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 「アマーロ神父の罪」 エッサ・デ・ケイロース (ポルトガル)  <彩流社 単行本> 【Amazon】
レイリア市の大聖堂の主任司祭が亡くなり、新しく赴任したのは、まだ若く、見目の良いアマーロ・ヴィエイラという神父だった。アマーロは未亡人サン・ジョアネイラの家に下宿することになったが、 そこにはレイリアでも一番の美人だと言われている一人娘のアメリアがいた。一目見たときからアメリアに惹かれるアマーロ。アメリアもまた、ジョアン・エドゥアルドという求婚者がいながら、 アマーロに惹かれていくのだった。
すみ 後世の作家たちに多大な影響を与えた、ポルトガルの代表的な作家エッサ・デ・ケイロース(1845〜1900年)の長編小説です。
にえ 私たちはエッサ・デ・ケイロースというと、「縛り首の丘」しか読んでなくて、というか、翻訳本で一冊にまとまっているのがそれだけだったから、なかなかエッサ・デ・ケイロースの偉大さがわからなかったけど、 これでようやく納得できたね。
すみ そうそう、「縛り首の丘」は中編小説が2編、収録されているんだけど、どちらも寓話的なお話で、エッサ・デ・ケイロースの最晩年の作品だとかで、 こういう小説を書く作家が、どう後の作家に影響を与えたのか、今ひとつよくわからなかったんだよね。
にえ この「アマーロ神父の罪」は、三部作のひとつで、ポルトガル文学史上初めてのリアリズム作品って言われてるんだって。
すみ どう写実的なのかは、読めばすぐわかるよね。というか、驚いた(笑)
にえ そうそう、読む前はロマンティックな、若き神父と乙女の許されぬ愛の物語なのかと思ったら、とんでもなかったよね〜。
すみ この作品が書かれたのが1871年、雑誌で発表されたのが1875年から、とのこと。当時の人たちにしたら、そうとう衝撃的だっただろうね。
にえ 表立ってはだれも言わないけど、だれもがこんなものだろうとわかっていた、それをエッサ・デ・ケイロースが文字にして書いてしまった、そういうことだったのかもしれない。
すみ だからこそ、タブーを犯したってことになるでしょ。表立って言っちゃいけない、書いちゃいけないとみんなが思いこんでいるところに、この作品が発表されたんだからさ。それだけに、おもしろがった人も多かったんだろうけど。
にえ とにかく19世紀、キリスト教国家で書かれた小説としては、驚くべきものだよね。真偽のほどはさだかでない、というか、多少モデルとなっている人はいても架空の人物たちなんだろうけど、レイリアという実在の市の神父たちの生態を克明に描き出しているの。
すみ その生態っていうのがスゴイよね。儀式ばっかりにとらわれて、キリストの教えよりも、あの時には半敬礼がふさわしいかどうかとか、白ワインを使うべきか、赤ワインかを使うべきかとか、そんなことばかり話している神父たち。 賭け事をし、卑猥な冗談も言い、酒も飲んで、当たり前のように愛人をつくる。
にえ でも、悪人じみてはいないんだよね。本人たちは神に仕える身だと純粋に信じきって、悪気もなく、良き神父として暮らしているつもりなの。
すみ でも、もうちょっと前の時代だったら、あいつを火炙りにできたのにとか、そういうことも平気で言うよね。たしかにそういうときも罪悪感なしで、神父ってそういうものだろうぐらいの意識しかないんだけど。
にえ 主人公のアマーロは、主任司祭としてレイリアに赴任するんだけど、本当はまだそこまで認められてはいないんだよね。コネなの。こういうのが平気でまかり通っちゃう。
すみ まあ、アマーロは俗物的でもしょうがないかって最初のうちは思ってたけどね。父を脳卒中で亡くし、一年後に母を咽頭結核で亡くし、6才で孤児となってしまったアマーロは、父と母が従僕と小間使いとして使えていた心やさしい侯爵夫人によって、育てられるの。で、その公爵夫人の意向で、 神父になるのよ。本人の意思ってものはまったく無視されてるわけ。
にえ アマーロに信仰心がないわけではないのよね。むしろ、他の人より信仰心は篤いほう。ただ、少年のうちに神学校に入れられてしまったアマーロにしてみれば、性欲もあり、この先一生、女性と結ばれることのない自分のさだめは呪っているというか。
すみ だからって、神父になることを止めて、他の職業に就こうって気もなかったよね。自分が一番、安穏に暮らせるのはなにかっていったら、神父であるということ、だから、神父になったあとも、普通の職業に就いた男たちに嫉妬はするけれど、神父を辞める気はさらさらないの。
にえ それでもまだ最初のうちは、純潔であろうと努力もし、自分の性欲に苦悩もしてたけどね。その後もやっぱり罪悪感と小狡さのあいだで、たえず苦悩してたんだけど。
すみ アメリアもまた、アマーロとの愛に生きるべきか、ジョアン・エドゥアルドとの平凡でも安定した生活を望むべきか、つねに迷ってたでしょ。つまりはどちらもごく普通の若者なんだよね。ごく普通の若者なのに、聖職に就き、聖人然としてなきゃならないところに無理がある。そのへんの内面の葛藤を、 エッサ・デ・ケイロースは細やかに書き上げているの。
にえ アマーロやアメリアの葛藤だけじゃなく、登場する神父たち、それを取り巻く信者たち、無神論者たち、信者だけれど神父たちには批判的な人たち、すべての人たちについて、キッチリ詳細に書いてあったよね。批判的な小説ではあっても、きちんと慈愛に満ちた、真の聖職者といえるような神父も登場させてたし、 無神論者だといっても、やみくもに批判するばかりじゃいってところもキッチリ書いてあったし。
すみ うん、本当にキッチリと書かれた小説だった。当時の世相を反映させた小説とは言っても、いまだに読み継がれ、高く評価されてるっていうのも納得。エッサ・デ・ケイロースの偉大さもわかったし、この小説を翻訳本として読める機会を与えてくれた方々にも、感謝、感謝だよ。
にえ ポルトガル文学にちょっとでも興味があったら、これは読まなきゃダメでしょ。まさに古典名作文学といえる小説。でも、この先どうなるんだろうと常にドキドキできる、単純に物語として楽しめる小説でもあったのよ。夢中になって読めました。