すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「冬かぞえ」 バリー・ロペス (アメリカ)  <パピルス 単行本> 【絶版本データなし】
現代アメリカを代表するネイチャー・ライター、バリー・ロペスの短編集。
修復/冬の鷺/バッファロー/太陽系儀/冬かぞえ/タペストリー/貝殻を持つ女/ことばを愛した男/川の在りか
にえ 前々から読む、読むと言っていたバリー・ロペスの「冬かぞえ」です。やっと読みましたっ(笑)
すみ 9つの短編が入ってるんだけど、ひとつずつは10ページ前後とかなり短く、どれもお話が始まる前に、静かな印象の絵が添えられているの。
にえ 急いでは読めないよね。一編読むごとに本から顔を上げて、しばらく余韻に浸らなければ、次に行けないって感じ。
すみ どれもジーンと来るというより、心がシンとするような、なんと言うかな、冬の星座を見上げているような気持ちになる短編だったよね。
にえ うん、今いる場所がグググッと無限に広がって、開放感と孤独感が一度に押し寄せてくるような、そういう気持ちにさせられた。
すみ とにかく素晴らしかったよね。やっぱり読んでよかった。
にえ 作者がネイチャー・ライターってことだから、人も出てこず、ストーリーもなく、自然の植物や動物を描写したような作品群なのかなと思ってたんだけど、 そうではなかったよね。
すみ そうだね。なんとも忘れがたい、印象的な人たちが出てきた。
にえ わからなかったのは、作者の悲しみかな。自然や先住民の貴重な文化が失われていくことに深い悲しみを感じているのは勿論なんだけど、それだけじゃなくて、通して読むと、 どうもこの作者は個人的にも過去に深い、深い傷を負い、それを胸に抱え込んだまま生きているという感じがしたんだけど、違うかな。
すみ 「父」が印象的じゃなかった? 「父」という言葉は何度も何度も出てくるの。それに対して、 「母」という言葉は一度も出てこないの。その極端な偏りが気になってしかたなかったんだけど。
にえ そうねえ、そこまで「父」にこだわるところに何かあるのか、それとも「母」が不在なところに何かあるのか。
すみ それはともかく、美しいという言葉では片づけられない、珠玉の、なんて言葉もちょっと違う気がする、読んだらそのあとはずっとこの本の印象を心に持ちつづけていたくなるような、そんな稀有な本でした。もちろん、おすすめ。
<修復>
ノース・ダコダ州がモンタナ州と境を接するあたり、キルディアーという小さな町の北に、フランス風の古い屋敷が建っている。もとは貴族の家だったが、今は観光名所となっていた。 そこに見学に訪れた私は、蔵書を修復しているエドワード・スローという男と知り合った。
にえ なかには16世紀の古書まで混じっているという、古く価値のある蔵書を、丁寧に、丁寧に一冊ずつ修復する男、エドワード・スローがかいま見せてくれた本の世界に、ひたすら魅了されてしまった。
すみ 窓の外も見ないで、ひたすら屋敷の一室にこもって本の修復をするスローだけど、彼の眼前には無限の世界が広がっているのね。
<冬の鷺>
十月のニューヨークの碧い空の下、男は宋画の景色のなかに入りこみ、限りなくちっぽけな自分を感じてみたいという。北へ行こう、と男は女を誘い、男の叔母の牧場に向かった。
にえ これはなにか、語られないところにこそ物語があるような、はっきりしたストーリーがないけど、なにを語ろうとしているのか耳を澄ましたくなるような小説。
<バッファロー>
1845年1月、南ワイオミングに雪が降りはじめた。数日つづいた吹雪がおさまると、川岸に野営していたシャイエン族の一団は、雪を踏み固め、馬の餌を集め、狩りをした。 「耳に挟んだ青い羽」という男が、このあと急に猛烈な寒さがやってくる、という夢をみたからだ。
すみ バッファローについて語られているんだけど、そこから失われたアメリカ先住民の美しい文化が失われつつあることへの悲しみが伝わってきます。
<太陽系儀>
アリゾナ州トゥーソンの北、ステッドマンを東にはずれたあたりに、「牧場(フィールズ)」と呼ばれる、車ではほとんど近づくことのできない平原がある。 農地にしようと灌漑したが、失敗に終わったことへの皮肉が込められているらしい。私はそこで、荒野を箒で掃いている男に出会った。
にえ まったくの隠遁生活というわけではないけれど、ほとんど人と接することもなく、一人で暮らしている男は、荒野を箒で掃きながら、小石に宇宙を見ているの。
すみ まるで仙人のような、ネパールの修行僧のような人だったね。仏教の宇宙観に通じるところがあるような気がした。
<冬かぞえ>
男は学会での発表ため、ニューオーリンズのホテルに泊まった。だが、男は自説を披露し、さらにそれを正しいと証明するために論じることに意欲を感じてはいなかった。
にえ 理論や解釈にむなしさを感じる男が、頭の中で歴史をかぞえます。これもまた、語られるものは少なくて、感じとるものが多い作品。
<タペストリー>
父が死んだ年の春、わたしは後始末をしに、マドリードへ行った。父はスペイン北部のアストゥーリアス地方の漁村クディエーロで育ったのだ。 わたしは父とともにその村で育ったエウヘニオ・ピエラという男と知り合った。彼はプラド美術館のキュレーターだった。
すみ 亡くなった父の幼なじみが、美術館に収蔵されている、「わたし」の祖父のものだったタピストリーを見せてくれるの。
にえ タピストリーっていうのがまた、絵だけから大きな物語を読みとらなければならないという物で、バリー・ロペスの小説に通じるものがあるよね。
すみ 細かい部分部分を見るよりも、全体を見て、物語を全身で受けとめる、それが一番大切だということを忘れてはならないんだろうね。
<貝殻を持つ女>
フロリダの沖に浮かぶサニベル島の砂浜で、わたしは貝殻を頬に押しあてる女を見た。話しかけたいと思ったが動くことができず、女はそのまま去ってしまった。 その女と、わたしはニューヨークのレストランで再会した。女は写真家で、北海道の農場や田舎の生活を写した写真集は私も見た覚えがあった。
にえ 個人的には、どこに行っても、貝殻を拾い集めているという女にとても共感してしまった。貝殻ってあんなに美しいのに、ひとつとして同じものはないのよ。そして貝殻は貝の歴史の積重であるとともに、 切り取られた海の歴史でもあるのよ。
すみ あなたの貝殻話はともかくとして(笑)、ここに出てくる男女は、心が惹かれあうんじゃなくて、魂が共鳴しあうような、そんな出会いだったね。
<ことばを愛した男>
彼はメキシコ人で、イースト・ロサンジェルスのスペイン語地区に住んでいた。好きでも嫌いでもない、父から受け継いだ庭師という仕事をしながら、彼は本を読みあさった。ことばというものに取り憑かれていたのだ。
にえ 庭師という仕事で労働者階級、読書からなにか得るものがあるとも言えないような環境のなか、それでも本を読まずにはいられず、言葉というものに魅了されている男。これは一緒に痛みを感じずには読めないお話だったな。
すみ 純粋に言葉を愛することがこんなに難しかったなんてねえ。それでも彼は本を読み続けるの。
<川の在りか>
1844年、歴史家のフォスターは、アメリカ西部のネヴァダ、ユタ、カリフォルニア、オレゴン、アイダホ、ワイオミング諸州にまたがる大盆地、グレートベースンに散在する砂漠から、 プラット川沿いに東に下った。フォスターはインディアンたちと長く暮らし、信用を得ていた。彼は膨大な資料を書き残していた。失われていなければ、後生にどれほどの影響を与えていたかわからない、詳細かつ鮮烈な内容だったらしい。
にえ アメリカ先住民の文化を学び、自然への深い造詣を示した男が、どんな末路をたどったか。これもまた、痛みを感じずには読めないお話だった。
すみ 失ったものの大きさに圧倒されるよね。