すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「肩をすくめるアトラス」 アイン・ランド (アメリカ)  <ビジネス社 単行本> 【Amazon】
タッガート大陸横断鉄道の創始者の孫娘ダグニーは、兄ジェイムズが社長となったあと、実力で副社長の地位までのぼりつめた。 兄ジェイムズは気に入らないようだが、タッガート大陸横断鉄道を実際に経営しているのが美しく聡明なダグニーだとだれもが知っている。 ダグニーにはかつて愛する男性がいた。幼なじみのフランシスコ・ダンコニア、ダンコニア銅金属の社長で、莫大な利益を出す鉱山を次々に手に入れていた。 しかし、フランシスコは今では名うてのプレイボーイとなり、まったく無価値で、政府から取り上げられてしまうことも目に見えているメキシコの鉱山に多額の投資をしていた。 ジェイムズもまた、その儲け話に乗ってしまったらしい。ダグニーはなんとかその損失を最小限で食い止めようと手を打ちつつ、ハンク・リアーデンが新しく開発したリアーデン・メタルによって、 利益を期待できるコロラドへの線路を敷こうとしていた。しかし、アメリカの有識者、実業家のあいだでは共産主義の風潮がしだいに強くなっていき、ダグニーやリアーデンのような経営者たちは己の利益のみを追求する社会の悪としてとらえられるようになってきていた。
すみ 水源」につづくアイン・ランドの邦訳本です。ちなみに、1998年にモダンライブラリーから発表された20世紀の小説ベスト100の読者投票部門の方で、1位になったのがこの作品。「水源」のあとで書かれたものです。
にえ 「水源」よりさらに分厚くなって、読み終えるまでにかなり時間がかかったよね。
すみ 今度は女性が主人公なの。ダグニーという美しく聡明な女性で、ダグニー、ジェイムズ、エディー・ウィラーズ、フランシスコ・ダンコニアの4人は幼なじみ。ダグニーの兄ジェイムズはタッガート大陸横断鉄道の社長となり、 ダグニーは副社長、エディーはダグニーの優秀なアシスタントとなり、フランシスコはダンコニア銅金属の社長に。
にえ ダグニーとフランシスコはかつて恋人どうしだったんだけど、今は別れてしまっているんだよね。二人はともにそれぞれの会社を経営し、さらに発展させていくという野望を持ち、刺激し合って努力する関係だったんだけど。
すみ フランシスコは大学で何かあったみたい。大学時代は、フランシスコとラグネル・ダナショールド、それにあと一人の優秀な3人組が、哲学と物理学を専攻して、将来は国を背負うぐらいの大物になるだろうと考えられていたみたいなんだけど。
にえ フランシスコはプレイボーイで、おいしい投資を募る派手な経営者になりはて、ラグネル・ダナショールドは、なんと海賊になってしまったんだよね。あと一人の名前は、なぜかだれも言いたがらない謎。今はどうしていることか。
すみ ダグニーとフランシスコにはリチャード・ハーレイという孤高の音楽家の作った曲を楽しむという共通の趣味もあったんだよね。でも、リチャード・ハーレイはミーハーなファンが押し寄せ、評論家に絶賛されると姿を消してしまったの。そして、 ダグニーはある日、リチャード・ハーレイの第五協奏曲を口ずさむ青年に出会うの。リチャード・ハーレイは協奏曲を第四までしか作っていないはずなのに。これもまた謎。
にえ 謎といえば、この小説のなかで人々がやたらと呟く「ジョン・ゴールトは誰だろう?」も謎なんだよね。そんなことわかるわけないだろ、みたいな意味で使っているんだけど、そのジョン・ゴールトっていったい誰なのか。
すみ 社長は兄のジェイムズだけど、実際にタッガート大陸横断鉄道を経営しているのはダグニーで、ダグニーはフランシスコの投資話に乗って会社に致命的な損害を被らせたジェイムズを押さえつけつつ、優秀な経営者エリス・ワイアットの油田のあるコロラドにのびる路線を新たに敷こうとがんばるの。
にえ やりて社長のダン・コンウェイが経営する鉄道会社フェニックス・デュランゴが競争相手よね。
すみ ダグニーは軽くて、安くて、丈夫なリアーデン・メタルという新しい合金を使って線路を敷き、それによって速くて安全な路線を確立し、ダン・コンウェイに対抗しようという作戦。
にえ リアーデン・メタルはあまりにも上質な合金であるがゆえに、かえって同業者その他に反感を買って、悪い噂を流されたりして、開発者であり、リアーデン・スチールの社長でもあるハンク・リアーデンとダグニーは苦労させられるんだよね。
すみ と、ここまではビジネスの熾烈な争いを描いた小説なんだけど、違っているのは背景となる社会。なぜかこの時代、アメリカでは共産主義思想が蔓延し、ハンク・リアーデンやダグニーのような資本を持ってがんばる人たちは疎まれることに。
にえ 経済的な下層階級から出た思想運動じゃないんだよね。むしろ上流の、いわゆるブルジョア階級が、ひたすら平等にと言い始める。
すみ 博愛主義的発想だよね。不公平をなくし、政府によって財産は共有されるべきだって、それこそが人間愛だってみんなが言うようになるの。
にえ 国民のため、と言ってるけど、その国民っていうのは彼らに言わせると、愚かで、難しいことは理解できず、財産を築く能力もない人たちなんだよね。だから、持っている者が愛の手を差しのべるべきだって。
すみ ダグニーやハンク・リアーデンからしてみると、才覚と努力で財産を築いた人たちから、財産を平等に共有するべきだと主張して盗み取ろうとする「たかり屋」なんだよね。
にえ その「たかり屋」たちは、金には興味がない、愛のほうが大事だ、なにごとも平等にって言いながら、自分たちの生活レベルが落ちることに恐怖を抱いていたりするんだけど。
すみ 独占禁止法とか、機会均等法とか、そういったものがどんどん発展していって、国の経済はがんじがらめに。そんな中、次々に姿を消す経営者たち、彼らはどこに行ったのか?
にえ 謎がたっぷり仕掛けられていたよね。全体としては、現実的な話というより、SFっぽい感じだった。アメリカが共産主義におかされたらどうなるかって仮定に基づいて話が進んでいくし、現代科学では発明されていないものがいくつか発明されていくし。
すみ 「水源」より、かなりわかりやすい話だったよね。共産主義が悪で、資本主義が善として描かれていて、そのふたつの戦いに的が絞られていて。
にえ まあ、正直なところ、「水源」は最初の内ちょっとわかりにくいだけに、わかったときに「わかった!」っていう大きな喜びがあったんだけど、こっちにはそれがないかな。
すみ 「水源」は日本では否定的にとられることの多い個人主義が肯定される快感があったしね。
にえ たしかに以前は資本主義国家のなかでも共産主義思想が蔓延しちゃうかも、みたいな流れが多少なりともあって、その時代だったら、偽善的な博愛主義より、自由競争を大切にする資本主義がいかに社会にとって健全なことであるかっていうのは、あらためて教えられてハッとするようなところはあったと思うけど。
すみ 共産主義国の多くが経済的に崩壊した今となっては、そんなこと、いまさら教えてもらわなくても知ってる〜みたいなところはあるよね。
にえ 努力する者と努力しない者、両方に同じ報酬が与えられることが平等ではなく、努力する者が多く与えられ、努力しない者が少なく与えられるのが平等、うん、これはもう今じゃ普遍的な認識になってしまっているかな。
すみ この小説に描かれた共産主義者たちはかなり愚かしさをデフォルメしてあって、恐怖というより滑稽だったしね。
にえ そうそう、だからむしろ彼らより、正義を遂行するためには殺人もいとわない資本主義者たちのほうに、今のアメリカを重ねて恐怖を感じてしまったりしたんだけど。
すみ 恋愛についていえば、「水源」のロークとドミニクは、二人の愛のあり方が興味深く、共感するところもあったけど、こっちのダグニーはやたらモテモテってだけのような。しかも美男子ばっかりで(笑) 「水源」のロークは見る人によって違って見えるっていう個性があったんだけどね。 ついでに他の登場人物についても言えば、敵も味方もステレオタイプで平べったく、とくに魅力を感じる方がいなかったかな〜。「水源」にはかなり興味深い人が何人かいたんだけど。 なんだかんだ言っても、このページ数を放り出さずに読めてしまう展開のドラマティックさには魅力はあるんだけど。読んでて妙に違和感を感じるのも、これまで読んだ本とは違う感触ってことでおもしろくはあるし。でも、う〜ん。
にえ まあ、思想書ですから。ただ、アメリカでこの本が出版された1957年、せめてその2、3年後に日本人も読めていたら、衝撃や感動はかなりのものだったんじゃないかな〜と思うんだけどね。それが残念。今となってはむしろ、アイン・ランドが現代のアメリカを見たらどんな警鐘を鳴らすのかな、とそれを知りたくなってしまった。