すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「肉桂色の店」 ブルーノ・シュルツ (ポーランド) 「シュルツ全小説」(平凡社 文庫本)
※2005年11月、「肉桂色の店」も「砂時計サナトリウム」も収録された「シュルツ全小説」が発売され、廉価で読むことができるようになりました!

ブルーノ・シュルツ(1892年〜1942年)の第一短篇集。
八月/憑き物/鳥/マネキン人形/マネキン人形論あるいは創世記第二の書/マネキン人形論(続)/マネキン人形論(完)/ネムロド/牧羊神/カロル叔父さん/肉桂色(にっけいいろ)の店/大鰐通り/あぶら虫/疾風/大いなる季節の一夜
すみ ブルーノ・シュルツは1892年、当時はオーストリア領、現在はウクライナ領である、ポーランドの小さな地方都市ドロホビチで生まれたユダヤ人作家なのよね。
にえ 画家でもあるんだよね。高校で美術教師をやっていたりした経歴もあって。
すみ 亡くなったのは1942年、50才の時。ゲットーのなかで起きた悪名高い<黒い木曜日>のときに、ドイツ軍兵士によって銃殺されています。くしくもこの11月19日に、シュルツのゲットー脱出が計画されていたらしいのだけど。
にえ ただ、ブルーノ・シュルツは2つの短篇集、そしてその短篇集には入らなかった4つの短篇小説が残っているけど、ホロコースト小説という区分には入らないよね。そういうテーマの小説ではないような。
すみ 作家としてのシュルツは、ヴィトキエヴィチとゴンブローヴィチと親しくて、ゴングローヴィチはその3人組のことを「戦間の時代のポーランド・アヴァンギャルドの三銃士であった」と書いているそうです。
にえ とはいえ、三人の作風はまったく異なるのよね。ゴンブローヴィチは、ヴィトカツィは「絶望の狂人」、シュルツは「溺れた狂人」、そして自分のことは「反逆の狂人」とも言っているそうで、ヴィトカツィの作風は残念ながら翻訳本が見あたらなくてわからないんだけど、他の二人についてはなるほどと思ったな。
すみ まあこういうことは全集のUの「解説篇」を読めば詳しく書いてあるので、このへんで。で、この短篇集なのだけど、それぞれ題名のついた短篇ではあるのだけれど、話が繋がっていたりもして、連作短篇集、というか、断片的なひとつながりの小説と言っていいような内容なのよね。
にえ テーマは「父」と言っていいんじゃないかな。父親のヤクブを中心に据えて、語り手でもある息子のユーゼフ、それに、母親もたびたび登場するけど、それ以上に存在感のある女中のアデラ、この2人を脇に据えて当時の状況が語られていくというような。
すみ あとさあ、ヤクブはそのまま、シュルツの父親がモデルと言っていいだろうね。シュルツの父親は、生地商で、妻の父に出してもらった金で店を出していたそうだけど、精神を病み、最後は肺癌で亡くなったみたいなんだけど。
にえ 少年期のシュルツにとって、父親が精神を病んでしまったっていうことは、他を圧倒するような、とても大きな出来事で、その後の影響を鑑みても、そのことが生涯、心の大きな部分を占めていたと考えて間違いなさそうだね。
すみ 急に大型鳥の孵化を始めたり、おかしな行動をとりだす父、それをなんでもないことのようにしようとしているような態度の母、女中でありながら、なぜか父に圧倒的な支配力を持つアデラ。そして、そんな家庭で育つ少年ユーゼフ。
にえ でもさあ、父が精神を病んでしまった悲しみを描いているかというと、そうでもないよね。父親の行動、それに父親とアデラの関係はときに滑稽ともいえるような描写がなされているし、「マネキン人形」から「マネキン人形論(完)」までの、ほぼひとつながりの話のなかでは、父を哲学的に捉えていたりして。
すみ 父親の狂気を哲学的に解釈することで、ただの病気ではないと擁護しているようにもとれたけどね。意識してというより、育ちのなかで自然にそういう解釈が生まれてきたって感じなのだけど。
にえ だけど、読み終わって心に残るのは、そういう構図なり、テーマなりってものより、文章そのものだよね。
すみ そうそう、ものすごく装飾的な文章なんだよね。とくに最初の「八月」は比喩だらけで、圧倒されてしまったのだけど。たとえば夏の暑い日が「通行人たちは金色のなかを喘ぎながら、まるで蜜で貼り合わせたかのように眩しさに目を細め、」と描写されているところなんて、読んでいて思わず唸り声をあげそうになった。
にえ はじめのうち、装飾過剰で過美かなと思ったんだよね。でも、読み進めていくと、ゴテゴテの装飾でコッテリとしているとは言えないと思った。冬の日を描いた表題作「肉桂色の店」なんかは、装飾のなかにもヒンヤリとした透明感があって、まるで緻密な彫刻を施した氷細工を見ているようだったし。
すみ 「八月」では、夏の日に体感する暑さも、強い陽射しも、人々がその暑さや陽射しにあえぐ様も、すべてがハッキリと感じられたし、「肉桂色の店」では冬の夜の凍てついた空気がハッキリと伝わってきたし、ただ装飾してあるっていうのではないよね。絵の細部を描くように細かな描写の積み重ねがあって、それによって完成される全体像がたしかにあって、けっきょくは無駄なものなんて何一つないんだと思うよ。
にえ そういう描写から、ときに幻想的な世界へ導かれていく滑らかさは、もう肌が粟立つ美しさの極みだよね。
すみ 「大鰐通り」の怪しげな店の建ち並ぶ様子とか、「あぶら虫」の現実と幻想が溶け合うような流れとかも、ゾクゾクとしたよね。すぐにもう一度読み返したくなってしまった。
にえ ただ、ストーリー性重視の小説ではないし、特異な文章表現でもあるから、好みは分かれるかなあ。気にいれば、何度も一文字ずつ追いなおして堪能したくなるぐらい惚れこんでしまうのだけれど、ピンとこないと言われれば、それまでのような。
すみ そうだね〜、好みは分かれそうだね。好きそうかなあと思ったら、ぜひ試していただきたいのだけれど。