すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「千年の祈り」 イーユン・リー (中国→アメリカ)  <新潮社 クレストブックス>  【Amazon】
「もっとも有望な若手アメリカ作家」の一人にも選出された中国出身の作家イーユン・リーのデビュー短篇集。フランク・オコナー国際短篇賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ガーディアン新人賞、「ニューヨークタイムズ・ブックレビュー」エディターズ・チョイス賞、ホワイティング賞受賞作品。
あまりもの/黄昏/不滅/ネブラスカの姫君/市場の約束/息子/縁組/死を正しく語るには/柿たち/千年の祈り
にえ アメリカで注目の、中国出身の作家イーユン・リーのデビュー短篇集ということで読んでみました。
すみ 良いような、微妙なような、玉石混淆って気もするけど、全体の統一感はあって、読後に読み返すとやっぱりこういう小説を読むということじたいが貴重な経験だなとも思い……ちょっとなんとも言い難いところはあったよね。
にえ う〜ん、そうだねえ、最初の「あまりもの」を読んだときには、これは大アタリだと確信したんだけどね。私はちょっとそこで期待が大きくなりすぎたかな。
すみ どれも人生のやるせなさみたいなものが漂いまくってて、中国で生まれ育った人がアメリカに行ってから中国をじっくりと見つめて小説にするという姿勢も出来上がってて、そういうところから見ると、すごく良い短篇集ではあったのよ。
にえ 最後の短篇「千年の祈り」で、主人公の娘が、自国の言葉では無口でも、他国の言葉でも多弁になる、というようなことを言ってたよね。ものすごく頷かされる言葉だったんだけど、この短篇集じたいを表わす言葉でもあると思った。
すみ そうだね、アメリカに渡ったことで、一つ距離を置いて客観的に中国を語ることができるようになったという感は全体にすごく強くあった。
にえ 一回離れて、客観的にならないと書けないってところはあるかもね。だから、そういう方向から読んでいくと、やっぱり優れた短篇集なんじゃない?
すみ そうだねえ。それはそれで踏み込んでいきそうで踏み込んでいかない焦れったさみたいなものを感じてしまったりもするんだけれど、でも、やっぱり読んでよかったですってことで。
<あまりもの>
ステンレスの弁当箱を持ち歩く林(リン)おばさんは長く縫製工場で働いていたが、工場が倒産したために退職金もないまま職をなくした。林おばさんは51才で、夫はいない。そんな林おばさんに王おばさんは76才で死にかけている男性との結婚を勧めた。
にえ とにかく、これは良かった〜。読んでいくうちに、ついつい林おばさんに同情してしまうんだけど、同情というのは、どこか見下したようなところのある感情でしょ、それを最後に気づかされて、ハッとしてしまった。そうよね、長く生きていれば知恵もつくわよ、同情なんて失礼です。
すみ 林おばさんはあふれる愛情の遣り場を探し求めるように、知り合う男性、といっても、意識も定かでないような老人とか、まだ幼い少年とかなんだけど、そういう男性に深い愛情を注ぐんだけど、なかなか報われないのよね。でも、不幸の意識はないから、やっぱり同情なんて大きなお世話かも。
<黄昏>
蘇(スウ)夫人のもとには、毎日のように電話が掛かってくる。老後の楽しみで株の勉強をしている蘇氏にできた方(ファン)氏の妻からだ。方夫人は方氏が浮気をしていて、蘇夫妻がそれを隠していると疑っている。それは事実ではあったが、蘇夫妻にはもっと大きな隠し事があり、それだけはだれにも知られたくなかった。
にえ これはやるせないお話。障害者の娘を隠すというのは、この物語に描かれている時代の中国社会だからこそのものなのかな。なぜ?と思うと、なおさらやるせなくなっちゃう。
すみ 蘇夫妻が血の近い、いとこ同士で、家族や親戚に結婚を反対されたって経緯がなければ違ってたでしょうけどね。方夫妻のほうも事情が事情だけにやるせなかったな。
<不滅>
代々、家族の中からその身を清めた宦官を出し、その栄光と富によって生きながらえてきた一族にも、時代の波は押し寄せてきた。王朝は共和政体に倒され、共産主義の独裁者が現われ、宦官は無用のものとなった。しかし、その貧しい家に育った男の子は、独裁者と瓜二つの顔を持っていた。
にえ これはなんだか、ガルシア=マルケスを彷彿とさせるような。ガルシア=マルケス+莫言、でも短篇、みたいな。
すみ 迫力のあるお話だったよね。「わたしたちのご先祖様」として語られるところにも、「血」の意識が如実に表われてたし。
<ネブラスカの姫君>
伯深(ボーシェン)は家族計画連盟の診療所に行く薩沙(サーシャ)に付き添っていた。薩沙は京劇の女役だった美青年、陽(ヤン)の子供を宿していた。同性愛者の伯深は陽を深く愛していたから、本当は薩沙に子供を産んでもらい、その子を自分で育てたかった。
にえ これは陽という青年の美しさ、美しさゆえの存在感がしだいに浮き彫りになっていくんだけど、肝心の陽は中国にいて、アメリカにいる伯深と薩沙の回想だけで、陽が語られていくというところが読みどころかな。
すみ 外側ばかりで中身は…ってところはあったけどね。中身がないっぽく描かれているからこそ、それぞれの事情で中国を出てアメリカに渡った対照的な二人、それぞれの中国の象徴となっているのかな。
<市場の約束>
師範学校の英語教師、三三(サンサン)は32才、友人も恋人もいなかった。学校では映画「カサブランカ」ばかりを生徒に見せるため、「ミス・カサブランカ」と呼ばれていた。大学時代、三三には土(トウ)という婚約者がいて、旻(ミン)という美人の親友がいた。
にえ これは最後の最後でついていけなくなったかな。それまではどうなることかと、かなり興味深く読んでいたんだけど。
すみ ついつい市場で煮玉子を売る母親にきつい言い方をしてしまう三三の心理なんかもよかったんだけどね。
<息子>
帰化してアメリカ人となったハンが中国に帰ってきた。亡くなった父親の言っていたことをオウムのように繰り返していた母はいつのまにか、教会に通う熱心な信者となっていた。ハンにも教会へ行くよう誘ってくるが、ハンには少年の頃に親しくなった少年との聖書にまつわる苦い思い出があった。
にえ 父親の信奉者、神様の信奉者、そうやってなにかを信じきって、精神的に頼りきって生きるだけの母親と、アメリカで自立した息子の再開のお話。
すみ かなり苦いお話だよね。救われているような、救いがないような。でも最終的には、親子であっても自分以外の人の生き方には口を出せないのよねえ。
<縁組>
若蘭(ルオラン)の父親が出張で留守になると、炳(ビン)おじさんが泊まりに来る。若蘭の母親は長く病気でベッドから出ようとせず、炳おじさんは若蘭の簡易ベッドを借りて寝ているから、おかしな関係では決してないのだが、近所の人たちが悪い噂を立てるのも無理はなかった。
にえ 病気で寝たきりの母親、父親とも仲が良く、それなのになぜか父親が不在のときにだけやって来る炳おじさん、せっかく父親が買ってきたワンピースを着せてもらえない娘…不思議な人間模様には過去があったりするのです。愛の物語ではあるけれど、ちょっと不気味な感じもするような。
すみ 愛する人が変わり果ててもなおも愛しつづけるっていうのは、若い娘には理解できないことかもね。
<死を正しく語るには>
原子力研究所の中で育ったわたしにとって、元乳母だったばあやの家族に預けられる、冬と夏の一週間だけが世間というものを知る時間だった。
にえ これはちょっと不思議な背景というか、設定のお話。外界から隔離された研究所の中と、いかにも庶民な人たちの暮らす界隈を行き来する少女のお話なの。ちょっと印象には残りづらいお話ではあるんだけど、妙にリアルで、そのリアル感がとてもよかった。
すみ ばあやの家で出会う人たちは、給料をまったくもらえないのに職場に通いつづけるばあやの夫とか、働かずにブラブラして、なんでも笑い飛ばしてしまう宗(ソン)家の四兄弟とか、ちょっとやるせなくも愛すべき人たちなのよね。
<柿たち>
その村では、四ヶ月もまったく雨の降らない干ばつとなり、農民たちは雨を望む気力さえ失っていた。老木の下に集まって話すのは、十七人の男女を十七軒の家で射殺した老大(ラオダー)のことだった。
にえ これも手法としては「ネブラスカの姫君」とかぶるかな。老大がなぜ大量殺人事件を起こしたかということが、村人たちの話から、次第に浮かび上がっていくの。
すみ この血のたぎり方は莫言さんの小説の登場人物と共通するものがあるよね。やっぱり中国は熱い国なのかしら。
<千年の祈り>
中国でなにをしていたかと訊かれると、「ロケットこうがくしゃ」と答える石(シー)氏は今、アメリカで離婚をしたばかりの娘のもとにいる。だが、娘は石氏に心を開かない。石氏の話し相手は、互いの言葉がほとんどわからないイラン出身の老嬢だった。
にえ これは申し訳ないけど、何度も読んだことのあるような話だなと思ってしまった。
すみ でも、文革時代の中国という特殊な背景が過去にあるところで、ドキリとするものがあるけどね。
 2007.10.5