すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「前日島」 ウンベルト・エーコ (イタリア)  <文藝春秋 文庫本> 【Amazon】(上) (下)
1643年7月、オランダ船アマリリス号で旅を続けていた青年ロベルトは、アマリリス号の難破によっ て、うち捨てられた船ダフネへと流れ着く。ロベルトは残してきた過去に思いをはせる。イタリアの地方 貴族の一人息子として、父と母の愛と期待に答えながら、空想の兄の影に怯えていた少年時代、勇敢な父と ともに参加した三十年戦争、カザーレで出会った心の師と呼べる二人の男、そして、まだパリにいるはずの 愛しい<貴女>。<貴女>への届かぬ手紙を綴るロベルトだが、船にはいるはずのない人の気配がしていた。
にえ やられた。上下巻をたてつづけに出したあとの1冊もの、私たちのジンクスで言えば、まず駄作まちがいなしなのに。
すみ さすがに天才エーコには私たちのつまんないジンクスなんて通用しなかったね。
にえ よかった、素晴らしくよかった。本の世界にどっぷり浸かって酔いしれちゃったよ。
すみ にえちゃんなんか、読んでる間ずっとニヤけてたよね。
にえ だって、だって、これはもうムフムフしながら読むしかないでしょ〜。
すみ 自分も十七世紀の人間になったような気持ちで読める視線で書いてあったよね。
にえ そう、ストーリーとしては、現在の語り手がロベルトの残した 断片的な書類をもとに、話を紡いでいくって設定なんだけど、この語り手はあくまで黒子に徹していて、 邪魔にならないの。
すみ しつこくウンチク撒き散らすなんて野暮なことはしなかったよね。
にえ で、話はロベルトの過去と、難破船ダフネでの2つの話が交差 していくんだけど、これがまたどっちもいいのよ。
すみ 過去の方はまず、少年時代から三十年戦争へ。ヨーロッパで 1618年から1648年まで続いた戦争の話は、もちろんエーコ、その場にいたような臨場感を持って 語られてます。昔の戦争は貴族的で、どこか優雅だよね。
にえ ロベルトのお父さんがよかったよね。文武両道にして、勇敢、 しかも、場合によっては下品な言葉も巧みに使い、情が厚いけど卑怯にもなれる。
すみ 私は、そのあとカザーレで出会う二人の師が好きだな。一人は サン=アヴァンという貴族なんだけど、この人は裏も表も知りつくし、悪ぶった科白もポンポン吐いちゃう、 とらえどころのない洒落者。
にえ ラヴレターの講義なんかで、おもいっきり楽しませてくれたよね。
すみ もう一人は発明家のエマヌエーレ神父。この人はアリストテレ スやガリレオの発明を利用して、摩訶不思議な機械を作りだしちゃう。
にえ 二人に共通してるのは、やっぱりエーコお得意のカルト知識だ よね。しかも、十七世紀の話だから、錬金術並みの妙な知識がまことしやかに横行してるの。
すみ <共感の粉>とかね。刀で傷ついた人を治すには、<共感の粉 >を人じゃなくて、刀にかけちゃうの。二人して、そういうのの真実性を真顔でロベルトに語っちゃうんだ から、たまんないよね。
にえ それはアマリリス号で一緒に旅をしたバード医師も同じよね。 傷ついた犬が出す念波のようなものを、パリにいる仲間に受信させ、自分のいる位置を正確に割り出すっ ていう奇妙奇天烈な発明を、本気で信じて実践してるの。
すみ ロベルトが船に乗るのは、バード医師をスパイして、<定点> を見つけるのが目的なのよね。
にえ そうそう、話は一気に大航海時代。ヨーロッパのいろんな国が 世界に向けて船を出すんだけど、緯度はほぼ正確に計れても、経度の測定が不正確なために、 正しい世界地図が書けない、それで<定点>発見にやっきになってるの。
すみ まあ、そんな感じで、過去の話は歴史と虚構が混じりあった、 たまらない人にはたまらないお話になってます。
にえ で、ダフネにいるほうのロベルトの話だけど、これは南半球、 おそらくはオーストラリアに近い諸島のあるあたりにダフネは停泊してるの。
すみ ダフネの内部じたいがまず面白いのよね、不思議な動植物が 育てられていたりして。
にえ もちろんカルトな動植物(笑)。不思議な実をならせている 植物に、得体の知れない鳥たち、これまたエーコお得意の動物学、植物学の知識が遺憾なく発揮されてるよね。
すみ でも、ここでもまたウンチクがしつこいってことはなかった よね。あくまでも雰囲気の盛り上げに徹してたみたい。
にえ そうそう、船のなかでずっと独りぼっち、えんえん独り言って いう息苦しい設定じゃないのでご安心を。こっちでも色々あります(笑)
すみ 地動説と天動説の話なんかが、これまた十七世紀の人の視線で 考察されてて、楽しかったよね。読んでくうちに、自分が宇宙の中で小さく、小さくなっていくような感じ がした。これはちょっとせつない。
にえ で、目の前に浮かんでいるのは<前日島>。すぐそこにあるのに、 ダフネと島のあいだには子午線が引かれている。つまり、彼らにしてみると、今見えているのは前日の島って ことになるの。いいでしょ、これ想像してるだけでもずっと楽しめちゃう。
すみ それにしても、この本に関しては、余裕が感じられるっていうか、 楽しんで書いて、読んでる人を楽しませてっていういい雰囲気が終始漂ってたよね。
にえ 『フーコーの振り子』みたいな知恵熱が出そうなウンチクの積み 重ねでもなし、『薔薇の名前』ほど宗教色が強くもなく、ふんわりと柔らかな読みごたえだった。
すみ 永遠に浸かっていたいぬるめのお風呂みたいね。でも、雰囲気 重視ってわけじゃなく、ストーリーもおもしろいから、ぐんぐん引き込まれる。
にえ エーコの極彩色の頭のなかで泳いでるみたいだった。これは 楽しい。あ、『薔薇の名前』を先で読んだ人には、269ページにくすりと笑える記述があります。楽し ませてくれるな〜。