すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「可笑しい愛」 ミラン・クンデラ  (チェコスロヴァキア→フランス) <集英社 文庫本> 【Amazon】
クンデラ文学の原点となる唯一の短編集。
だれも笑おうとしない/永遠の欲望という黄金の林檎/ヒッチハイクごっこ/シンポジウム/老いた死者は若い死者に場所を譲れ/ハヴェル先生の二十年後/エドワルドと神
にえ これは1992年に3人の翻訳者の共訳で出された「微笑を誘う愛の物語」の新訳です。一人の翻訳者で訳し直してほしいというミラン・クンデラの希望で、 1994年に出たフランス語の決定版を新しく翻訳したんだって。
すみ 自分の作品をまったくわからない言語に翻訳され、確認もできないまま多くの人に読まれるということへの作家の不安がうかがわれるエピソードだよね。 前の翻訳本でも問題はなかったと思うんだけど、クンデラの不安はわかる気がする。
にえ 「微笑を誘う愛の物語」のほうも見て、どう違うか確認すればよかったね。この本だと、会話の「鍵かっこ」が複数人数分の会話をまとめて囲ってあったりして、 ちょっと変った感じになってるの。「微笑を誘う愛の物語」ではどうなんだろう。
すみ まあ、それはともかく、さすがに「存在の耐えられない軽さ」より、短編集なぶん、読みやすかったね。
にえ そうだね。「存在の耐えられない軽さ」のストーリーやら何やらはすっごく好きだったんだけど、クドクドしい説明調の地の文はちょっと辛いものがあったもんね。その傾向が短編小説だと薄まってるって感じかな。
すみ 内容としては、一言でいえば「知的なほんのりエロ話」って感じかな(笑)
にえ エロ話っていうと、なんだか楽しげに響くけど、ちょっと刺々しいというか、痛々しかったよね。でも、おもしろかった。
すみ 単に短編小説を集め立ってだけじゃなくて、前の短編で出た登場人物が、あとでまた登場したりとか、深読みもできる短編集だよね。
にえ 私は背景がすごく気になったな。プラハの春前後のチェコスロヴァキアを舞台にした小説はいくつか読んだことがあったけど、こういう社会主義時代のチェコスロヴァキアの、具体的なことが 書かれているものははじめて読んだ気がする。
すみ 隣近所の人に密告されたり、行動を疑われた人が地区委員会に呼び出されて審問を受けたり、神への信仰が社会主義を進めるうちでの弊害になると問題になったり、 なんだかゾッとしてしまった。
にえ そんな中でもナンパにあけくれ、エロを追求する男たちに、人間って・・・と思っちゃうよね(笑)
すみ でもまあ、なんだか男も女も可愛らしくて共感もできて、不快感はなかったし、またこれからもがんばってミラン・クンデラを読もうかなって気になった。
<だれも笑おうとしない>
大学で助手として講義を受け持ちながら、美術史雑誌に研究論文を発表する私のもとに、ザートゥレッツキー氏という人物が訪ねてきた。私を信奉し、自分の論文にぜひ推薦文を書いてほしいという。 読んでみると、とても評価できるような代物ではなかったが、自分を評価してくれるザートゥレッツキー氏に悪いことを言いたくなかった私は、適当な言い逃れでごまかすことにした。
にえ 恋人のクラーラにはモデルの仕事を見つけてやると見つけてやると言って引き延ばしてズルズルと、ザートゥレッツキー氏には良い推薦文を書いてやるようなことを言っておいては逃げまわり、 といい加減な男の話。
すみ そのいい加減さは、生真面目だけが取り柄のようなザートゥレッツキー氏には通用しなかったのよね。過激なまでに真面目なザートゥレッツキー氏のせいで、主人公はどんどん追いつめられちゃって。
<永遠の欲望という黄金の林檎>
40歳になったばかりのマルチンは、私の親友だった。マルチンはどんな街のどんな女にでも声を掛けることができるという、私にはない特技を持っていた。 とあるカフェ・レストランで美人の看護婦と知り合った私たちは、土曜日になると看護婦とその友だちに会うため、B町を訪れた。
にえ 中年と呼ばれる歳になったことや、愛する妻がいて、もうそろそろ落ち着くべきかもってこともなんとなく意識しながら、 それでも引きずる慣習か、他に自分の存在確認方法が見つからないためか、ナンパを続ける二人の男の話。
すみ なんともいえない哀愁というか、倦怠というか、ズンと来るものがあったよね。
<ヒッチハイクごっこ>
若い青年と娘は連れだって休暇旅行にでかけた。二人には、いつもやっている二人だけの遊技があった。それは車がガソリン切れになってスタンドに寄るとき、娘がヒッチハイカーのふりをして青年の車に乗せてもらい、 はじめて出会ったふりをすることだった。
にえ これは若さが痛々しいというか、なんとも切ないお話だったな。
すみ 大胆なことができないことを気にする青年と、すぐに赤面する内気さを恥じる娘が、別人のふりをすることで大胆に、淫らになり、最初は二人ともそれを楽しんでいたけれど・・・ってお話。
<シンポジウム>
ある病院の当直室に五人の人物が集まっていた。ハヴェル先生は名うての女たらし、看護婦のアンジュビェタは醜い顔と美しい体を持ち、ハヴェル先生に気があった。 院長は禿頭で、三十代の美しい女医は院長の愛人だった。若く魅力的なフライシュマンにはクラーラという恋人がいる。
にえ これは舞台のお芝居を見るような印象。狭い空間を共有する登場人物の5人が、複雑な恋愛感情をいだきあってるのよね。
すみ クラーラが再登場。といっても、名前だけで実際には登場しないから、同一人物とは特定できないけど、アパートを探してるってことから、どうも「だれも笑おうとしない」のクラーラみたいなのよね。このへんはおしゃれな演出。
<老いた死者は若い死者に場所を譲れ>
15年ぶりに、彼は年上の女と会った。女は夫の墓が更新切れでなくなっていることを知り、落ち込んでいた。彼は女ともう少し早く、 まだ老いがはっきりと見える前に出会っていれば、もっと違う気持ちになれたのにと思った。
にえ 亡夫の墓がなくなってしまい、息子に責められると自信をなくした女と、まだ35歳なのに頭が禿げてきて、自分の魅力に自信をなくした男の15年ぶりの逢瀬のお話。
すみ 自分の、そして相手の、昔の記憶だけにしがみつく男女が哀れでもあるけれど、最後には女の強さもかいま見えて、ニンマリかな。
<ハヴェル先生の二十年後>
有名な美人女優と結婚したハヴェル先生も今は老い、三週間の療養に出向いた。ハヴェル先生のドン・ファン的魅力ももはや衰えたのか、女たちの態度は芳しくない。 それでも、ハヴェル先生を訪ねた若きジャーナリストは、ハヴェル先生を人生の師とみなした。
にえ これはハヴェル先生の哀れさが、私には可笑しかった。あらまあ、かわいそうに、な〜んて。若いジャーナリストの愚かさは惨めったらしかったけど。
すみ 男の魅力も今はなく、女に声をかけても相手にされず、のハヴェル先生が、有名女優の妻のおかげで、面目を保ち、そんな悲しい状況だというのに、本人は有頂天になっちゃってるのよね。
<エドワルドと神>
エドワルドの兄は、大学時代にある女学生をからかったのがもとで、今は小さな村で働いている。無事に大学を出ることができたエドワルドは就職口を探していた。兄は、自分を小さな村に追いやることとなったあの女が校長をしている学校で教師として働けばいいと言う。
にえ エドワルドが惚れた娘は、とっても信心深いキリスト教徒。エドワルドは神の存在なんてぜんぜん信じてないんだけど、娘のせいで誤解を受けることに。
すみ これは最後のほうのエドワルドの叫びに、社会主義の中で生きることの怖ろしさを感じさせられた。納得できるだけにドキッとさせられたな。