漆黒の海、宇宙。
いつもなら安心感を覚えるその場所が、今は冷たく感じる。

プトレマイオスにある、展望デッキ。強化ガラスを隔てて、巨大すぎる闇が広がっている。ティエリアは、遠くでかすかに光る星たちを、ぼんやり見ていた。
人革連との戦い。
戦況が悪くても、起こしてはならなかった現実。知られてしまった、もう一つの存在。
ソレスタルビーイングが歩むべき道に、自分が招いてしまった歪み。
己の失態だとわかっていても、胸が痛い。
本当はあの時、選ぶべきだったのだ。ヴァーチェと共に、暗くて深い宇宙に消えるということを。たった一度、押せばいいだけのスイッチ。
けれど、自分はそれを選ばなかった。選ぶことさえ、頭に浮かびはしなかった。
代わりに選んだものは。
もう一つの存在、ナドレを晒しても。
生きることを、望んだ。
涙が、溢れた。
ソレスタルビーイングの機密保持のためなら、自分の命を切り捨てる覚悟があった。もちろん今も、これからもある。なのに、小さなスイッチ一つ押せなかった事実が、こうしてある。
何故、どうして、と自身に問うてみたところで、答えは見つからない。息苦しさだけが、せりあがる。自分は決して弱い人間ではない。ソレスタルビーイングが掲げる理想の駒の一つとして、多くの血を流すことも厭わない。誰に何を言われても、躊躇いも迷いも生じはしない。
それなのに。
自分が招いた結果に、こんなにも揺らいでいる。ごめんなさい、と謝りたくて仕方がない。でも誰に謝る?ヴェーダに?仲間に?
許しが欲しいのではない。ただ、独りではないどこかで、泣ける場所が欲しかった。そんな甘い願い。結局は、許しを請うのと同じだ。
眼の奥が熱を帯びる。泣きたくはないのに、熱さは増すばかりだ。ティエリアは、きつく瞳を閉じる。後悔など、笑ってしまうほど自分には似つかわしくない、と思っていた。しかし、現実は、全てが予想通りになりはしない。戦いなら尚更だ。そこで生じる差異を埋めるのは、自分次第。
強くありたいと思う。悔やむことなどしないように、強く。甘い願いなど、必要とせずに。閉じた瞼が、濡れた。
「・・・ティエリア」
突然の低い声音に、驚いて振り向く。見慣れた男の優しい眼差しとぶつかり、ティエリアの頬が濡れた。



赤く長い無数のコードは、まるで美しい髪のようにも見えた。白で統一された機体は、モビルスーツというより、彫刻に近いものがあった。人革連との戦闘で、ナドレの名を持つガンダムは、深い眠りの淵から、ほんの一瞬だけ覚醒した。
ロックオンも名前は知っていたが、その姿を眼にしたのは初めてである。
ティエリアの、もう一つの機体。
誰もが予想さえしなかったことだ。今回というより、これほど早く五機目のガンダムを知られてしまうとは。が、それだけ戦いが激しかったことを物語る。ティエリアを責める者などいない。怪我のなかった体に、安心をしたほどだ。
けれど、ティエリアは違う。自分に厳しい少年は、どれだけ己を責め、どれだけ傷ついているのだろう。ロックオンには、わからない。わからないから不安になる。人前で涙を見せる少年ではない。部屋に行ってみたが、空振りに終わった。格納庫はもちろん、ロッカールームにもミーティングルームにもいない。誰かに頼ることを良しとしないティエリアだ。たった独りで、苦しんでいるはず。そして、一人になれる場所は限られている。
細く頼りない背中が、視界に入った時。
ロックオンの体の中を、仲間だけでは収まりきれない感情が、確かに走り抜けた。名前を呼ぶことの、意味の重さを知った。
ティエリアと肩を並べるようにして立てば、彼の眼が伏せられる。赤い瞳が、さらに赤くなっていることには気付いていた。泣き顔を見られたくないのであろうことは、容易にわかる。ロックオンは、静かに口を開いた。
「・・・ナドレのこと、気にするな。事実は変わらないし、ナドレにならなければ、お前が怪我をしていたかもしれない。だから、あれで良かったんだ」
「違う!少しも良くない!心にもないこと、言わないで下さい」
ティエリアの声が響く。ロックオンを拒絶する言葉は、けれど震えを伴っていた。
「どうして?俺は本当のことしか言わない。ナドレは、遅かれ早かれ、いつかは戦場に出るかもしれない機体だ。でも、お前の命は一つだ。ナドレにならなかったら、お前の体が傷ついていた可能性が高い。もしかしたら、命に関わる大きなことになっていたかもしれないんだ。だから、お前は、正しい判断をしたんだよ」
「違う!可能性は可能性でしかない。俺はナドレよりも、機密を優先させなければならなかったのに・・・。自爆を選ばなかった俺は、マイスター失格だ・・・」
ロックオンを鋭く見上げていた視線が、力なく落ちる。虚ろに漂う瞳が痛々しくて、ロックオンはティエリアの肩を両手で掴んだ。
「それこそ違う。お前は、俺たちのところに帰って来るために、ナドレになることを選んだんだ。俺たちを、選んだんだ」
「・・・わかりません」
「わからなくても、お前がここにいることが答えなんだ。言うのが遅くなったな・・・」

―――お帰り、ティエリア

自分よりも小さくて細い体を、そっと抱き締める。ティエリアの防衛本能が動いた結果のナドレだ。素直に自爆などされてはたまらない。
愛しいと思う。任務に忠実で、甘えを知らない少年が、とても愛しい。大切にしたいという気持ちが、自然と溢れてくる。相手に向ける感情は、止まらない。
「お前に怪我がなくて良かった。帰ってきてくれて、ありがとう・・・」
濃い紫の髪に、唇を押し当てて。ロックオンは、小さく嗚咽を漏らすティエリアを、腕の中に閉じ込めた。


暖かな腕の力強さが心地良い。
お帰りと言った、自分を抱く男の鼓動に落ち着く。安心感が芽生える。泣いてもいい場所なのだと、教えてくれる。
ティエリアの甘い願い。彼は、それを叶えてくれるのだろうか。
押せなかったスイッチ。それを、帰ってくることを選んだ、と言った男。
ロックオン・ストラトス。
他の誰でもない。
ティエリアを見つけて、抱き締めてくれたのはロックオン。
ティエリアは、心の中で囁いた。

ごめんなさい、そしてありがとう。