ。ヴェーダが誰かにハッキングされたとしても、俺たちの戦いは終わらない。それに、ヴェーダだけが絶対じゃないってことも、アイツに伝えねぇとな」 言いながらロックオンは、再び開いてはくれない扉を捉える。まるでティエリアの心を護るようにも見えるそれは、けれど少年に何かを与えてくれる存在ではないのだ。 「俺はさ、アイツが欲しい言葉を与えられるかは分からないけど、アイツを抱き締めてやれる。たとえヴェーダが無くても、俺たちは大丈夫なんだって、抱き締めたいんだ」 ヴェーダという殻の中に閉じ篭っている少年に、人の温もりを教えたい。ロックオンの気持ちが、スメラギには良く分かる。ヴェーダとの直接リンクが上手く出来ないことが、彼の脆さを浮かび上がらせる。これほどまでに、と思うほどに脆い。 今はまだ、ヴェーダが第三者に掌握されるまでには、至っていない。が、現状を受け止めるならば、掌握されないとは言い切れない。もし、完全にヴェーダがスメラギたちからの手から、離れてしまったとしたら―――。 考えたくはない、考えたくはないけれど、何かとても嫌なことが起こりそうな予感が、どうしても拭えない。 スメラギは、ターミナルユニットに鋭い視線を送るロックオンを、見つめる。ヴェーダを己の神としている少年の、危うさを含んだ心を護るのは、この男なのだろう。 仲間ではあるが、それとは違う感情を持ち接している。 誰よりも、ティエリアを好きなのだ。 ロックオンは、仲間たちのことを家族と言うことがある。もう二年以上も共にいるのだ。互いが家族のように大切になる。ティエリアに向ける気持ちが、家族愛になるのか、また別の何かなのか、スメラギが判断することではないが。 ティエリアのことは他の仲間とは違うのだと、ロックオンの眼差しから彼女は読み取っている。 二人の間に、暫し流れた沈黙。スメラギがターミナルユニットの強制解除を行うべく、唇を動かそうとした沈黙の先で。 それは、軽い機械音と共に、開いた。 「「ティエリア・・・!」」 二人の声が重なる。 閉ざされた空間から、ようやく姿を現した少年は。 紅い眼を更に赤くして。 透明な雫を、溢れさせていた。 ―――まったく、無茶ばかりをする 深い眠りに落ちたティエリアに、困ったものだと微かに哀しさを滲ませたドクターモレノは、三日間は絶対に安静だと言い残して、少年の自室を後にした。薄い胸を上下させているティエリアの傍には、今はロックオンしかいない。 ターミナルユニットからゆっくりと出てきたティエリアが、力なくその場に蹲るまで、さして時間は掛からなかった。ヴェーダとの直接リンクが、体力的にどれほど疲労するものなのか、ロックオンには分からなかったが、スメラギが言うには普段ならば問題はないということだった。 だが、今は違う。 ヴェーダと繋がらない焦りを、ティエリアは確かに感じている。焦りは精神面での疲労を齎す。充分な睡眠もとらず、立て続けにヴェーダへアクセスを行ったのだ。体が悲鳴を上げるのも当然で。疲労からくる発熱も加わり、ティエリアはベッドの住人と化している。 「ホント、ドクターモレノの言う通りだ。無茶しやがって・・・。お前が無茶しても、お前の大好きなヴェーダは、何も応えてくれねぇんだぞ。分かってんのか?」 ベッド脇に置いた椅子に座り、ロックオンは熱によりほんのり赤く染まっているティエリアの頬を、そっと撫でる。掌から伝わってくる熱さが、彼の必死さを物語っているようで、ロックオンは胸が痛む。 ティエリアとヴェーダ。 人間とコンピューター。 しかし、ティエリアは―――。 きっと人間と呼ぶには収まりきらない、特別な能力がある。その能力があるがゆえに、これほど自分を追い詰めるのだろうか。 ロックオンはティエリアの生い立ちを知らないが、語られることはなくとも一緒に居れば見えてくるものがある。そう、ティエリア・アーデが、ソレスタルビーイングの計画の一つだというのなら、あまり気分の良くはない仮定ではあるけれど、彼がヴェーダに固執する理由も分からないわけではない。けれど、やはりティエリアは人間なのだ。ヴェーダだけが、世界を作り上げているのではない。もっと仲間を、俺を頼れと言いたくなる。 「ティエリア・・・。俺はお前の支えにはならないのか?いつだって俺は、お前の傍にいるのに・・・」 眠る少年に、ロックオンの低い声が落ちる。仲間ではあっても、刹那やアレルヤたちとは違う感情がある。いつから抱いていたのか、自分自身でさえはっきりと覚えてはいないが、心の底からわきあがる想いに嘘はつけない。 だから、ヴェーダへ必死に伸ばしているその細い腕を、自分に向けたい。 そう思うのは、欲張りだろうか。 小さな寝息が流れる、静かな空間。 目覚める気配のなかった少年の瞼が、震えた。 「ティエリア・・・」 ロックオンは、少しだけ椅子からベッドへと身を乗り出す。覚醒を促すように名を呼べば、ティエリアの意識がゆっくりと浮上を始めた。 「ティエリア、俺が分かるか?」 目覚めたばかりのティエリアを驚かせないように、ロックオンは優しく囁く。ティエリアは何度か瞬きをしてから、ぽつりと呟いた。 「・・・ここは」 「ここはお前の部屋だよ。お前、覚えているか?ターミナルユニットから出てきて、倒れたんだ」 「ターミナルユニット・・・」 ティエリアは唇をそう動かしてから、緩慢に首を声の主へ向ける。 「ロックオン・・・。どうして・・・ここに・・・?」 何故ここにロックオンが居るのかと、不思議そうに見上げてくる瞳に、彼は眼を細める。 「お前は俺と、ミス・スメラギの前で倒れたんだ。心配するのは当たり前だろ」 「倒れた・・・?」 「そうさ、覚えてないか?お前、ターミナルユニットに篭りっぱなしだったからな。心配で様子を見に行ったんだよ。ミス・スメラギは、俺よりも早くターミナルユニットの前に居た。俺たちだけじゃない、みんなお前を心配してる。だから無理も無茶もするな」 ロックオンの諌めを含んだ声音を聞きながら、ティエリアは未だぼんやりとした頭で、ターミナルユニットの中でのことを脳裏に浮かべた。 ヴェーダの中に収められている情報に、ティエリアは直接アクセスが出来る。情報を引き出すための機器を必要としない、彼の能力。ヴェーダとの直接リンクを、ティエリアは不思議に思ったことも、疑問に感じたこともない。 けれど。 トリニティ兄弟の出現は、ティエリアはもちろん、スメラギでさえ知らない事実だ。ヴェーダの中に無い事実がある。それを確かめようとしたティエリアを待っていた現実は、ヴェーダからのアクセス拒否であった。 ティエリアがどんなにヴェーダを呼んでも、応えはなくて。 今まで手を伸ばすことなくそこにあった存在が、あまりにも突然、闇に呑まれてしまった。必死に手を伸ばしても、ヴェーダはティエリアに応えてはくれない。トリニティの出現は、ヴェーダのアクセス拒否を誘発したようにも思えて。 ヴェーダの中で、何が起きているのか分からない。分からないから、ティエリアは何度でもアクセスを試みる。彼に出来ることは、それだけだった。なのに、応えはない。 眼の奥に、熱さを感じる。が、その熱さをやり過ごすために、ティエリアは大きく息を吸い込んでから、腕の力で上体を起こそうとした。 「ティエリア・・・」 ベッドの上に起き上がろうとしているティエリアの薄い背を支えるため、ロックオンの腕が自然と伸ばされる。 「無理すんな。お前、熱があるんだ」 「大丈夫です。心配をかけてすみませんでした」 「ホントにな。ヴェーダより自分の体のことを考えろよ。俺は、ヴェーダよりお前が大事だ」 「ロックオン・・・」 少しの驚きを滲ませたティエリアの眼が、ロックオンの青とぶつかる。ロックオンは優しい笑みを浮かべた。 「ヴェーダはソレスタルビーイングの根幹だけどさ、お前がそんなに不安がってどうするよ?ヴェーダが、完全に第三者に掌握されたわけじゃねぇだろ」 「でも・・・そうならないとは限らない。だって、僕はヴェーダと繋がらない。何度やっても、出来なくなってしまった・・・」 小さくなる語尾と、逸らされる視線。俯いてしまったティエリアに、ロックオンは息を吐く。 ―――ヴェーダと繋がらない 繋がる、ということがどんな状態なのか、ロックオンには良く分からない。ただ、ティエリアには、大きな意味を持つ。ヴェーダと繋がることが出来る少年。 それでもやはり、ティエリアは人間なのだ。どこにでもいる、小さな子供。 「なぁ、ティエリア。俺には正直言って、お前とヴェーダが繋がるってことが、良く分かっちゃいない。けどな、そんなに悲観的になることじゃねぇんだよ。そりゃあヴェーダは、作戦を示してくれる。でも実際に戦っているのは、お前であり俺たちだ。ヴェーダじゃない。戦いは、俺たちの意思で動く。優勢にも不利にもなるのは、俺たち次第だ。そこを間違うなよ」 ティエリアの心に向けて、ロックオンは紡ぐ。自分たちは、ヴェーダの意思で戦っているのではない。自分たちの意志で戦っている。自分を信じ、仲間を信じることが大事であって、ヴェーダに身も心も委ねているわけではないのだ。 なのに―――。 ティエリアは頭を横に振る。彼の濃い紫の髪が、さらりと宙に舞った。 「・・・違う、違う・・・。僕はヴェーダの意思で戦っている。ヴェーダが無い世界なんて、僕には怖い・・・」 白いシーツを両手できつく掴む。頑なにヴェーダだけの声を聞こうとするティエリアは、それだけヴェーダと近い場所で育った証だろうか。だからといって、ロックオンは諦めたくはないし、諦められるものでもない。 「ティエリア。お前はお前の意思で、戦ってるよ。それは俺たちが、ちゃんと知ってる。ヴェーダに繋がらなくたって、お前はお前だ。もし、ヴェーダがお前から離れてしまったとしたら、その時は俺を信じろよ。ヴェーダの代わりになろうとは思わねぇが、俺はお前の傍から離れたりしない。お前が欲しいものを与えてやる。お前だけを、掴まえてる」 自分の気持ちを、素直に伝える。嘘のない、真実しかない言葉に、ティエリアが顔を上げた。戸惑いの色を見せながら、ロックオンを瞳に映す。 「お前が欲しいものは何だ?お前の願いは?言ってみ?」 「・・・ぼくは・・・」 きつく眉根を寄せ、涙を堪えている。だからロックオンは、優しく促す。 「大丈夫だよ。お前が望むものを、教えてくれ」 「・・・僕は・・・。ヴェーダと繋がらない僕は、いらない?」 ティエリアの不安が、彼の紅い眼を水の膜で覆う。不安定で脆い子供の姿に、ロックオンの体は考える前に動いていた。細い体を両腕で取り零すことのないよう、抱き締める。 「お前はいらない、なんて誰が言った?お前はヴァーチェのガンダムマイスターだ。ヴェータと繋がらなくても、変わることじゃない。絶対にだ」 「・・・本当に?」 「あぁ、本当さ。嘘言ってどうする。それにな、これから先、現実問題としてヴェーダがソレスタルビーイングじゃない奴らに、支配される可能性が出て来てるわけだけど、さっきも言ったように、その時は俺を信じろ。俺がなんとかしてやる。なんとかする。お前を護る」 「ロックオン・・・」 「大丈夫さ。ヴェーダもいいけど、もっと俺たちを信じろ。もっと俺たちに頼れ。お前は一人じゃない。俺たちがいる。俺が―――いる」 縋るようにロックオンのシャツを掴むティエリアを、更に抱き寄せる。お前が感じる不安など、どこにもないのだと、人の温もりで包み込んで。 「まだ寝てろ。起きたら体が辛いだろ。モレノのおやっさんも、三日間は安静だって言ってたぞ」 ポンポンと背中を軽く叩けば、ティエリアが腕の中で首を振る。 「ティエリア?」 「・・・もう少し、このままがいい・・・」 ティエリアの小さな願いが、ロックオンに届く。欲のない可愛い願いに、男は少年の髪にキスを一つ落とした。 不安な時も、泣きたい時も、一人より二人がいい。 激しさを増す戦いの中で、ティエリアを支えるのは自分でありたい、とロックオンは思った。 |