すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「ダロウェイ夫人」 ヴァージニア・ウルフ (イギリス)  <みすず書房 単行本> 【Amazon】 角川文庫
ロンドン、6月1日の朝、クラリッサ・ダロウェイは散歩へと出掛けた。政治家夫人である51歳の彼女はその夜、自宅で パーティを開く予定になっている。さわやかな気分で歩いていたクラリッサは、ピーター・ウォルシュがもうじき インドから戻ってくることを思い出した。もうずっと、ずっと昔のこと、ピーターとはヴァトンで恋愛関係にあった。 ピーターはクラリッサを完全無欠な女主人の素質を備えているとけなしたのだ。だから、ピーターと結婚しなかったことは正しかったと今も思う。 仲たがいをして別れてすぐ、ピーターはインドへ渡った。渡航の船上で知り合った女性と結婚したと聞いている。
にえ 20世紀文学の最高傑作との呼び声も高い、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」です。
すみ ヴァージニア・ウルフはいつか読もうといいながら、なんか自分には理解できないような詩的で、 流麗な文章なんだろうとか、ほとんどストーリーなんてない情景描写タップリの文章を延々読まされるんだろうなとか、勝手な想像ばかりが 膨らんで、あとまわし、あとまわしにしてたんだよね。
にえ そうそう、なんか手に取ってみることすらしなかったから、かってに辞書のような分厚い長編ばかり だろう、なんてことも思ってたし。
すみ いざ読もうと思って見てみたら、意外と厚くない本ばかりだった、と そこからもう違ってたね。
にえ おまけに、ちょっとゴツゴツとひっかかるような文章で、え、と思った。
すみ じつは私たち、翻訳者さんの文章がアレなのかな〜なんて失礼なことまで考えて、 他の出版社から出てる違う翻訳者さんの同作品にも目を通したんだよね。
にえ そうそう、そしたら、選ばれた言葉は違ってても、引っかかり感は同じだった。それでさらに、この作家さんの文章は 英語のリズムでのみ流麗で、日本語ではこうなっちゃうのかなと、この作品を紹介しているイギリスのサイトを見てまわったりもしたの。
すみ そこまでやって、やっと納得。流れるように読みやすい文章、というわけではないのよね。
にえ 流れるのは意識のほうでした。
すみ そうなの。この小説は6月1日という、たった一日のお話。でも、見るもの聞くもので 登場人物たちの意識は三十年という歳月を行き来し、さらに登場人物たちのあいだを行き来し、最初から最後までが、ひとつのうねる線で連なってる ような感じ。
にえ 登場人物はまずダロウェイ夫人ことクラリッサ。クラリッサは病気をしたために 少しだけ老いが目立つようになってしまったけれど、それでもなお美しい51歳の女性。
すみ 夫との生活にも満足し、けっして派手好きではないけれど、パーティを開いたりして、 けっこう明るく生きている、でも、心のどこかにはこれで良かったかなという思いがあるのよね。
にえ クラリッサが自分に疑問を持つようになったのは、若い頃に出会ったサリーと ピーターが原因、かな。
すみ 辛辣で奔放で、クラリッサを愛しながらも、いつもその存在感でクラリッサを圧倒してきた サリーは、クラリッサをスノッブだと批判したのよね。
にえ クラリッサが人生で一番理解し合えたと感じているピーターも、クラリッサを 女主人的すぎると非難したの。
すみ 二人はほぼ同時期にヴァトンでクラリッサと愛し合い、仲たがいして別れてそれっきり。 でも、非難しながら今でも、クラリッサを崇拝し、敬愛している。
にえ 意識はいろいろな人を経て流れていき、レィツィアというクラリッサとは接点のほとんどない 女性にもつながっていくのよね。
すみ レィツィアはイギリスでは孤独な、クラリッサほどの財力もないイタリア人女性で、夫の セプティマスが精神を病んでいることを悩んでいるの。
にえ レィツィアの不幸は、夫婦として暮らすうちに夫が精神を病んだのではなく、 知り合った最初の時から、すでに病んでいたことにあるよね。イタリアで知り合ったときすでに、セプティマスはまともに ふるまってはいたけれど、感情を失っていたの。
すみ セプティマスは感情を失っていたのに、レィツィアはそれを感情を抑えた イギリス人の好ましい特徴だととらえて、セプティマスと結婚してしまったのよね。
にえ 夫婦として暮らすうちに夫が精神を病んだのなら、運命を呪うこともできただろうけど、 充分に観察しながら感情のない人を感傷を抑えた人と取り違え、結婚してしまったんだから運命を恨むことすらできない。
すみ さらに意識の描写は、セプティマスの狂気のなかにも入りこんでいくの。戦争中に一人の男性を愛し、失い、 セプティマスは少しずつ、病んでいったのだけれど。
にえ レィツィアはセプティマスが治ると信じているけれど、セプティマスの意識をのぞける私たちには、 セプティマスの狂気がもう救い出せないようなところまでいっているのがわかるのよね。
すみ そのセプティマスの狂気までもが、死を意識したクラリッサの象徴でもあるのよね。すべてはバラバラのようでひとつに繋がっていて、 気づいてみれば文章のリズムにも慣れ、時を自由に行き交い、人と人のあいだを行き交う、ひとつの流れに身をまかせていたのでした。