すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「ベル・カント」 アン・パチェット (アメリカ)  <早川書房 単行本> 【Amazon】
日本最大のエレクトロニクス企業<ナンセイ>の社長カツミ・ホソカワは、南米のある小国で、自分の誕生日パーティーを 開いてもらうことになった。もちろん、相手国の狙いは工場誘致。先が見えないほど貧しいその国は、大企業の力を借りて財政難を切り抜けようと必死だった。 ホソカワはその国に工場を建てるつもりはまったくなかった。しかし、誕生日パーティーの誘いは断れなかった。 なぜなら、世界的な女性オペラ歌手ロクサーヌ・コスが招かれることになっていたからだ。ホソカワはオペラを愛していた。 会社を大きくすることに他のすべてを犠牲にする彼の生活のなかで、オペラだけが潤いだった。そのなかでも、 最近夢中になっていたのが、ロクサーヌ・コスの歌声だった。副大統領官邸で開かれたパーティーには、 世界中の要人たちが集まってきていた。ただ、大統領の姿だけは見えなかった。大統領は自分の好きなテレビ番組を見るために、 ぎりぎりになって欠席を決めていたのだ。そこに、大統領拉致を狙うテロリストたちがやってきた。
オレンジ小説賞、PEN/フォークナー賞受賞作品
にえ これはアメリカ人の作家が書いた小説の翻訳本で、メインになる登場人物の多くが 日本人ってことで、最初はどうかな、とビクビクしながら読みはじめました。
すみ 申し訳ないぐらい美しく書いてくれてたから、心地よく読めたよね。
にえ 日本人に限らず、すべてが予期せぬ美しさだったけどね。ほんとにもう、ため息が出るほど。
すみ ストーリーは、南米のとある国で、日本の大手企業<ナンセイ>の 社長ホソカワのための誕生日パーティーが開かれ、そこに突然、テロリスト集団がやってきて、占拠されてしまったというところからはじまるの。
にえ 人質になった人たちがとても穏やかで紳士的で、ちょっとこれって現実離れしてない? ん、でも、 似たような現実の話を聞いたことがあるぞ・・・あ、そうだ、ペルーの日本人大使公邸占拠事件のとき、たしかあとで人質になった人たちがこんなふうな話を してた、と思いだしたのよね。で、あとがきを読んだら、やっぱりあの事件がモデルとなってるらしくて、納得。
すみ この小説では、占拠されるのは副大統領官邸。襲ってきたテロリスト集団は、 幸運にもあまり過激ではない<マルティン・スアレスの家族>というグループ。
にえ 指揮官3人が大人なだけで、あとはまだ幼さの残る少年たちなのよね。
すみ <マルティン・スアレスの家族>は大統領を拉致して、刑務所に入れられている自分たちの仲間を救い出すつもりだったんだけど、 なんと大統領は彼らが知らぬまにパーティーを欠席していて、しかたなく、出席者たちを人質にして、副大統領官邸に立て籠もることに。
にえ となると、なかでは人質たちとテロリストたちの息詰まる攻防と、そとでは人質たち救出のためのハラハラものの 駆け引きが・・・と想像したくなるんだけど、じつは全然違うのよね。
すみ 最終的には、テロリストたちと人質たち、あわせて58人になるんだけど、 この58人は、外界からまったく閉ざされた状態で、まるで楽園のような美しい世界を作り上げていくの。きわめて牧歌的。
にえ テロリスト集団の占拠事件というより、いろんな国の人の集まりが、海を漂流して美しい無人島にたどりつき、 協力してともに暮らすようになる、みたいなイメージよね。
すみ しかも、その無人島がほんとうは副大統領官邸だから、数え切れないほどの美しい部屋があり、 磨き抜かれた美しい家具があり、有名なメーカーの何セットもの食器が揃い、大きなテレビがあり、ジェットバスの風呂があり、いい香りのする石鹸があり、 と住み心地は満点。
にえ そのうえ、外から届けられる、食べきれないほどの食糧もあるのよね。足りないものはなにもない。
すみ 貧しい寒村出身のテロリストの少年たちにとっては想像もしなかった豊かさが、これまであくせくと働くことだけを目的に生きてきた 人質たちにとっては予期せぬ休暇が、いきなり天から与えられたことになるわけ。
にえ なんでも豊かにある、しかも、何もしなくていい。しかももうひとつ、 この楽園には音楽があるの。
すみ 世界一ともいわれる歌声の持ち主のオペラ歌手ロクサーヌ・コスの歌があり、 才能を隠し持っていたピアニストの演奏があり、音楽が溢れ、人々の心はより満たされることになるのよね。
にえ テロリストたちの要求は通らず、楽園の日々は長引くばかり。最初のうちこそまだ 少しはあったテロリスト、人質の区分けさえ、だんだん不明瞭になっていき、人々は恵まれた環境のなかで、それぞれが 自分のいいところだけを引き出し、たがいに賞賛しあえる関係になっていくの。
すみ そんな中で、愛が生まれはじめるのよね。純粋に相手を求める男女の愛、 それから、大人と子供とのあいだに当然のように芽生える疑似親子のような愛。
にえ ある意味、ストーリーの大部分では衝撃的なことは起こらず、時がゆったりと過ぎて いくんだけど、読みだしたらやめられなくなった。登場人物たちが、とにかくいいのよね。
すみ 私は副大統領のルーベンが好きだったな。生まれてから一度も家事なんてやったこともないのに、 立て籠もりがはじまってからは、なんといっても自分がホストだという責任感が芽生え、家事に取り組みはじめるの。
にえ ゴミを拾い、床を磨き、洗濯をして、なんとか屋敷を美しい状態に保とうとするのよね。 それも嫌々じゃなく、だんだんと家事じたいに情熱を持つようになって。
すみ あと、フランス人大使のシモン・ティボーも印象的だった。この国に来てはじめて妻への愛に目覚めた男で、 妻のスカーフを首に結びつけてマントのようにヒラヒラさせてるの。
にえ 私はロシア通産大臣のヴィクトル・フョードロフが好きだったな。敬愛するロクサーヌ・コスに 自分の愛を伝えるため、汗びっしょりになってドギマギしちゃって、最初はちょっと可愛いのと気持ち悪いのの半々だったけど、 芸術を愛でる精神をお祖母様から教えられた話にジンと来た。
すみ テロリストのほうの、ベンハミン指揮官も好きだったな。元小学校教諭で、 刑務所に入れられた弟を助けるために、こんな大胆なテロの指揮官になってしまうんだけど、いくらテロリストの指揮官らしく残酷なことを口にしてみても、 優しさと知性が滲み出すぎてしまっているの。
にえ テロリストの少年たちも、しだいに個性を発揮しはじめるのよね。恵まれない環境に育ったために見逃されていた才能が 芽吹きはじめ、歌に、チェスに、と才能を見せだすの。
すみ でも、なんといっても主役級は、まず、ホソカワの専属通訳のゲン・ワタナベ。ゲンは何カ国語もしゃべれる 語学の天才のような青年で、気遣いもスゴイの。いろんな国の人が雑居することになるここでは、やたらと重宝がられるんだけど、言語を学ぶために 費やされてきた彼の人生にも、ここで愛の灯がともることになるんだけど。
にえ いつも穏やかで、冷静さを失うことのないホソカワもまた、初めて愛を知ることになるのよね。それから、 美貌の歌姫ロクサーヌ・コスは、女王のように愛の頂点に君臨することに。
すみ すべてが豊かで、音楽に満ちた桃源郷のような世界。でも、もちろんここは 本物の理想郷ではなく、あくまでも不幸な国際的テロ事件の上に偶然できあがった儚い幻の世界でしかないから、いつかは・・・。
にえ やさしく甘く切ない内容のようで、冷ややかなほどの知性を感じさせる抑えた文章も、 書かれている美しさも残酷さも、とにかくすべてが心の深いところに染みてくる、素晴らしい小説でした。大絶賛しちゃうっ。