=「すみ」です。 =「にえ」です。 | |
「小さな本の数奇な運命」 アンドレーア・ケルバーケル (イタリア)
<晶文社 単行本> 【Amazon】
4月5日、古書を集める私の蔵書に、1万冊目の本が入った。本は私に、自分のたどった運命を話したいと申し出た。60年前、新刊書として書店に並んだこと、最初の持ち主のこと、 そして手放され、また買い求められ、また手放され・・・やがて、ある古本屋で女主人に、夏までに売れなかったら処分してしまうと宣告されたこと。 | |
アンドレーア・ケルバーケルの初翻訳本です、たぶん。 | |
アンドレーア・ケルバーケルは1960年生まれ、作家であるとともに、テレコム・イタリアの<広告と映像>の担当重役でもあり、イタリア有数の古書コレクターでもあるみたい。 | |
この本の語り手である本は、ちょうど1万冊目の本となってるんだけど、今はさらに蔵書が増え、1万2千冊を超えてるっていうから凄いよね。 | |
もうホントに、古書が大好きな人が書いたっていうのがビシバシ伝わってくる小説だったよね。 | |
小説じたいはとても短くて、本文だけだと70ページもないぐらいだよね。中編というか、短編と言ってもいいぐらい。 | |
でも、巻末の訳注と合わせて楽しみながら読むから、もうちょっと長く感じるよね。 | |
そうそう、訳注が楽しみになってしまった。小説の中にいろんな作家名、本の題名が出てきて、知っていたり、知らなかったりで、誰だっけ、この人? ああ、 そうだ、「ゴドーを待ちながら」の作者だった! なんて、答え合わせしながら読んでるみたいで。 | |
語り手である本には、当然人格があって、他の本にも人格があるの。それがおもしろかったなあ。 | |
語り手の本はイタリア語で本は男性名詞だそうで、そのためかイタリア男性らしく、どうせだったら女性に買ってほしい、なんてことを言ってるんだよね。 | |
できれば、女性のきれいな指でページをめくって欲しい、なんてね。女性客に秋波を送るでしょ、買ってくれ、買ってくれって。あれは妙に納得したな。古本屋さんで、 遠くの棚にあっても、ここだよ〜って本が呼んでるような気がするときってあるもんね。 | |
うん、やっぱり本が呼んでたのかって納得したよね(笑) あんまり巡り会う運命にあったとか、読むべき本だったとかいう理由じゃないんで、 まあ、そんなものかと思ったりもしたけど。 | |
それでもって、他の本の人格がまたおもしろいんだよね。ヘミングウェイのほんはがちょっと格上ぶってて、でも、素敵な詩を紹介してくれたり、 ハインリヒ・マンの本はちょっと卑屈になってて、弟の本は思い出されても、自分は忘れ去られるのみか、なんて嘆いたり。 | |
こういう内容だったら、もっと長くても、延々読んでいられたな〜。 | |
語り手の本が、なんという作者のなんという作品なのかは明かされてないんだよね。 | |
最初の持ち主は17歳、そういう多感な時期の青年が気に入って、何度も開いて、部分、部分を読みかえしてたんだから、そういった感じの内容の小説ってことかな。 | |
本は本だけじゃなく、ラジオと出会い、テレビと出会い、映画の脚本になりかかり、と他のメディアとも関わって、読書じたいがこれからどうなっていくのか憂いたりもするんだよね。 | |
この本は、読むと古本屋に行ったときが楽しいかもしれない。いや、古本屋に行かなくても、自分の蔵書を見るだけでも楽しいかな。この本はきっと理屈っぽくて、他の本に嫌われてるに違いないとか、 この本は愛想がよくって、やたらとおしゃべりに違いないとか、想像するだけで楽しくなっちゃう。 | |
でもさあ、本がボロボロになっても、捨てづらくなっちゃうでしょう。この本読んでもまだ平気で本をポイッと捨てられるようなら、そうとうな冷血漢だよ(笑) | |
まあ、この語り手の本の運命は、題名のような「数奇な運命」ってほどでもないんだけどね。どちらかというと、 いかにもよくありそうな本の運命。特別すごい人の持ち物になることもなかったし、特別な扱いを受けることもなかったし。 | |
古本屋に並んでる、けっこう古びた本は、これに似た感じの運命をたどったのかな〜って思えるよね。買われて、書棚に並べられて、ある日、他の本と一緒にまとめられて売られてって繰り返すうちに、ボロくなっていくの。 だからこそ親近感がわくというか。 | |
古本を買ったときに特にむかつくのは、前の持ち主の書き込みだけど、それもこの本読むと、愛しくさえなりそうになるよね。一冊の本を介して、作者自身の古本への思いが伝わってくる小説でもあったし。 | |
とくに翻訳本好きならニマついてしまう本でした。私たちはかなり気に入ったけど、絶対読めっていうような感動大作ではないので、お好みでどうぞってことで。 | |