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 「ロサリオの鋏」 ホルヘ・フランコ (コロンビア)  <河出書房新社 単行本> 【Amazon】
ロサリオは俺の親友エミリオの恋人だった。だけど、初めて会ったときから、俺もロサリオのことを好きになっていた。ロサリオはエミリオとはあまり話さない。 俺とはよく話す。まるで、エミリオのことは体を愛し、俺のことは心を愛しているみたいだった。そして、俺たち三人は墜ちていった。 ロサリオに引きずられるようにして、俺もエミリオも墜ちていった。
にえ これは、第二のガルシア=マルケスとの呼び声も高い、コロンビアの作家ホルヘ・フランコの初翻訳本です。
すみ 第二のガルシア=マルケスといっても、別に作風が似てるってことじゃないのよね、共通点は同じコロンビア人作家で、評価が高いってことでしょ。 あと、ガルシア=マルケスに招かれて、シナリオ教室の講師を務めてるってことで、それだけ認められてるんだってことかな。
にえ まあ、この1作を読んだかぎりじゃ、ガルシア=マルケスとレベルが同じ、とまでは言わないかな。
すみ 若さのみなぎる作品だったよね。最初、ハードボイルドな女殺し屋の話かと思っちゃって、読むのをためらったんだけど、そういう話ではなかった。
にえ 簡単に言ってしまえば、不良少年少女のほろ苦い青春グラフィティということになるのかな。ただ、私たちの思う非行のレベルを遙かに超えてるけど。
すみ とにかく凄まじいばかりだよね。しかも、これはまったくの空想とも言えなくて、現実味をたっぷり帯びてるんだから。
にえ ロサリオを思い続ける「俺」が語り手になってるんだけど、ロサリオは年齢も、苗字すらわかっていないの。
すみ ロサリオ・ティヘーラスって呼ばれてるけど、ティヘーラスっていうのは「鋏」っていう意味で、これは綽名なのよね。
にえ ロサリオは貧民地域の出で、エミリオと俺は金持ち地域の出。メデジンっていう町が舞台になってるそうなんだけど、この町は盆地にあって、貧しい人たちは盆地の斜面に住み、 金持ちの人たちは真ん中の平地に住んでるの。
すみ 斜面をのぼって見渡す町の美しさが象徴のように描かれてて、美しくも悲しかったよね。
にえ ロサリオは父親もわからず、父親違いの兄弟もたくさんいて、次々に男を連れ込む母親に育てられたという劣悪の環境のもとで育ってるの。
すみ 8才で母親の男友達に犯され、教師の顔に鋏で傷を負わせ、11才で家を出てるのよね。
にえ その後は麻薬、売春はもちろんのこと、殺人さえ当たり前のようにやってしまっているの。当たり前と言っても、殺したあとには精神的なもので食べ過ぎて、かならず太ってしまうんだけど。
すみ 不良っぽいことはしていても、しょせんはお金持ちの子供であるエミリオと俺は、ビビっちゃうよね。
にえ ビビっちゃうけど惹かれもして、縁を切ろうとするけど、なかなか切れない、これはわかるような気がした。
すみ そういうものに惹かれてしまうことこそが若さって気もしちゃうよね。
にえ でも、ロサリオの悪への踏み入れ方は、そんなものじゃ収まってなかったの。これもまた、現実をふまえてつくられた話だというから、 なんてことだ、と思っちゃう。
すみ 正直なところ、なかば過ぎまでは、語り手である俺の繰り返しが多いところと、あまりにもハッキリしない部分が多いのとで、 ちょっとイラっとしながら読んでたようなところもあるんだけど、さすがに最後のほうになると、そういう蓄積がズシンと来はじめたなあ。
にえ 極度の貧しさ、そこから抜け出そうとするもがき、若年層が簡単に入ってしまえる悪の世界がすぐそこにあること、なんか圧倒されるよね。
すみ そこに俺のロサリオに対する、あまりにも純粋な愛情があるから、美しくさえ感じられるんだろうね。 読後には、やりきれなさと切なさが、一度にどっと押し寄せてきたなあ。
にえ ラテン・アメリカ文学の新世代というと、前に読んだグアテマラの作家ロドリゴ・レイローサがニューヨークで映画づくりを学んだあと作家になってて、 このホルヘ・フランコがロンドンで映画を学んだあと作家になってるから、おや、似た経歴だなと思ったけど、レイローサは前の世代になかったヒンヤリ感を加えたかなって気がして、このフランコは柔らかさを加えたかなという気がした。 冷たい熱と柔らかい熱、かな。
すみ ラテンアメリカ文学に興味があったら、やっぱり押さえておきたい作家さんだろうね。 レイローサより、こっちのほうがはるかにとっつきやすい気がするし。