すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「スコット・フィッツジェラルド作品集 わが失われし街」  (アメリカ) <響文社 単行本> 【Amazon】
スコット・フィッツジェラルド((1896〜1940年)の本邦初訳を含む短編小説、エッセーなど20編をすべて新訳でまとめた作品集。
再びバビロンで/外国旅行/ドール・ハウス/山娘ジェミナ/ジャズエイジのこだま/眠っては覚め/若き日の成功/戦場には行かなかった/最後の南部美人/あの夜の愛/ 作家の家/旅立ち/ある作家の午後/湯をわかして―たっぷりと/天才とふたりで/だめでもともと/ホテル・チャイルド/ギプスのデザイン/わが失われし街/こわれる
にえ スコット・フィッツジェラルドの短編をまとめて読みたいねえ、なんて話していたら、ちょうど作品集が出ていたので読んでみました。
すみ 全体としては、人気が凋落して、忘れ去られた作家のようになった頃のものがわりと多かったから、どうしてもフィッツジェラルドの生涯というものを意識しながら読んでしまったよね。
にえ 作家としては、1920年代の象徴とまでもてはやされたのに、時代の流れとともに忘れ去られ、ハリウッドで脚本家としてもう一花咲かせようとしたけれど、それも叶わず、44才で亡くなってしまった人、よね。
すみ 私生活では、作家としての成功とともに愛する女性ゼルダと結婚することができ、二人でパーティーに明け暮れるも、いつしかゼルダの浮気に悩まされるようになり、無軌道な言動に振りまわされ、最終的には、ゼルダは精神病院で焼死、フィッツジェラルドはアルコール中毒になり、娘だけが心の支えだった。悲劇的としか言いようのない生涯だよね。
にえ ホントに、その生涯をそのまま引きずり込んだような作品集だったよね。なんとも言えない気持ちにさせられたな。
すみ 巻末解説に、ヘミングウェイとフィッツジェラルドのことが書いてあったでしょ。後輩のヘミングウェイの作品を真剣に読み、賞賛や助言をタップリ手紙にしたためて送るフィッツジェラルド、それに対して、ヘミングウェイは「くそったれ!」って。親切なフィッツジェラルドにたいして、ヘミングウェイの態度が意地悪だって。それはそうなんだけど、そんな作品にたいして事細かに助言やらなにやらを書いて送るなんて、まるでフィッツジェラルドはヘミングウェイの父親になろうとしているみたいじゃない。そして、 ヘミングウェイの生涯を鑑みると、そういう父親的存在こそがヘミングウェイにとっては絶対に受け入れられないものでしょ。
にえ そうねぇ、フィッツジェラルドは一見親切そうに思えるけど、じつは相手の気持ちを考えない身勝手な行動なのかもしれないね。
すみ 相手の気持ちを考えずに、自分の気持ちを押しつけるって、とても子供っぽいと思うし、そもそも他人の父親的存在になろうとするところが、おままごとをしたがる子供のごとく、子供っぽさのあらわれだよね。そういう成熟度の足りなさが、フィッツジェラルドが流行作家として消え去ってしまう原因だったのかな、なんて思いつつ、今の時代って自分を大人だと認めるのがとても難しい時代って気がするでしょ、ほとんどの人が大人になりきれない、子供な自分を意識してて、ときにはそういう子供っぽさも個性のひとつだよ、なんて 開き直って言い訳をしてみたりするような、そういう今になってフィッツジェラルドを読むと、都会のなかで途方に暮れ、孤独にすすり泣いている子供みたいなフィッツジェラルドにとても共感してしまう、それが再評価に繋がってたりもするのかな〜なんて、やたらそういうことを考えさせられたんだけど。
にえ まあ、私は正直なところ、あらためてこの本でフィッツジェラルドを読んでみて、文豪として認められたヘミングウェイに比べれば、やはりフィッツジェラルドのほうがだいぶ見劣りはするかな、なんて思ったりもしたんけど。あ、でも、たしかになんか惹かれるものはあったよ。
すみ 私はカポーティをやたらと連想させられたんだけど。なんだか似ているところが多くて。ただ、やっぱり作家としては、カポーティのほうが上かなあとは思ったんだけど。まあ、いずれにしても私がそう思ったってだけのことだけどね。それにしても本当に、なんか惹かれるところの多い作品集だったね。興味がある方にはオススメです。
<再びバビロンで>
チャーリーは1年半ぶりにパリへ戻った。亡き妻の姉夫婦に預けた娘オノリアを引き取り、プラハに帰るつもりだった。
にえ パリで放蕩生活のすえにすべてを失った男が、真人間になって娘を取り戻そうとするんだけど、昔の悪い友だちが現われて・・・。なんとか娘を取り戻そうとするんだけど、なにかと思い通りにならないチャーリーの気持ちが、ヒリヒリと伝わってくるようだった。
<外国旅行>
ニコルとネルスンのケリー夫妻は新婚8ヶ月、ネルスンの父の遺産が入り、2、3年ほどヨーロッパを旅することにした。どこの滞在先でもすぐに友人ができたが、 気の置けない仲間ではあっても、つきあえば二人の生活がすさんでいくばかりだった。
すみ ニコルとネルスンは旅の途中、何度か同じ年頃の夫婦を見かけて友だちになりたいと思うんだけど、なぜか機を逸して友だちにはなれずにいるの。放蕩生活の中、幾度もまともな生活がしたいと願い、それでも抜け出せないケリー夫妻が痛々しかった。
<ドール・ハウス>
16丁目で車が停まった。男と少女を車内に残し、女は「家具製造」と看板の出ているドアへ入っていった。男は店の裏手にあるアパートを指し、少女に、オーガーに閉じ込められているお姫様の話をはじめた。
にえ 車のなかで、しばし楽しい空想を共有する父と娘、ホノボノとしているはずなんだけど、なぜか読んでいると胸苦しいほど切なくなってきた。
<山娘ジェミナ>
ケンタッキーの山の仲、ジェミナ・タントラムは川辺で自家製ウイスキーをつくっていた。川向かいにはドールドラム家の蒸留器がある。タントラム家とドールドラム家は仇敵の間柄だった。
すみ 二つの家族の争いに、偶然、居合わせたために巻き込まれてしまったよそ者の男。そこに愛を置くのは無理があると思うのだけれど。
<ジャズエイジのこだま>ジャズエイジについてのエッセー。
<眠っては覚め>不眠症についてのエッセー。
<若き日の成功>自分が作家となり、成功していったことについてのエッセー。
にえ 小説に比べて、エッセーはがくんと精彩を欠いて、モッサリしているように感じるんだけど。普通は作り話の逸話でも加えて、もうちょっとピリッとしたテイストに仕上げそうなものだけど、真面目すぎるのかなあ、なんて思ってしまった。
<戦場には行かなかった>
20回目の大学の同窓会、戦争で亡くなった同窓生の慰霊祭が行われた。そんな中、大学を3年で辞め、それ以来、見かけなかったヒビングが来ていることに気づいた。ヒビングは戦争中、クラスの英雄だったエイブ・ダンツァーに会ったという。
すみ ヒビングが語る意外なエイブの姿に、同窓生たちは驚くばかり。ちょっと無理やりって気もするけど、ブラックなテイストだった。
<最後の南部美人>
南部の小さな町タールトンにある基地へ赴任したアンディは、この町は若い兵士であふれかえっているというのに、若い女性は3人しかいないことを知らされた。そのうちの一人エイリー・カルフーンは、良家の娘で、しかもとびきりの美人だった。
にえ フィッツジェラルドの妻ゼルダもとびっきりの美女だったらしいけど、フィッツジェラルドの小説の主人公にもとびきりの美女が多いみたい。まわりの男たちにちやほやされる美しい娘の言動が鮮やかに書かれていて、透けて見えそうで見えない心の内に、なんとも惹かれてしまうなあ。
<あの夜の愛>
ロシア貴族の父と、アメリカの富豪の娘を母に持つヴァルは、リヴィエラの別荘に滞在中、暗いボートの上で同じ17才という娘に出会った。
すみ これは甘く、ロマンティックなお話。違う意味で、「甘い!」と言いたくもなっちゃうけど(笑)
<作家の家>
作家の家を訪れた客は、地下室の隅に盛られた土の山や、ダイニングルーム、作家の出した嘘の手紙に来た返事にたいする指示を待つ秘書のいる書斎、屋根裏などに案内された。
にえ これはクスリとさせられる小品。少しズラしてあるところがお洒落だなあ。
<旅立ち>
求婚者があとをたたない美しい女性ジュリアは、驚くほど美しい男性ディックに出会った。ディックに惹かれるジュリアだったが、ディックは酒にまつわる悪い噂だらけの男だった。
すみ 会えばたちまち惹かれる美男と美女。でも、美男のほうにはたいがい裏があるのだなあ。
<ある作家の午後>
4月のよく晴れた日、作家は作品のいくつかのアイディアを携え、バスに乗って町に散策に出かけた。
にえ 自分のアパートメントの前で、作家は「成功した作家の住まいだ」と思うの。
<湯をわかして―たっぷりと>
盛りを過ぎた49才のシナリオライター、パット・ホビーは、ハリウッドにしがみつき、他のライターが書いたシナリオの手直しをするという安仕事に甘んじていた。看護婦を口説こうと撮影所の食堂を訪れたパットは、幹部だけが座ることのできるテーブルに、エキストラの一人が座ろうとしているのに気づいた。
<天才とふたりで>
パット・ホビーは、イギリスから来た若き劇作家ルネ・ウィルコックスに協力し、バレエ映画の台本を仕上げるよう命じられた。
<だめでもともと>
パット・ホビーはずっと前に3週間だけ結婚した女のために、たった週100で働かされることになった。飛び抜けて美しい新人女優を見つけたパットは、一発逆転の秘策を思いついたが。
すみ この3つは落ちぶれた脚本家パット・ホビーを主人公にした、笑えない冗談みたいな出来事を書いた連作もの。なんか自虐的で、痛々しすぎるんですけど。
<ホテル・チャイルド>
トロワモンドホテルに滞在するシュワルツ家のフィフィは18才、アメリカから来たユダヤ娘だった。フィフィは輝くばかりに美しく、崇拝者たちにいつも囲まれていたが、そんなフィフィを下品だと眉をひそめている者たちがいることにも気づいていた。
にえ これまた取り巻き連中にちやほやされる美しい娘の話。ラストがひと味違って、小気味よいんだけどね。
<ギプスのデザイン>
スタジオの主任電気技師であるマーティンは、仕事中の事故で怪我をしたために、別居中だった妻メアリとよりを戻しかけていた。
すみ よりが戻りかけ、それまでは気にしなかった妻の新しい恋人に、にわかに嫉妬をはじめるマーティン。これまた痛々しいなあ。
<わが失われし街>
都会の洒落た暮らしに憧れ、ニューヨークに来た私は、1920年になると、いちやく人気作家となり、時代の寵児ともてはやされた。しかし、その人気は時代の流れとともに消えていった。
にえ 自分の短かった人気作家生命を振り返り、1945年の新聞に、自分が射殺された記事が載っているところを想像するフィッツジェラルド。この物語の結末を書けるのは、フィッツジェラルドではなく、現代の読者なのかもしれない。
<こわれる>
人間というものは、いろいろな壊れ方をするが、私もまた、心が壊れた一人である。
すみ 最後を飾るにはあまりにも寂しい一編だけど、この作品集にはふさわしいのかも、なんて思ったりしつつ、余韻に浸るのでした。